第8話 葛藤 その④

戦闘が終わって数分後、第四小隊は特にトラブルもなく平穏に車列まで引き返すことが出来た。足を負傷した白鳥も、ほかの負傷者同様に応急処置を受け順調に撤収準備が整いつつある。皆が無事に帰れることに安堵し、リラックスしたムードが広がっていた。ただ一人、ハンスを除いて。


「対した怪我じゃない。」


 白鳥が自分の負傷個所をじっと見ているマリーに気付いて、ひらひらと手を振る。ふーむと唸って納得しないマリーは、しかしすぐにおどけた態度をとる。


「じゃあジャンプしてみろよ、ほら。」


 マリーがピエロのように軽やかなステップを見せる。あくまでいつも通りを貫くらしい。…一方のハンスは車両に両手をつき、頭をうなだれていた。ブレンダがいなくなった後、心に触っていた何かが、今になって槍の如くハンスの心に突き刺さっていた。このまま戻ってよい良いのだろうか。今回の作戦は自分の無謀な思い付きで成功したが、そのせいでブレンダは…、自分が殺したも同然なのに、何もせずに戻るなんて!


 ハンスの脳内に一つのイメージが発生する。爆風で四散し上半身のみになったブレンダを、地中から現れた何本もの腕が地中に引きずり込もうとしているのだ。ハンスは彼女の手を掴もうと必死に手を伸ばすが、虚ろな目をした彼女は手を掴もうとはしない。それは彼女が死んでいるからではなく、ハンスに、人間に対する信頼を失っているからだ。このまま彼女は人を信じるということを知らぬまま、たった一人で死んでいくのだ。


 いささか飛躍しすぎな部分もある重大な衝撃をもたらしたイメージが、ハンスの目から狩人の表情を消失させる。宇宙では死んだ戦友の亡骸は慣性力によって空のかなたに飛んでいくので、ハンスは仕方ないと割り切ることが出来た。


 しかしブレンダの遺体はいつまでもあの場に残り続ける。灼熱で、放射線に汚染された孤独な場所に。その事実がハンスを無関心にいられずにした。ハンスは歩き出し、少尉の下へと向かう。


「ハンス…!」小隊軍曹がハンスの前に立ち塞がる。


「お願いします軍曹。」ハンスは震える声で懇願した。恐怖ではなく、魂からの叫びによるものだった。

「ハンス軍曹、こういったことはだれもが経験する。歩兵ならばな。俺もそうだ、指揮官はみな、自分が殺したものの亡霊を連れて生きていくのだ。」


「あそこには置いていけないのです!私が命じて彼女を行かせました。ならば、私がその責任を取らねばなりません。」ハンスは強く言い返す。無茶を言っているのは百も承知だ。


「いいじゃないか軍曹。」


 少尉が小隊軍曹の後ろからしゃべりかける。ヘルメットのせいで見えないが、口にはいつもの優しい微笑を浮かべて兄弟同士の喧嘩を諫める父親のような口調になる。


「ハンス軍曹は、通常とは異なる特殊な経緯でここに任官した。これが我々歩兵にとって死がどういった意味を成すのか知るいい機会だと思う。彼がこの先も歩兵としてやっていくなら決着をつけるべき問題だとは思わないか?なあ軍曹。」


 小隊軍曹は何か言いたげにしながら、渋々といった様子で了承する。ハンスは礼を言おうとしたが、その前に少尉が言葉を続ける。


「十分だ、十分だけ時間をやる。一人で行ってこい。時間までに好きなだけ亡骸を集めろ。」少尉の声は死刑執行人に似ていて感情はこもっていなかった。


「ありがとうございます少尉。」ハンスは礼を言うと一目散に駆け出した。





 マスクの中で、荒い呼吸を繰り返す。突然のことに頭が混乱し、照り付ける太陽に目がくらむ。此処は何処だ、何が起きた。思い起こされる戦闘、閃光、爆発。そうだ、自分は死んだ。確かに死んだ筈だった。


 爆発で崩れたビルの屋上で、ブレンダ・アボットが息を吹き返した。幸か不幸か、宙を舞った彼女の体は偶然柵に引っ掛かり、運よく焼失を免れたのだ。ブレンダは立ち上がろうとして体を起こすが、足に力が入らず、そのまま前に倒れこんでしまった。両腕を使って立ち上がろうとするもそれも叶わず、仰向けになるのが精一杯だ。


