ちるだ

第1話

 壇上のモノクロ写真に写る須田の表情は、数週間前とは異なり健康そうだ。

 俺は視線を落とし、棺の中の彼を垣間見た。死化粧で隠されてはいるが、顔を掻きむしったような跡は消えていない。僅かに朱に染まった頬は数週間前は痩けていたし、目の下にあったくまも上手く隠されている。


「まだ若いのに、なんで自殺なんか……」

「上京して精神的に辛かったのかねぇ。可哀想に……」


 ヒソヒソと話し合う須田の親戚を無視し、弔問客から見知った人物を見つける。彼とは数ヶ月前に会ったばかりだ。俺はハンカチで手汗を拭い、放心しきった表情の赤井に声を掛ける。


「よぉ、あの時ぶりだな……」

「お前か。まさか須田が死ぬなんてな……」


 赤井は見るからに憔悴している。恐らく須田の死を気に病んでいるのだろう。俺は形式的な励ましの言葉を掛けながら、内心で赤井の所業を思い起こしていた。須田の自殺は、少なくとも赤井がきっかけだろう。


    *    *    *


 俺が数週間前に須田の家に泊まった夜、須田の顔に生気はなかった。机に並べられたスーパーの半額惣菜をつまみながらビールを開け、彼は何かを飲み込むように咀嚼する。


「ここは凄いんだよ。ついに本物見つけたわ、俺」

「その割には綺麗なんだな。もっとボロいのかと思ってたわ」


 S区で駅から徒歩5分、2DK。築15年のアパートで35000円の家賃は、やはり破格すぎる。何か跡があるのかと思ったが、リフォームされたのかとても綺麗だ。噂の真意が本当なのかは、俺では判断がつかない。


「昨日も見たよ。その部屋の隅、焦げてるみたいに黒いだろ? そこから滲み出るみたいに、湧いた」

「湧くものなんだ、そういうのって……」


 俺と須田と赤井は大学の同期で、社会人になった後も時折酒を酌み交わす仲だ。数ヶ月前も三人で飲みに行き、須田に赤井が勧めた物件がここだ。

 須田は在学時代から、オカルトへの興味を隠さなかった。N県から上京して『事故物件』というものに興味を示したらしく、通学圏内の事故物件をヤドカリのように転々と住み続けていた。

 学生だった俺たちは須田の語るオカルト語りを半信半疑で聞いていた。霊能力者の知り合いがいる、などという話は本気にしづらいのだ。

 だが、当時の赤井は違った。いい事故物件がある、と居住を勧めたのだ。須田は目を輝かせて即座に契約した。


「首吊りだっけ、ここ」

「首吊りだよ。俺が見たのは別だけど……」


 含みのある言い方だ。俺は興味が湧き、それとなく語りを促す。須田は酒が入ったせいか妙に上機嫌で、流れるように語り始めた。


「なぁ、ちるだ様って知ってる?」

「ちるだ様……?」


 手元のスマートフォンではヒットしないその言葉を尋ね返すと、須田は濡れた指で机に字を書く。〈血流墮〉と書くらしい。


「俺の地元で祀ってる神様なんだけど、真っ黒な格好なんだよ。顔には眼が縦に三つ並んでて、白粉塗ったみたいな肌の色が闇にぼうっと浮かび上がるんだ。眼からは血の涙を流してる……」


 目撃したかのような臨場感の語りに引き込まれ、俺の脳内にその神様の姿が浮かぶ。たしかに恐怖を感じる造形だ。


「ちるだ様はな、深夜になると部屋の壁に頭を打ち付けるんだ。ごんっ、ごんっ、ごんって。歯軋りみたいな音を立てながら、ごんっ、ごんっ、って。俺が目を覚ますだろ? 居るんだよ、そこに。ケタケタ笑いながら、俺の方に振り向くんだよ。三つの目で俺を縛り付けるように見つめながら、長い髪を振り乱して」


 与太話と笑うには、実感が伴っている。俺は惣菜へ伸ばす手もそこそこに、須田の話を黙って聞いていた。


「そこ、鏡掛けてあるだろ? 縁にヒビ入ってる。鏡に入ろうとしてるんだよ、ちるだ様が……」

「……嘘だろ?」


 須田は虚ろに笑っている。妙に鬼気迫る語り口は虚実が一見してわからず、割れた鏡という証拠が、その神様の実在性を静かに補強する。俺は虚勢を張るように笑い飛ばし、散らかした荷物を手元に手繰り寄せた。


