第21話 錯綜 その③
いない、そう中佐が言いかけたところで一人が堂々と手を上げた。もちろん、ハンスだ。会場の全員がハンスに注目し、中佐も目を見開いて凝視していた。師団長もハンスに視線を投げかけるが、もともと目が大きいので驚いているのかは分からない。
ハンスは制止しようとするサンダースとヘンリクを振り払うと、中佐の元へ千鳥足で迫った。中佐はへべれけ状態の異常者を前に言葉を発せずにいた。
「………す」
「…何ぃ?」
「自分はぁ、蟲どもの人間らしいところをぉ、見たことがありますぅ。中佐殿ぉ」
酔っ払い特有の呂律が回らない口調でハンスが喋る。口から発される酒の臭いに、中佐が顔をしかめた。
「見たって…お前のような酔っ払いの戯言を誰が信じるか!何故おまえのような人間が軍曹の地位にいるのか、その方が不可解だ!この隊の規律は…」
「無視せんでぇ貰いたいですなぁ!中佐殿ぉ…。私が信用ならん!というのならぁ、他にもぉ、証人がいらしゃいますよぉ。中佐殿ぉ。なぁ、ブレンダ!」
表情に乏しい顔で、ブレンダは心底面倒くさそうに頷いた。会場全体に動揺が走る。想定外の事態に辺りを見回す者。この珍事を楽しそうに眺める者。催しが長引くことに不満を垂れる者。人形のように微動だにしない師団長。
「ほぉら、いたでしょぉ~中佐ぁ。大体よ~、平和と、平等を、大事にする言ってる人がだぁ。他の人の悪口言っていいんですかぁ~?昔の言葉にもあるでしょうぅ。人のふり見て、…なんだっけ?…とにかくそう言う奴ですよぉ~」
「あんたに比べればぁ~。アイツの方がよっぽどいい奴だぁよ。これもぉ、中佐の嫌いな蟲から貰ったんですからぁ」
ハンスはそう言ってポケットから、いつぞや敵に投げ渡された喪章を見せつける。独特のパターンの模様と、蟲どもの唯一神のレリーフが施された喪章を、誇らしげに掲げた。
ハンスの一人演説を困惑して聞いていた中佐は、徐々に怒りを蓄積してその顔を烈火のごとく燃え上がらせる。中佐は拳を振り上げ、「綱紀粛正ぇ!」と叫んでハンスの左頬に一発おみまいした。酔っ払いの動体視力では反応することが出来ず、タチの悪い酔っ払いは後ろに吹っ飛んで、そのままうずくまる。
「貴様ァ!この報告会をぶち壊すだけでは飽き足らず、上官まで愚弄するつもりか!小道具まで持ち出して演技しよって、酒の席の余興でもやってるつもりか!よこせ!」
中佐はうずくまるハンスの上に乗っかるような体勢となり、ハンスが持つ喪章を取り上げようとする。これに対して、ハンスは普段の腕力を上回る力で抵抗した。
「私が貰ったんだァ!これは私のものだァ~!!」
軍紀を犯した軍曹が上官に制裁を受ける場面は、一変して子供の喧嘩へと成り下がった。一つの飾りを奪い合う二人の男の図に、あるものは蔑みを、あるものは好奇の目を向けた。
「中佐ァ、君は退屈な茶番に付き合わせるために私を呼んだのか?」
今まで一言も発しなかった師団長が口を開く。中佐はハッとして手を放し、「申し訳ございません…」と謝罪の言葉を述べるが、内心は詫びの一つもない師団長に怒りを募らせていた。事態の収拾を図ろうと小隊軍曹が席を立つが、それよりも速くリーバイ少尉がアクションを起こした。
「中佐、うちの部下が申し訳ありません。後できつく言っておきますので」しかし中佐はリーバイ少尉の身なりを見て、再び怒りを爆発させる。
「何なんだ貴様はァ!一介の兵卒が上官気取りとはいい身分だ!貴様の所属と官姓名を言えぃ!」
「えっ?…あっ!」この男、自分が今どんな格好であるか失念していたらしい。小隊軍曹はゆっくりと着席し、頭を抱える。そうこうしている間に師団長が立ち上がった。
「腹が減った。中尉、いつもの店に電話してくれ」
「かしこまりました、閣下」師団長と副官が退室する。扉が閉まったところで中佐が怒りを爆発させた。
「貴様らぁぁぁぁ!」
ハンスはもはや立ち上がろうともせず、背中を丸めて眠り始めた。昼下がり、二十六の夏。
心地良い眠りからハンスが目を覚ましたのは、午後三時になろうかという時間だった。左頬が熱い。ハンスは体を起こし、何があったか思い出そうとしたが会議の途中までしか思い出せず、自分が食堂にいる理由も分からなかった。
「気が付いたか」
隣に座っていた小隊軍曹は本を置き、ハンスの肩をもって正面から見据えた。ハンスがきょとんとしていると、小隊軍曹は気つけ(それにしては随分強く)にハンスの両頬を叩き、少尉に敬礼してその場を立ち去った。
