第19話 錯綜 その①
ウミガラスの福音書 第五話 錯綜
集団で突っ込んできた敵機をやり過ごし、旋回に入る。此処は地球軌道上。自分はパイロットで、複数の敵相手に空中戦を仕掛けていた。
なぜ地球軌道上だと分かったとか、無謀な戦いに挑んでいるのかとか、そう言ったことはまるで記憶にない。気が付いたらそういう状況だった。疲れているのだろう。帰ったら、栄養剤を摂取しなくては。
突っ込んできた敵をやり過ごし、変向ノズルを動かして乱暴に旋回する。自分のすぐ後ろをレーザーが貫き、間を開けずに敵機が通り過ぎる。
自分は上を向いて、通り過ぎた敵に照準を合わせる。相手はループに入ったところでこちらの動きに気付いて離脱しようとする。
もう遅い。もたついた敵機の背中に照準を合わせ、トリガーを引く。離脱して周囲を確かめる。撃った敵は爆散。近くには上に一機、下に一機いる。
上から敵機が突っ込んできて、自分は変向ノズルを逆噴射して減速。凄まじいGが掛かって機体の前進ベクトルがゼロに。敵は減速出来ずにオーバーシュートして下へ突き抜ける。
そのままループして相手の斜め下にターン。相手は上下左右に機体を振って逃れようとする。じっくり狙いたかったが、後ろから別の敵が追いかけてくる。一か八か、相手の動きを予想して照準固定。トリガーを引く。
翼を立てて垂直旋回。後ろの敵は少し遅れてこちらに追従。新人か?上に逃げる振りをして減速、垂直に地球へ降下。敵はレーザーを発射してから降下。
本当に素人みたいだ。それなら幸いとさらに降下。左右にロールしたり、微妙に進行方向を変えたりして敵を翻弄。重力境界線が見えてきたところで逆噴射して減速、機種を上に向けて急上昇。
後ろを振り返り、敵がどうなったか確認する。案の定、減速が間に合わなくなって地球に落下する真っ最中だった。
上昇ながらレーダー画面に目を移す。飛んでいる敵は宇宙を埋め尽くさんばかりだが、味方の方は数えるほどしかいない。いつもの見慣れた光景だ。
そう、いつもの―常にこの惨状を目撃し続けてきた。数か月立てて育て上げられた新米たちが一瞬で散っていく。撃てども撃てども、途切れることがない敵の波。
一つ一つの波が、強固な壁のように襲い掛かって、上官も、同僚も、そのすべてを洗い流して攫っていく。それでも、今立ち止まるわけにはいかない。
(当たり前だ)
左から迫ってきた敵がこちらの横腹に一撃加え、そのまま離脱していく。追従しようとするも、機体が反応しなかった。計器を見てもどこにも問題は見当たらないのに、操縦桿を引いてもピクリともしない。
その内、機体は前進することすら辞めて地球に落下し始める。何なんだ?!必死になって、エンジンの非常点火装置を作動させる。しかし反応がない。
一体どういうことだ?機体は前進ベクトルをまだ保持している筈なのに、真っ逆さまになって地球へと向かっている。あらゆる復帰方法を試みるも、全く効果が無く、ヘルメットの間接視認システムがかろうじて生きていた。ヘルメットだけが、いかだに生き続けている。電源は全て死んでいるのに。
不意にヘルメットを脱ぎ捨てたい衝動に駆られた。いや、そうしなければ、不味いことになる。何かがそう告げていた。しかしいざ脱ごうとするとその手がぴたりと止まり、触ることすら出来なかった。
(無視するつもりか?)
どこかからそんな声がした。周囲を見回すが、もちろん、狭いコクピットの自分以外の人間はいない。
(無かったことにするつもりか?)
