第24話 錯綜 その⑥

街を立った三人と入れ替わりに、基地から街へ向かうバスが到着し、中からこの街と同じくらいどんよりした顔のハンスが降り立つ。四時間の超過勤務を終えたハンスは身体はもとより、精神的な疲労がピークに達し、吹けば倒れそうなほどフラフラになっていた。


 街は半分ぐらいの店しかやってないが、ハンスには関係ない。何処か一人になれる場所を探してさ迷い歩いているのだ。しかし運命というのは不親切なもので、こんな時に限ってどの店も混んでいてとても一人になれそうにない。道にも通行人や浮浪者、職にあぶれた日雇い労働者でごった返している。


 本当はハンスもこんな日に街に来るつもりは無く、今日は目立たぬようにしようと思っていた。だが、初めに食堂に行ったのが運の尽き。通りがかったものには笑われ、暇を持て余す者には話しかけられた。終いには、政府のやり方に対して異を唱える者にまで絡まれる始末だ。


 軍人の中にもそんな奴がいるのかと若干驚いきつつ、ハンスは心に巣くう抑鬱的感情に耐えられなくなって、群がる人々を振り払いながら自室に引きこもろうとしたが、周りの目が気になって町まで逃げてきたというわけだ。


 ハンスの予想は外れ、街は前述のとおり人で一杯になっていて、とても一人になれそうにない。くそ、今の俺はこんなにも悔恨と懺悔の気持ちに満ち溢れているのに、この連中はそれすら叶えさせてくれないのか。八つ当たりじみた感情を抱きつつ、ハンスは街を徘徊する。


 街のいたる所を見回し、どこも人で満たされていることを確認したハンスは、ある店の前で一人思い悩んでいた。店は入り口が地下へと続く階段の先にあって、いわゆるBARと呼ばれる店なのだが、このごった返した街で一人になれる場所と言えばそこぐらいしかなかった。


 避難区は地下に広がる巨大な空間だが、傷心の男が一人になれる空間を用意出来るほど広いわけでは無い。大体のスペースには何らかの施設が設けられていて、地下空間の九十八パーセントは活用されていた。


 そういうわけで、一人になるにはこの店に入るくらいしか方法が無いのだ。計画自体に問題は無い。店に入って何か注文し、思う存分自己嫌悪に浸って店を後にする。何ら欠点のない完璧な作戦だ。…今日の失敗の理由が酒であるという点を除けば。


 もしここで中隊の同僚に出くわせば、今日の出来事について散々ほじくり返される羽目になる。さらに今日のうちに中隊中で噂が広まり、数日間は気まずい思いをするおまけつきだ。


 得られるリターンに対して、あまりに危険なリスク。いつものハンスならば部屋へと引き換えし、膝を抱えて一日を終えるところだ。しかし、今日のハンスは投げやりモードに突入している。


(大丈夫、この広い街で同僚たちに出くわす可能性は低い。いったいこの街に幾つBARがあると思っているんだ。こんなところに大勢集まって飲んでいる確率など微々たるものさ。それに居合わせたところで顔を見られる前に店を出ればいいだけだ)


 蓄積された疲労と羞恥心、イライラが思考を鈍らせ、希望的観測を客観的事実としてハンスに認識させる。この商業区は戦前より狭まっているとか、中隊が総勢百八十名で程いるとか、そういった不都合な事実は一切無視して、ハンスはご都合的な理屈で心を奮い立たせる。

 

 そして、半ばやけくそじみたチャレンジ精神で階段を駆け下り、勢いよくドアを開け放った。さぁ、どうだ!ハンスは店内に素早く目を通す。

 

 賭けは…ハンスの負けだった。外観とは対照的にギラギラとまぶしい店内。この時点ですでにアウトだったが、さらに店内は多くの軍人で埋め尽くされている!こちらに気付く様子は無いものの、どこに同僚がいるか分かったものではない。これで2アウトだった。

 

 しかし、ハンスは気を持ち直す。このままドアを閉め、速やかに宿舎へ帰投すればその時点でハンスの勝ちだ。1アウトも2アウトも関係ない。最終的に、


(勝てばよかろうなのだー!)