リーバイ少尉はその優しい微笑に、若干の愉快さを交えてハンスを見つめていた。その横には、報告会で説明を任されていた博士もいる。名前は……名前は何だったか。
「えーっと…」
「エルマー・アボット」
こちらの意を汲んでくれたのか、博士が感情のこもっていない声で教えてくれた。続けてリーバイ少尉が話し始める。
「やってくれたなぁ、軍曹。今日は…フフッ…久々に愉快だったぞ。まぁ、罰則無しとはいかないが、それは分かるだろう?」
「…はい」
記憶が戻ってきて、ハンスは自分に嫌気がさした。自分の長い従軍期間で全く出世がないのは人材不足という面もあるが、一番の理由はこの悪癖のせいだ。いまだに自分が軍にいられるのが不思議なくらい、酷いものだった。
「実は君に、ぜひこの方を紹介したかったんだ」少尉は博士の方に手を向けて指し示す。博士は使えない部下を見る上司のような顔をしていた。
「名前でもう分かるかも知れないが、彼はアボット上等兵の保護者に当たる方だ」
「…あっ、どうも初めまして」ハンスは慌てて手を差し出したが、博士は一瞥しただけで手を握ろうとはしなかった。
「…こんな男が上官とは…身元を預かる者としては聊か気がかりだな」
抑揚のない声にはっきりと侮蔑の念を込めて話す博士は、値踏みするような目をハンスに向ける。慌てたように少尉が口を開いた。
「えー…出会いはいいものとは言えませんでしたが、彼はこれでも部下の事をよく見ていますよ。御息女が危機に陥った際にも、真っ先に救援を提案したほどですから」
「あぁ、君が命じて危険にさらした時の話か。確かに君よりは頼りになりそうだな。君よりは」
擁護しようとした少尉は、博士の嫌味によって身を縮こまらせた。上官の命令とは言え、さすがに身内の前では罰が悪いらしい。自分の娘を殺しかけた相手に、博士は容赦しなかった。
無理もないか、とハンスは博士に親しみを覚えた。ブレンダに聞く限りではとても気にかけているようだったし、実は娘が戦いに身を投じているのを快く思っていないのだろう。自分も入隊を決めた時は、母親に引き留められたものだ。今となってはさらに力をつけるべきだったと後悔しているが。
「さて、私は目当てのものを見せてもらったことだし、帰らせてもらうとするか」
少尉とハンス、二人にたっぷりと冷や汗をかかせた博士はそのまま真っ直ぐ出口に向かいだした。少尉とハンスは慌てて後を追い、駐車場まで見送った。迎えの車を待っている間、博士は一言も発することは無かった。
(このまま行かせては駄目だ。何とか少しでもイメージアップを図らなくては)博士が車に乗り込もうとしたところで、ハンスは思い切って声を掛けた。
「あのぉ」間の抜けた声になったのを、酷く後悔した。
「何だ」
「…今日は本当に、申し訳ございませんでした。ですが、自分も上官としての心構えは持ち合わせています。御息女の身の安全は全力を尽くしてお守りすると、約束します」ハンスがそう言うと、博士は溜息をついて話し出した。
「一つ言っておくが、私はあれの親じゃない。身元引受人だ」
「えっ、いやしかし…」
「まぁ養子ではあるが…親らしい事等したことは無いしする気もない。あれがどう生きるのかは、あれ次第だ」
「はぁ…」
「それと、君は上官としての心構えと言ったが、上官の心構えとは部下を生かすことより、作戦を成功させることだろう。そこを履き違えては本末転倒ではないかね?」
無論ハンスもそんなことは弁えている。この博士には気遣いも通用しないようだ。博士は暫く二人が何か言うのを待ち、何もないことを確認してから車に乗り込んで別れも告げずに去っていった。宿舎を去る車の後部を、二人は見えなくなるまで見送った。
「軍曹、大丈夫かな?」白鳥が心配そうに尋ねる。
「あぁ?知らねぇよ。アイツのせいで会議が長引いたんだぜ?小隊軍曹にでも絞られればいいんだ!」マリーは口をへの字に曲げ、怒り心頭になる。
ハンスが眠っている間に、マリーと白鳥、ブレンダの三人は第十一避難区の商業区へ繰り出していた。以前のいざこざの埋め合わせの為に、白鳥持ちで買い物に来たのだ。
最初に提案したのはマリーだった。普段は色々と大雑把だがこういったことには几帳面なのだ。特に他人の驕りとなればなおさら。
今いる商業区はその規模からして間違いなく最大の観光スポットだったが、その領域は旧ベルリンにあった商業区の二分の一に満たず、そこにある品の数も質も戦前には遠く及ばないシロモノであった。
昔ならば二ユーロもしなかったものがその二倍三倍以上の値段で取引される。しかし、兵舎の代わり映えしない料理を繰り返し食べ続けるよりは、遥かにましな気分転換だった。
