第2話

 突如として降りだした雨はアパートの輪郭をぼやけさせ、俺の足取りを鈍らせた。あまり気は乗らないが、自身の納得のためだ。俺はそう考えながら、例のアパートに足を踏み入れた。

 大家はすんなりと合鍵を渡してくれた。明らかに気落ちしている様子で、「あの部屋はもう取り壊すつもりだ」と言うのだ。嘘を吐いた責任を感じているのだろうか。


 須田の住んでいた4階は、不思議なほど静かだった。同じ階の住民も自殺を不気味に思っているのか、昼過ぎだと言うのに人の気配はない。彼らは、尚もこのマンションに住み続けるのだろうか?

 402号室の扉は一部を除き、数週間前と特に変わった点はない。そのためか、その変化がより目に付いた。開けた扉と壁の隙間にひっそりと盛られた塩と、ドアノブに無造作に架けられた数珠だ。除霊にしては、少しおざなりなように思える。

 俺は唾を飲み込み、ドアノブに手を掛けようとする。怪しげな黒珠で形作られた数珠が揺れ、冷たい感触が掌に伝わった。


「キミ、あんまり触らんほうがいいで?」


 背後の声に振り向くと、そこには見慣れない男が立っていた。ハンチングを被った無精髭の中年男は、ニヤニヤと笑いながら俺の手を指す。


「そのドアノブにちょっとだけペンキ塗ったんや。変な奴が遊び半分に入ってこんようにな?」

「……えっ?」


 青色に染まった手を確認し、中年男はさらに破顔した。困惑する俺をよそに、男は次の言葉を継ぐ。


「さっき大家に合鍵借りに行ったら『須田くんの知り合いに貸した』って言うから、飛んできたわ! ごめんやけど、その合鍵を渡してもらっていい?」


 俺は男を怪訝な目で見つめる。正直、彼が信用に値する人間かはわからない。見るからに怪しい男だ。それこそ、遊び半分に現れた野次馬ではないか?


「そもそも、あなたは何者ですか……?」

「ん、俺? 生前の須田くんに相談受けてた、霊能力者!」


    *    *    *


 室内は荒らされたように物が乱雑に積まれ、須田の心象風景とリンクするかのように足の踏み場もない。片付ける余裕もなく、精神を摩耗させてしまったのか?

 俺はリビングに向かい、例の動画と同じ角度で一角を見据える。そこには、ちるだ様の影どころか黒い染みすらない。


「この辺に霊の気配はないなぁ。やっぱり事故物件とかではないで、ここ……」


 霊能力者を名乗る男は俺を追うようにリビングに足を踏み入れ、周囲を注意深く見渡す。この部屋が本物の事故物件であることなどは最早どうでもよく、俺は『ちるだ様』について話すべきかを逡巡していた。狂人扱いされかねないからだ。


「やっぱり、霊能力者って事故物件とか色々見て回るんですか?」

「せやね。ただ、95%くらいの確率で霊はおらんよ?」


 須田も様々な事故物件を転々としていた。どれも曰く付きだったが、霊は出なかったのだろう。


「そもそも、人が死ぬのなんてだいたいが家か病院やで? ほとんどの場所が曰く付きになるよ。それに、霊もキミらが思ってる以上にはおらん。この国で年間何人死んでると思う? どれも霊になってたら、めちゃくちゃ人間が肩身狭いやん」

「じゃあ、なんで霊能力者なんて仕事があるんですか? 詐欺では……?」


 キッチンを観察していた男は、思わず噴き出したようだ。少しせながら、水を飲もうとコップを探す。


「あながち間違ってないかなぁ。俺らは安心を売る仕事やから……」


 水を出すため蛇口を捻ろうとし、男は首を傾げた。一瞬,その目が険しくなる。


「蛇口、外してあるな……」


 瞬間、飛ぶように走った男は廊下を抜ける。俺が様子を見に行くと、風呂場を確認していた。


「洗面台の蛇口も外されてる。浴室のシャワーヘッドも、カランも! 大家は手付けてないって言ってたから、須田くんがやったな!?」

「あの。それより、上……!!」


 霊能力者もそれに気づいたようだ。洗面台も、浴室も、鏡が粉々に割られている。


「キミが前にこの部屋来たとき、他に鏡はあった?」

「リビングに掛けてありました。須田も、鏡について俺に話してます」

「……その話,詳しく聞かせてもらおか」


「俺が数週間前にここで須田と飲んだとき、あいつは明らかにやつれてました。生気がない顔でしたが、明らかに興奮した様子で『本物を引き当てた』って繰り返してたのを覚えてます」