 ブレンダは再び起き上がろうと全身に力を籠める。どうした、不具合か?だが無理もない。全身が強く打ち付けられてひどく痛む。いかに頑丈なアーマーに包まれていようと故障する可能性は高い。いかに頑丈に作られていたとしても。


(無駄か…)


 ブレンダは起き上がろうとする試みを放棄して、ぼんやりと空を見上げる。こんな時にも空は空気を読もうとせず、分厚い雲が太陽を遮ってブレンダから希望を絶やそうとする。ドラマチックの欠片もない。彼女にはこのどんよりした空の下、じわじわと餓死していくしかないと言われているような気がした。そんなことは彼女が一番承知している。


 絶体絶命、しかしこの瞬間もブレンダの心は少しのざわめきもない。助けなどあるはずもないし、来なかったところでどうと言う事も無い。自分が死ぬだけ、ただそれだけだ。


 ブレンダには生き残りたいという生存本能がない。故に今回のように誰かが行かねばならない場面で、生きることに価値を感じない自分が行くべきだろうといつも考えていた。今ですら自分が死ぬというのに悠然と構えているのだから、大した覚悟である。

 

 それでも心の中のどこかには死にたくないという思いがあるのか、頭の中で、今まで見てきた光景が走馬灯のように駆け巡る。取り立てて興味を引くようなものは無い。一瞬、ハンスの顔が思い起こされる


(そういえば、まだ礼を言ってなかったな。)


 思わずブレンダは苦笑する。他にも世話になった人間はいるのに、最後に思い出すのが出会って間もない男の、それもちょっとした親切なのかと。


 しかし、ブレンダは右手を掲げて苦々しげに見つめる。グローブの焼け焦げ破れて見えるそれ―中身の金属で構成されたそれは、不愉快な記憶をフラッシュバックさせると共に自分を自己嫌悪に陥らせたものだった。


 こんな奴に礼なんて言われても誰もうれしいなんて思わないだろう。

 

 もう、意識を維持することさえ億劫だ。そう思ってブレンダは一つ大きなため息をつき、ゆっくりと目を閉じていった。

 

 再びブレンダが意識を取り戻したのは、階下から何者かの足音が聞こえたからであった。


(まさか…敵!)

 

 ブレンダは一瞬身構えるが、すぐに思い直し、いやいや、餓死するまで苦しんで死ぬよりは一瞬で死んだほうが楽だろうと、余裕綽々と言った精神状態で思いがけぬ客人を待ち受ける。

 

 だが、ブレンダの予想とは裏腹に、瓦礫をよじ登って現れたのは予想外の人物だった。

 

 プロテクトアーマーに身を包み、M44アサルトライフルを構えるその姿はまごうことなき味方の兵士であった。そんなまさかと、我が目を疑うブレンダだったがその兵士に表示されているアイコン表示が決め手となった。


「…隊長?」


 ブレンダが驚きの声を漏らす。ハンスはゼイゼイと息をしながらブレンダに近づき、無言で立ち尽くした。二人の間に訪れる沈黙。先に破ったのはブレンダだ。


「…死んでいると思っていたから拍子抜けした、といった所でしょうか…」


 似合わない冗談で場を濁そうとするが、ハンスは何も答えない。駄目だ駄目だと、ブレンダはもう一度話し出す。


「私は、生きると言う事にとても消極的です。」


「作戦の概要を理解した時、すぐにそれが捨て身の作戦であると判断しました。私は、自分のように生きることに価値を見出せない人間が真っ先に行くべきだと考えたのです。それで…」


 再び押し黙るブレンダ。ブレンダは自分が何を言っているのか分からなくなってきた。命令違反を誤るべきなのか、なぜ此処にいるのか尋ねればいいのか、それとも…。時がたてばたつほど、口は重りが付いたように重くなり、息をするのも辛い。


 ハンスは無言でブレンダを持ち上げると、横向きに担いだ。ブレンダが不安に駆られる中、ハンスは黙々と瓦礫と化したビルを下りていき、やがて静かに語りだした。


「お前のほかの人間を犠牲にしたくないという思い、自分で行こうとした私も共感できる。軍人にふさわしい素晴らしい自己犠牲だ。」


「だが、お前は一つ間違いを犯した。お前が死ぬべきかどうかはお前が決めることではない、私が決めることだ。お前は私からの命令を受けて動くべきで、自分の死に対する責任を自分で背負うことはお前の役割ではない。」