「白鳥、あれ食べたい」マリーがタコスの屋台を指差す。その輝かしい満面の笑みに白鳥が顔をしかめる。
「…ブレンダが食べるのか?」
「私には何も奢らないのかよ?!」
「普通は一番迷惑かけたやつからじゃないか」
「はぁ~?こっちにも同じくらい迷惑掛かってんですけどぉ~?!あの場にいるのがどれだけ気まずいか、分かってんですかぁ~?」
マリーは白鳥に人差し指を突き付けながら、イラつく上目遣いで見つめる。白鳥はイライラしつつ、ブレンダに視線を移す。ブレンダは気にしないと言った様子で首を縦に振った。
ぐぐぐっと白鳥は唸りながら財布を取り出し、マリーとタコス屋へ向かう。屋台は今どき珍しい機械式で、へらを握ったロボットアームが器用に生地を焼いている。戦前の貴重な遺物に、マリーがおぉーと感心したような声を上げる。
「で?注文くらい自分でしろよ」
「お?おぉ…タコス二つ」
「ご注文は番号でお願いいたします」
屋台ロボットが幾つかあるアームの一つに注文票をもって差し出す。マリーはそれを受け取ると、「先に言えよ」と呟きメニューに目を通した。幾つか具のバリエーションがあるらしい。サンドイッチもあるようだ。
「色々あるな…そうだな…六番を二つくれ」
「かしこまりました」
祖ロボットは先程焼いた生地をまな板に広げ、その上に野菜や代用肉、チリソースを盛り付けて挟み。紙で包んで手渡す。マリーは白鳥にタコスを渡し、自分は次のタコスを待った。
「ソースもっとかけてくれよ」タコスを包もうとしたロボットの手がぴたりと止まる。
「追加料金二ユーロとなります」
「白鳥、お金」
無邪気にマリーが突き出した手に、白鳥は仕方なく二ユーロを手渡した。マリーから代金を受け取ったロボットは、既に十分チリソースが掛かったタコスにさらにソースを足していく。もっともっととマリーが催促すると、ロボットの手がぴたりと止まった。
「追加料金二ユーロとなります」
「白鳥―」
「いい加減にしろ!タコスがソースまみれじゃねぇか!」
「追加料金二ユーロとなります」
「うるさい!それで良いからさっさとよこせ!」
「あぁ、俺のタコス!」
白鳥はロボットからタコスをひったくると、マリーに押し付けた。押し付けられたタコスから入りきらなかったチリソースが溢れ出す。
「おっとと…」
マリーは溢れるチリソースをこぼすまいと一生懸命舐めている間も、白鳥はマリーを睨みつけていた。
「人の金だと思って食べ物で遊びやがって…」
しかし当のマリーはチリソースのたっぷり掛かったタコスをいとも簡単に平らげ、手についたソースを奇麗に舐めとっている。
「う~ん、いまいち辛さが足りないな」
「…相変わらず、イカレタ味覚だよ全く」
そう言うと白鳥も購入したタコスにかじり付く。代用肉にしては、風味が牛肉に近くて実にうまい。認めるのは癪だが、マリーのおかげでこの味に辿り着くことが出来たのは幸運だった。チリソースも具材によく合って、よく合って…
(何だこれ、辛!辛い、というか痛い!…痛い痛い痛い!…舌が燃えるようだ…なんだこれ、クソ!)
あまりの衝撃に白鳥は目を剥く。体がぶるぶる震え、顔から冷や汗が溢れ出す。あまりの激痛に耐えかねて、犬のように舌を出して呼吸する。そんな白鳥の様子を見てマリーがいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「おやおや~、白鳥くぅん。どぉしたんだいそんな恰好で、唐突に犬の真似でもしたくなったのかい?」
「…てめえ…何頼んだ…」苦しそうに白鳥が尋ねる。マリーは注文票を取り出して「六番」と答えた。
「それは…知ってる!どういうヤツを注文したんだ!」と白鳥。優しい笑みを浮かべながら、マリーが続けた。
「五辛って書いてあった」
「くっそ!…ふざけるなぁ…」白鳥が苦しそうに言う。目から涙も出てきた。
「辛いの駄目だったっけ?」
「初対面の時から言ってんだろ…だから調子に乗らせたくなかったんだ…」
あれだけ渋っていたのはケチだからというわけではなかったらしい。二人のやり取りを眺めながら、ブレンダはマスクにカートリッジをセットしてスイッチを入れる。カートリッジの内容物がマスクへと吸い込まれた。
「ご注文をお伺い致します」
「私はいらない」
「ご注文をお伺い致します」
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