荒野に

トチシュン

第1話  歩く男

 気が付けば男は立って居た。何もない荒野に。

 何処までも平坦に続く荒野は、草木一つなく起伏もなく果てしなく続いていた。

 此処は一体何処なのだろう。男は思った。こんな所にたった一人で、何処へ行けばいいのだろう。見渡す限り何処を向いても同じ光景が続いているのだ。

 男はただ茫然と立ち尽くし、何かを考えようとすることすら思いつかない程だった。

 だが虚ろなその思考の中、遥かな地平線にこの自分が立つ大地が丸いのだということが浮かんでは消えて行った。

 男の立つ果てし無い荒野は、熱くもなく、寒くもなかった。空に雲は無く、大地と同じように何処までも果てし無く、そして薄暗かった。

 ふと見ると、男は足元に一本の杭が打ち込まれているのに気が付いた。

 こんな所に一体誰が、何のためにこんな物を打ったのだろう。

 男は何もかも分からなかった。一体これは何なのか、何をどうすればいいのだろう。何処へ行けば・・・・。

 男は生きるべき総てのことを知らない者の様に、途方に暮れていた。

 まっすぐにゆけ!

 その時、何かが頭の直ぐ後ろでいった。そして、その何かに背中を押されたような気がした。男は歩きは出していた。その声に、一歩を踏み出して・・・。


歩く、歩く、歩く。男はただひたすらに歩き続けた。あてもなく、希望もなく。ただ歩き続けた。

 この先には何があるのだろうか?

 男はそれを思わなかった。男は歩いた。真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに・・・。


 どれ程歩き続けただろうか。男は踏み出した一歩をひたすら真っ直ぐに歩き続けていた。そして、地平線の彼方に一人の人影を見た。だが男は自分の道を変えずに歩いた、真っ直ぐに。

 やがてその人影は男であることが分かった。こちらに真っ直ぐにその男が歩いて来ていたからだ。

 そしてその男は男の直ぐ目の前まで来ると、お前は何処へ行くのか、と聞いてきた。

 男は答えた。私は真っ直ぐに歩いて行く、と。

 すると相手の男は言った。

 お前は間違っている、真っ直ぐに進むのなら、私の今の歩いている方こそが真っすぐの道なのだ、そして私と共にこの道を行こう、と。

 男は首を横に振って言った。

 いいえ、私は自分の踏み出したこの道を真っ直ぐに歩いて来たのです。そしてこの道を真っ直ぐに進むのです。

 すると相手の男は残念そうに、間違った道を行くのだな、お前は。

と一言いい残してすれ違って歩き去って行った。

 男は振り返ることもせず、また歩き始めた。そして、ふと思った。あれは一体誰だったのだろうかと。何故か相手の男に懐かしいと思う記憶があったからだ。

 そうだ、あれは幼い頃の微かな記憶の中にあった、今はもう顔も声も思い出せない、朧な思い出の中にいた幼き日の友の記憶だ。

 そう思うと男の中に僅かな迷いと後悔の気持ちが芽生え、後ろ髪が引かれた。

 振り向きたいと思った。だが、振り返りはしなかった。そして歩き続けた。


 男は歩き続けていた。真っ直ぐに。そして今度は遥か右の彼方からこちらにやって来る者がいた。そして男はその者と出会った。それは美しい女であった。

 女は言った。あなたは何処へいこうとしているのですか?わたしは正しい道を歩いています。私と一緒にいきましょう、と。

男は言った。私は真っ直ぐに歩いているのです。私の歩いている道が正しいかは私も分かりません。ですが私は真っ直ぐに歩いて行くのです。

 女は一瞬悲しそうな表情を見せた。そして冷たい目で男を見ると、何も言わずに歩き去って行った。

 男は虚ろな目でしばしの間宙を見ていたが、やがてまた歩き始めた。今度は後ろ髪も引かれなかったし、振り返りたいとも思わなかった。それは少しでもその気持ちを出せば後戻り出来なくなってしまうからだと、男は分かっていたからだ。