 ハンスは話してしまったドアノブを、汗で滑る手でガシッと握り、自分が店内の群衆に認識される前にドアを閉めようとする。


(早く、閉めなくてはっ!)


 ハンスは急いで閉めようとするが、破損を避けるためにドアはゆっくりとしか閉まらない仕組みで、一定のスピードを超えることは出来ない。


(早く、もっと早く!)


 ハンスは両方の手を使って閉めようとするが、ドアの閉まるスピードに変化は無くハンスの焦りだけが加速する。


(もっとだ!)ドアが閉まるまであと十五センチ。


(ぬおおおおおおおおっ!)十センチ…


(おおおおおおっ!)三センチ…


 勝った。ハンスは無駄だと分かりつつも、ドアに渾身の力を籠める。ドアは一定のスピードでゆっくりと閉まり、ハンスは振り返って階段の一段目に足を、かけた!


「お、ハンスじゃねぇか。どうした、入らないのか?」


「っ!」


 聞き慣れた声にぎくりとして、ハンスは顔を上げる。階段の上には歯を見せて笑っているサンダースとヘンリク軍曹、そして…


(少尉…!)


 3アウト。ハンスは自分の愚かさを呪った。運命は常にハンスにとって敵であり続けたのだ。獲物を見つけた少尉の目がぎらぎら輝いているのを見て、ハンスは逃げられないことを悟った。




 ハンスは右をサンダース、左を少尉に挟まれて身動きが取れない状態になった。特にサンダースは執拗にウイスキーを勧めてきて、断る度にうっとおしさが増してくる。ハンスは愉快な仲間が押し付けてくるグラスを押し返しつつ、店への礼儀として頼んだウメ=シュを少しずつ飲んでいた。


「何だよ、付き合いわりぃなぁ。普通友人からの気持ちを無下にするかね?そう思わねぇか、ヘンリク?」


「いやぁ…ははは…」


 不満そうな顔でグラスの中身を呷るサンダースと、急に話を振られて困り笑いになるヘンリク。正反対な二人だが、分隊長同士では一番交流が深かった。


 白鳥とマリーみたいだな、とハンスは思ったが、再び酒を押し付けられて考えを改める。しつこくない分、マリーの方が増しだ。ハンスがさっきよりも若干強めにグラスを押し返し、サンダースは再びグラスを呷った。


 ハンスだって、普段であれば人からの善意を無下にしたりはしない。だが、さっきから左から無言で圧をかけてくる少尉を無視できる程、ハンスの神経は図太くなかった。


 少尉はいつもの親しみやすさに幾らか嗜虐心のこもった眼で、ハンスに視線を投げかけてくる。一応事情は説明したが、到底受け入れられるとは思えない。ハンスとしては追加の罰が軽いもので済むことを祈るばかりだ。


「いやぁ~それにしても、今日のハンス軍曹には驚かされたな」


 ずっと黙っていた少尉が、わざとらしい口調で話し出す。成る程、どうやらここで反省会アンド公開処刑としゃれ込むらしい。


「あぁ全くだ!見ているこっちはいつ中佐の頭が破裂するか、ハラハラしてたぜ!」サンダースのにやけ面にはどこにも心配の二文字は見当たらない。


「えぇ、あの時師団長が退席していなかったら、今頃どうなっていたか…」


 サンダースとは反対に、ヘンリク軍曹は眼鏡の奥から、心底心配そうな瞳を覗かせる。悪魔のような二人に挟まれたハンスにとってそれは、まるで聖母からの憐憫の情であるかのように感じられた。…男だが。


「本当に心配しましたよ?あの中佐は…その…いろいろと有名ですから」


「そうだぜ~。俺も前に居眠りしちまった事があるんだが、その時は聴衆の目の前で発表内容を朗読する羽目になったものさ。アイツは学校の先生かよ!」サンダースが手に持ったグラスを乱暴にカウンターに置く。