「そろそろ終電だし、帰るわ。今日はありがとな……」

「待てよ、待てって! 嘘じゃない、信じてくれよ……」


 嘘だと判断しきれないから不気味なんだ、とは言えない。俺は飛ぶように廊下を駆け、足早に玄関を抜けて四階分の階段を降りる。とにかく、すぐに逃げたかったのだ。


 今にして思えば、もう少し須田の話を信じてやるべきだった。


 それ以来、須田のSNSには毎夜、部屋の写真が投稿されている。固定カメラで例の一角を写した写真が、何のキャプションも付けずに投稿されているのだ。

 照明が落とされた暗い部屋を捉えた写真は、俺以外のフォロワーには別に気に留めることもない些事なのかもしれない。実際に、彼の鍵付きアカウントをフォローしている関係者たちは、無関心を決め込んでリアクションすら取っていない。

 だが、俺には段々と見えるようになっていた。写真に写っている壁の黒い染みは徐々に大きくなり、彼の言う“ちるだ様”の姿を取り始めているのだ。


 ある日は、輪郭がハッキリと見えた。排水溝に詰まった髪を思い起こさせる黒は、妙な気味の悪さがある。静止画であるはずなのに、今にも動き出しそうだ。

 次の日は、顔だ。例の三つの眼に直視され、俺は思わず胃の中の物を吐いた。病的なまでに白い肌に浮かび上がる真っ赤な唇は笑うように歪み、俺を馬鹿にしているようだった。

 また次の日、ちるだ様は血の涙を流している。口の端を歪めたまま、俺を血走った眼で凝視している。それだけじゃない、俺に向けてまっすぐ腕を伸ばしているのだ。迎えに行く、とでも言いたげに……。


 日に日に実体を得ている怪異の写真は出来の悪いパラパラ漫画のようで、俺はその度に頭を悩ませる。彼の投稿をミュートすれば済む話なのだが、不思議と目が離せないのだ。むしろ見ないことを選んだ時点で、脳裏に精巧なちるだ様の姿が映る。どうやら、逃れられないらしい。


 そうして何週間か経ったある日、須田の投稿がぴたりと止まった。既にちるだ様は眼球の血管が見えるほどカメラに接近していて、俺の精神が限界を迎えていた時だ。

 決まった時間の投稿が止み、俺は安堵と困惑の最中にいた。なぜ止まったんだ? ちるだ様が、俺のことを赦したのか?


 疑問はすぐに解決した。須田が4階から飛び降り自殺をしたのだ。


    *    *    *


 須田が死んだのは、おそらく“ちるだ様”の所為だろう。彼は本物の事故物件を掘り当ててしまい、死を選ぶまで自らを追い詰めてしまった。

 だが、目の前で項垂れている赤井にも責任はある。なにせ事故物件を紹介したのだ。俺の恐怖体験の間接的な原因も赤井にあると思うと、形式的な慰めにも心が籠らなくなる。


「俺のせいなんだ。俺が冗談で事故物件なんて紹介したから……」


 いくら須田の意思とはいえ、冗談で本物の事故物件を紹介していいわけがない。俺はそのような気持ちを呑み込み、無言で頷く。


「知り合いの大家が売れない部屋がある、なんて言うから……口裏合わせただけなんだよ……」

「……待て、今なんて?」

「あそこで人が死んだ、なんて真っ赤な嘘なんだよ……。須田を驚かすつもりだったんだけど、まさかここまで気に病むとは……」


 赤井の言葉が、理解できない。あの部屋が本物ではないなら、なぜ須田は死んだ? ちるだ様とは何だ? 俺と須田が見た怪異の存在は、狂気が見せた集団幻覚なのか?

 “ちるだ様”という存在を保証するものはインターネットには存在しない。須田の妄言に乗せられたのか? だが、須田の語り口は妙に信憑性があり、嘘とは思えなかった。


「そんなわけないだろ。ほら、証拠だって……」


 俺のスマートフォンには、須田の投稿のスクリーンショットさえ残っている。それを見せれば、赤井にもちるだ様の実在を信じさせられるのではないか?

 俺はスマートフォンを取り出し、愕然とする。画像は確かに保存したはずだ。フォルダを探しても、もぬけの殻なはずがない。


「違う、あそこには本当に居るんだよ! ちるだ様は……ちるだ様は、確かに居るんだよ!!」

「何を……お前、どうしたんだよ!?」


 赤井は、狂人を見るような目で俺を見つめた。あぁ。俺はあの時、須田にこんな目をしてしまったのか。俺は内心で彼に謝罪した。


「やめろ、そんな目で俺を見るな! 俺たちは確かにちるだ様を見た! あの部屋は本物だよ!!」


 赤井は、『気味の悪いものを見た』とばかりに俺から離れていく。俺は本当に気が狂いそうになりながら、ちるだ様の実在を叫び続けた。


 あそこが棲家なんだ。俺の頭の中じゃない。

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