「須田くんのライフワークやもんなぁ、事故物件巡り……。霊なんて滅多におらんっていつも言ってたんやけど……!」


 リビングの座椅子に腰かけ、霊能力者は眉根を寄せる。胡散臭さはとうに消え、どこか頼れる風格さえ醸し出している。俺は彼の名前を聞かなかったことを後悔していた。


「須田が見たのは、霊じゃないらしいんです。〈ちるだ様〉って言って、地元の神さまだって……」

「あぁ、俺もその話は耳に入ってる。続けて?」

「須田はちるだ様の特徴を詳しく語ってました。……俺も、一言一句覚えてます。真っ黒な格好で、眼が」

「その説明は要らん。あと、名付けるのもやめとき」


 俺の言葉を制止した霊能力者は、既に鬼気迫った表情だ。困惑する俺に諭すように、彼は二の句を継ぐ。


「人間の恐怖ってのは二種類あってな。 未知の物への恐怖と、知っている物への恐怖。〈幽霊の正体見たり枯れ尾花〉って言葉からもわかるけど、“霊”という概念を知ってるから感じる恐怖ってのもあるはずやねん」

「思い込み、プラシーポってことですか?」

「95%の“霊とされるもの”はな。で、残りの超自然的な5%の中に、〈名付けによって固定された概念〉ってのがある。これは、ある種の信仰みたいなもんやねん。自然災害に神の名前をつけて畏怖するとか、対立する宗教の主神を悪魔に組み込むとかな。そういうモノは名付けによって存在強度を上げる。須田くんとキミは、得体の知れない物に名前を付けて神にしてしまったかも知れへんねん……」


 返す言葉が浮かばず、俺は黙りこくった。その様子を察してか、霊能力者は声のトーンを少し落とす。


「ソレが須田くんの地元の神様の名前ってのは本人から聞いてる。外見までは聞いてないけどな。でも、彼の地元……N県では、そんな信仰なんて存在しないんや。検索にも出てこんし、文献にもない。念のため彼の地元で聞き取りもしたけど、そんな神様なんか誰も知らんって。秘匿されてる信仰の可能性もあるけど、須田くんの創作である可能性も高い」

「そんな……そんなわけないですよ。あの語り口は真剣そのものでしたし、それに……」

「ソレ自体は創作でも、鏡割ったり断水するのは異常や。考えられるとすれば、両方とも自らの身を写すものってことか……」


 霊能力者はリビングの照明を落とし、ベランダへ続く窓ガラスを凝視する。外の空は曇って暗くなっており、鏡のように俺たちの表情を写した。


「須田は、ソレが鏡に向かって何度も頭を打ち付けるって言ってました。多分、鏡の中に入ろうとしてる、って……」

「悪手やな。そりゃ最後にベランダから飛び降りるわ。ここしか逃げ場ないもん」


 霊能力者はポケットから数珠を取り出し、祈りを捧げる。その後、俺の方を向き直り、再び自らの見解を述べた。


「結論から言えば、須田くんは不運やった。どこから聞いたか、彼はここを本物の事故物件やと思い込んどったねん。で、元々彼が誇大妄想的に考えてたソレに、悪いモノが反応してしまった。結果として生み出された怪異は、強い自我を持たない空虚な存在や。だから、自らが写るものを苦手としてた。わかるかな。鏡に入ろうとしたんじゃなくて、鏡を割ろうとしてたんや」


 俺の疎い頭でも、状況は飲み込めた。須田は、部屋中の鏡を割っていたのだろう。それでも頭を打ち続けた怪異に、彼は最後の鏡の存在に気づく。窓ガラスだ。そして、耐えられなくなり、飛んだ……。概ねそういうところだろう。


「逃げ道を絶っていくごとに、怪異はどんどん強くなっていってたはずやねん。でも、今ここに影も形もない。となると、移動したはずや。キミは、須田くんからソレの姿を説明されたな?」

「……はい。聞いた段階では、妙なリアリティがあって嘘か本当かわかりませんでした。でも、須田のSNSを見てしまったんです。鍵アカウントなので俺以外は見てないはずなんですけど……。毎夜、定点カメラみたいな角度でこのリビングの一角を撮った画像がアップされていました。最初は黒い染みだったんですが、徐々に実体を得てきて、最後には……」


 男の表情が険しくなる。既に胡散臭そうな態度は鳴りを潜め、部屋の空気が張り詰めた気がした。


「須田くんも抱え込むには限界やったんやろうなぁ。結果がこれや。観測によって強くなった怪異に名前が与えられて拡散されたことで、ミームとして伝播したな……」

「でも、須田が死んでからは見えないんです! 俺、怖くて……」


 霊能力者は俺の肩を優しく叩き、静かな声色で諭すように、言った。


「明日の夜、もう一回ここに集まらへん? ここで、決着つけるべきやと思うねん」


 彼に肩を叩かれると、不思議と安心で満たされる。彼が安心を与えるプロだという事を思い出し、俺は少し救われた気分になった。

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