「全くだ!しかしそんな男の前であれほどの大演説をぶちかますとは、さすがハンス少尉!戦闘機乗りは度胸が違いますなぁ~!」


「「はっはっはっはっはっはっは!」」


 ハンスに配慮してヘンリクが声を潜めているに拘わらず、この二人は店内を見渡すような素振りをして声を隅々にまで行き渡らせる。若い女性兵士の一人が此方を見て微かに微笑むのを、ハンスは目撃した。


(帰りたい…)


 ハンスの頭はその思いで一杯になったがそれは出来ない相談だった。何しろ両側に二人がハンスにぴったりと肩を寄せていたし、座っているストールの足を器用にハンスのストールに引っ掛けているので、椅子を引くことも不可能だ。


「はっはっは…ふう…いやいや、まったく大した根性だよ。…そんだけ大した肝っ玉ならよぉ、どうして早く相談してくれなかったんだ?」


「!」


 サンダースのにやけ面がスっと真面目な顔になり、酒を勧めてくる手をまた払い除けようとしたハンスは、急な変化に面食らった。後ろを振り返れば、少尉の表情も険しいものとなっていた。しかしその様子はハンスを責めると言うより、その不幸を憐れんでいるようだった。


「なぁ、ほら、そんな水みたいな酒は置いて、もっと酔っぱらおうぜ。今日は皆、全てを忘れたい日なのさ」


「…どういう事だ?」ハンスが聞き返す。


「今日ヨハンの…死んだ部下の家族のところへ行ってきた」


 サンダースは手に持っていたグラスの中身を口に含み、ウイスキーに浮かぶ氷をじっと眺める。その様子に、少尉とヘンリクも同じように暗い表情を浮かべる。死亡報告は普通、人事から通知が来るだけだが、三人は自分たちが行けるところは自分たちで回ってきたのだ。


「この小隊に来るまで…そんなことした事無かったんだが…正直言ってかなりクるものがあったね。居なくなった奴の事を話す度、本当にもうこの世にはいないんだって実感を、改めて意識させられたよ」


 ハンスはサンダースの話を聴きながら、ウメ=シュを口に含み、舌の上で転がす。酔いが回ってきたのか、味はあまりしなかった。一呼吸おいて、サンダースが続ける。


「戦闘が続いている間は大丈夫なんだが、いざ終わって装甲車の座席が空になっていると、何とも言いようのない空気の重さみたいなモンが充満する。一人いなくなっただけで十人分席が開いたような気がするんだ。ポッカリとな。…遺族と話していると、そのことをまた思い出して、忘れられなくなる」


 サンダースが話し終えると、誰も一言も発さなかった。彼の話を聴いて、自分の記憶の中の、戦友たちを思い出していた。様々な死に方で、志半ばで散っていった戦友たち。店内は七十年代のロックミュージックが響き渡り、賑やかな喧騒に満たされているものの、この男達の周囲だけは通夜帰りのように静まり返っていた。


 皆が昔の戦友との記憶に浸る中、ハンスは左右に座る戦友たちの顔を見やる。三人共、何か決意に満ちたような表情で物思いに浸っている。そんな三人の様子に、ハンスは三人にもそれぞれ最期を看取った戦友がいることを理解した。


 三人だけではない。このBARにいる兵士たち全員が、過去の亡霊に苦しみ、向き合って生きているのだ。当たり前のことを理解した時、ハンスは、不幸なのは自分だけであるかのような今朝の行動に、後ろめたさを感じずにはいられなかった。


「この悪夢、一人で立ち向かうにはあまりに重い」


 サンダースが再び話し始める。その顔に哀愁や過去への憂いと言ったものは存在せず、自分の未来を真剣に見据えている、そんな表情だった。


「俺は戦友たちと共に向き合う事で、この悪もがもたらす苦痛に耐えてきた。ハンス、俺はお前もそうするべきだと思ってる。いや、そうしろ。これから先も戦友達は死んでいく。そんな時、ハンス。お前は一人でその重荷に耐えていくのか?そうじゃねえだろ。一人では出来ない事を成すために俺達はチームをつくる。だからお前も、何かあったら俺達を頼れよ」