意地の悪そうな声が耳元でささやく。「誰だ!」と叫んで無線の周波数を手あたり次第に変える。無線からは無意味な雑音が聞こえるだけだった。電源が入っていないにも関わらず。
(駄目だ駄目だ。そんな真似は許されない)
(そんなことでお前の罪が消えたりはしない)
(無かったことに等、出来る筈もない)
(お前が地上に戻る度、何度だって想起することになる)
(それはお前の罪、そしてお前の罰)
(さあ、そろそろ贖罪の時間だ)
「あっ……」
自然と、声が漏れた。心の奥底に渦巻く、あらゆる感情を含めた絶望の声。西の空から登る太陽が、全てが終わったことを示していた。また駄目だ。また防げなかった。
西から現れた太陽がその姿を変え、輝きを放つ複数のきのこ雲の姿を取る。核が放つ輝きは網膜に克明に焼き付けられ、その強烈な刺激がギリギリと脳を締め上げる。
もう、視線を逸らすことすらせず、ただ目の前の光景の狼狽し、力なく眺め続けた。焦点の合わない目から涙が伝うのを感じた。心は鉛色をした何かに埋め尽くされ、あらゆる感覚を鈍化させていく。
ゆったりとした速度で落下していた戦闘機が、いきなり速度を上げて落下していく。速度計は針が振り切れ、高度計がめちゃくちゃな速度で回り出す。大気圏へ突入した機体は燃え盛り、そしてバラバラに空中分解して後には自分だけが残った。
落ちていく、地獄に向けて、真っすぐ。眼下には赤黒く燃え盛るベルリン、そして自分に向けられる手―皮膚は溶けてケロイド状となり、焼け爛れた無数の手。自分を助けるためではない。地獄に引っ張って罰を与えるためだ。
自分はもはや抗う事も無く、ただ落ちるに身を任せる。涙の枯れた目は風景をぼんやりと写し、心は暗くどんよりとして絶望が支配していた。
あぁ、もうこのままで良い。いつまでも続くこの悪夢から、一刻も早く解放されたい。疲れてしまった。この中に溶け込むことで苦しみから解放されるのならば、考える事も、あらがう事ももうしない。
目を閉じて、迫りくる群体の中に身を投じる。周りの腕から流れる血が自分に触れるとき、耐えがたい痛みが全身を焼く。
それでも、苦痛は無かった。不思議な話だが、痛みはあってもそれを退けたいとは思えなかった。求めていたものが、今ここにあった。
私を、許してくれ。
どれだけ苦痛であっても、悪夢は悪夢でしかない。それが救いにつながることもあるが、ハンスの場合は間違いなく問題を悪化させるだけだった。
目が覚めたハンスは、おもむろに起き上がって一つ一つ噛み締めるように事実を確認し始めた。
…ここは、中隊の宿舎。
…自分は、宇宙軍少尉ハンス・ヴァルター・ヨアヒム。陸軍三等軍曹。
…そして今のは…ただの夢だ。過去の記憶がもたらした幻覚に過ぎない。
ジョジョの落ち着きを取り戻すと同時に、苦い記憶が思い起こされる。ハンスは戸棚から水の入ったペットボトルを取り出し、中身をコップについで飲み干す。
七年前のヨーロッパ爆撃。二十発の戦略核によってヨーロッパの主要各国は軒並み崩壊し、欧州は深刻な物資不足にあえぐことになった。
だが、失ったものが物資だけならまだどうにかなったかもしれない。物資が豊富にある場所には人が多く住んでいる。欧州は全人口の七分の一を失い、大勢の人間が愛する人と永遠の別れをする羽目となった。
宇宙軍でもその影響は顕著で、ヨーロッパの家族がいたものは目に見えて指揮を落とし、中には軍務に二度と戻れない者もいた。避難区に逃げ込んだ幸運な民衆は、政府関連の施設前でデモや暴動に走り、その事実が兵の指揮を一層下げさせた。
最も、民衆は蟲どもによるテラフォーミングの様を間近で見せつけられ、すぐに犯行の意思を失ってしまったのだが。
ハンス自身は、紙一重で退役を免れた身であった。幾度の敗北によってその心が憔悴しきっていても、偶の休暇に会う家族の笑顔が、自分が人類の幸福に貢献しているという自負をもたらしてくれた。
その自信のプライドが、唯一の希望が、奪われていくことを阻止できなかったあの日。ハンスの人生は、坂を転がり落ちるように堕落していった。毎日酒を飲まない日は無く、門限を超えた日も珍しくない。
キールで手に入る合法的な快楽は全て試したが、塞ぎ切った心に光明が差すことは無かった。―自分でもなぜあれ以上堕落しなかったのか不思議でしょうがない。
テキーラを一瓶開けてから出撃するのが、ハイな気分になれたからだろうか。それとも、蟲どもを一匹一匹ひねりつぶすことが、粉々に砕けた自尊心を慰めるのに、一役買ったからだろうか。
…本当は少しでも長く地上から離れたかったのだろう。地上にいると、事あるごとにあの悪夢を見る。この荒れ果てた大地に、家族や大勢の人々が溶け合っていると考えるだけで、首筋が熱くなり吐き気がする。
そうなれば最後、あらゆる食物は喉を通らず、五感を通して伝えられるすべての刺激が、不快感となってハンスの脳に襲い掛かる。周りの空気がタールのように粘り気を伴ったものに変わり、指を動かすのも困難になって、ただ疲れて眠りにつくのを待つしかなくなる。
飛べなくなった自分は、またあの衝動に挑まなくてはならないのだろうか。ふとそんなことを考え、ハンスは後悔した。さっき飲み込んだ水が、急にせりあがってくるのを感じる。
不味い、このままだと今日一日全く動けなくなる。ハンスはグラスに水を注ぎ、飲もうとしたが口が受け付けなかった。震えが強くなってくる。あまり時間は無かった。咄嗟にグラスの中身を床に捨て、別のボトルを取り出し無理やり口に流し込んだ。
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