 男は歩く、真っ直ぐに。そして遥か左の彼方から今度は年嵩の男が来て言った。

 お前は一体何処に行っているのだ!と。

 年嵩の男は、博識に溢れた表情と人生経験を顔の小さな皺に滲ませ、男を叱りつけた。

 男は少し狼狽したが、直ぐに落着きを取戻した。男は言った。

 はい、私は真っ直ぐに歩いて来たのです。この先に何があるのかは自分でも分かりません。しかし私はこの踏み出した一歩を歩いて行こうと思います。

 年嵩の男は、それに苛立たしげな咳払いをし、厳しい目で男を見た。そして、

 お前はそうやって、私の言うことも聞かずに行くというのだな、間違った道を。

と寂しそうに言うと、暫く無言で男を見つめてから、歩き去った。

 男は言葉なく俯き、目を閉じた。何故か涙が出そうになった。そして、その胸の奥から突き上げる哀しさを静めると、迷いも消え男はまた歩き始めた。


 男は歩いた。真っ直ぐに。ひたすらに。すると男の歩く前方に、何か黒い影が横たわって居るのが目に入り、やがてそれは黒い服を着た女であることが分かった。 女は怪我でもしているのか、力なく地に座り消え入りそうな呼吸で視線を横に向けていた。

 男は足を止め、女を見て言った。

 どうかしましたか?何所か体を痛めてるのですか?

 その声に女が顔を上げると、それは昔男が愛した女であった。そして女は足を痛め歩くことが出来ないのだと言った。男は表情を変えることなく驚いていた。

 女は言った。あなたは何故そちらへ行こうとするのですか?その先に一体何があるというのでしょう。

 男は女のその問いを聞いて、以前この女と共にいた時の記憶が蘇った。

 男は答えた。私は自分の歩いて来た道を、ただっ真っ直ぐに歩いて行くだけです。

 女は首を振った。そして小さな声で、しかしはっきりとした口調で言った。

 あなたの言う真っ直ぐな道とは、そちらではありません。私がここまで来たこの道の向こうなのです。もう一度私と一つになって、一緒に行きましよう。そして傷ついた私の力になってください

 男は女が指差して言う、その方を見て言った。

 そちらは私の行く真っ直ぐの道でありません。あなたの方こそ間違っていることはありませんか?私はあなたが私と同じ道を行くのなら、あなたの足となることも出来ます。

 女は静かに首を振り、男とは違う方を指差した。男は無言で頷くと、静かにまた歩き始めた。

 歩く男の胸と記憶に、昔が蘇った。男は女を心から愛していた。苦い記憶。

 女のついた自分を庇う小さな嘘が嘘を呼び、やがて女はその嘘が支えきれなくなった時、それを男に擦り付けることで自分を救い、男はそれを承知で女を庇った。そして女は去り、男は一人になった。


 男は歩いた、果てしのない荒野を。何も考えず、何も思わずに。まるで総ての記憶を消し去りたいかのように、男は歩いた。歩き続けた。そしてどれ程の人と行き交い擦れ違っただろうか。右からも、左からも、、前からも。

 しかし誰一人として男と同じ道を歩いて来る者は無く、男ももう立ち止まりもせず、それらの者に気を逸らしもしなかった。そして男は誰とも出会わなくなった。

 男はそれでも歩き続けた。ただ真っ直ぐに。ひたすらに。何もない荒野を。

 遥かに続く地平線には、草木一つなく、何方を向いても見渡すかぎり平坦な荒野が何処までも続いている。

 男は足を止めた。そして四方を見渡した。ただ何もない荒野が何処までも続いているだけだった。そしてふと足元を見ると、最初に荒野の真ん中にいることに気づいた時足元にあった杭がそこにあった。

男は呆然とした、と同時に自分は真っ直ぐに、迷わずに、歩き通したのだということを知った。

 そして思った。こんな所で一体どうすればよいのだろうと。すると頭の直ぐ後ろで、

 まっすぐにゆけ!

という声が聞こえ背中を押されたような気がした。

 男はその一歩を踏み出していた。

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