 そういってサンダースは、再びウイスキーをハンスに差し出す。ハンスは右手を伸ばしかけて、ぴたっと手を止める。さっきまでふざけて押し付けてきたのとはわけが違う。これを受け取ると言う事は、彼らと共にこの苦難の時代に向かい合うと言う決意を示した事になる。日々の出来事に対する喜びも、苦悩も、共有して共に向き合うという証なのだ。


 恋人では無いし、家族とも違う。ハンスの意思が、少尉の意思が、サンダースの、ヘンリクの、小隊の意思が一つとなり、一匹の生き物として行動する、そんな意味を持つ儀式だ。


 ハンスはサンダースを見つめた。その目には、小隊全員の力になりたいと言う決意が溢れていた。


 次にハンスは、ヘンリクに目を移した。何か出来る事があれば遠慮せずに言ってほしいと、その目は静かに、しかし熱く語りかけていた。


 ハンスは振り返り、少尉を見据えた。いつもの親しみを感じる微笑に、小隊の父親役としての慈愛と不動の念がこもった眼差しを向けていた。


 三人が三人、真剣にハンスに向き合っている。出自は関係なかった。階級も、実績も関係なかった。共に戦った戦友の一人として、ハンスの身を案じていた。


 ハンスは…その戦友たちの意志を汲み、三人の思いに応えようと思った。そして、サンダースからグラスを受け取り、中身を一気に呷った。


 …ウイスキーを一口飲む度に、三人の熱い思いと小隊に対するハンスの重い責任が、体に流れ込んでくるような気がした。飲み干したグラスをテーブルに置き、ハンスは深く息を吐いた、そして、彼らに対する感謝と、自らの思いを述べようと…


「今朝あれだけの事をしでかして、今も飲んでいるとは…大した根性だな、見直したぞ軍曹」


 述べようと…


 聞き覚えのある声にハンスが恐る恐る振り返ると、後ろに腕組みをして、片頬を上げて笑う小隊軍曹がいた。


 まずい。この状況は非常にまずい。そんな考えがハンスの頭をよぎり、一瞬取り乱したが、いやしかしと、思いとどまった。


 別に自分の好き好きで飲んだわけでは無い。隊に溶け込むための重要な儀式の上でだ。そのことをサンダース、こいつが話してくれれば何の問題もない。


 しかし、当の本人は満面の笑みでハンスを指差し、こうのたまった。


「馬鹿が!俺がこんなクッサいせりふを吐いた時点で疑うべきだったんだよ!まんまと引っかかったな、ハンス!」


(な、なにぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!)


 ゲラゲラと、悪魔のような声で笑うサンダースを前に、ハンスは目を剥く。甘かった。ハンスは初実戦の時、この連中が何をしでかしたのか思い出すべきだったと後悔した。


「上官の前で堂々と、やはり宙軍は格が違いますなぁ!」


 口を三日月状にして、にやにやと笑う少尉がチラッと軍曹に視線をやる。視線に気づいた軍曹が小さくうなずくのを見て、ハンスは悟った。こいつら、グルだと。サンダースと少尉が店を見渡していたのは、声を遠くに届けるためではなく、軍曹とタイミングを計るためだったのだと。


 ハンスは左右にいる連れを、交互に見渡す。サンダースと少尉は言わずもがな、ヘンリクでさえ申し訳なさそうにしながら、堪えきれない笑いを漏らしている。彼の性格上、積極的に関係しているわけでは無いだろうが、どうでもいい。止めない時点で同罪だ。


 後ろで事の顛末を見守っていた小隊軍曹は咳払いすると、真面目な顔になってハンスの肩に手を置いた。


「まぁ、今朝の事に関しては元から罰を与えるつもりだったのでな。ハンス、私からの罰則は後日通達する」


「………イエッサー」


 死んだ魚のような目で、ハンスが答える。こいつらは二度と信用しない、ハンスは心の中でそう誓った。

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