「…それは私の役目だ。私が命令し部下の死に耐える役目だった。だがそれは決してお前の独断専行が原因ではない。部下を引き留められない私が悪い。私とお前、理念は正しいのかもしれないが義務を果たせていないという点でどちらも誤りだ。」


「………」


「私は隊長として、指揮官として、私たちにふさわしい罰を与えようと思う。」


 ハンスはいったん言葉を切り、表情が硬くなっているのを戻してから穏やかに続けた。


「今度の休みは私に付き合え、前の借りを返したい。」


「えっ…」


「前の引っ越しの時に、お礼らしいお礼が出来なかったからな。今回の件の埋め合わせになるとは思えないが、何かしらのことはしたい。」


「あの…」


「心配しなくても何でも買ってやるぞ!」


 からからと笑うハンスに対し、ブレンダは困惑を禁じえなかった。今まで自分に接してきた人間は、根暗で薄気味悪いと言って接触を避けるのが基本であった。だというのに彼は距離を取るのではなくむしろその逆、手を差し伸べてきた。

 

 ゴーグルの奥でハンスを見つめるブレンダの目が見開かれる。ブレンダの心の中にある困惑は、ハンスの親切に対する好意というよりむしろその行動に対する疑惑だった。この人は、いったい何が目的でこんなことをしているの?

 

 とぼけた態度を取ってはいるが、むしろそれが怪しい。やはりこの人も仲間なのだろうか、身分を隠しているだけで。とうとう聞かずにはいられなくなったブレンダは、あたりさわりのない質問で様子を伺ってみることにした。


「何故そこまで関わろうとするのです?」


「え?」予想していなかった質問にハンスはあっけにとられる。


「いや、罰にかこつけて下心があるとかそういうわけでは無いからな!?犯罪だろ、それは。…ただ今回の件はそれほど大きな問題ではないから、お礼と罰を一緒にしても問題ないと思っただけだ。それに、こうでもしないと付き合ってくれないだろ?」


「でも、薄気味が悪いでしょう。よく言われるんです。命令を聞けというならばその通りにします。ですから無理をして―」


「だから!」ハンスは瓦礫の上から飛び降り、床に足が着いたところで足を止める。


「私が好きでやっているだけだ!やましい事なんか何もない。お前は人と接するのが苦手で、私は部下を持つという状態に慣れていない。その二人が任務でもないのに長時間共に行動する。十分罰になっているじゃないか?」


 苦しい言い訳だ。ハンスは己の説明下手を歯痒く思った。ブレンダがまた独断専行をしないために、まずは自分の信頼を高めようと思っての行動だったが、なんだか余計に心を閉ざされた気がする。


 何かまずい事でも言っただろうか。ハンスはしばしの間考える。うん。まずいな。思春期真っ盛りの少女が二人きりでなんて言われて、下心を疑わないわけがない。


「もし心配なら、二人にも来てもらうというのはどうだ?」


 一方のブレンダも決めあぐねていた。本当に心配だという理由だけでここまで来ているのか?ここまでの不器用さを演技で取り繕うことなど可能だとは思えない。だが、仲間でないとしたら、自分を救出に来るなどという暴挙を許すだろうか、あの少尉が。


 一通り考えて、ブレンダは首を振った。今は答えが出せないな。隊長が仲間でないとしても行為を無碍にする理由もないし、仲間だったとしても、いい印象を抱かせておいて損はない。


「…罰なのでしょう?付き合いますよ、二人で。」


 ブレンダがそれだけ告げるとハンスは思わず笑顔が零れ、一応信頼されているようだと、的外れなことを考えていた。ブレンダの思惑も分からぬのんきなハンスは「そうか、よぉし。」と言って気持ち急ぎ気味に出口へ向かう。


「しかし、人間というのは思ったより重いな。」


 気が緩んだのか、ハンスはとんでもない事をのたまう。ブレンダが白い目でにらみつけた。言ってから後悔したのか、ハンスは極力ブレンダの視線に気づいていないふりをして歩き続ける。相変わらず学習しない男だ。


 出口が見えてきたところで、ハンスはあと少しだと駆け足になる。早くこんな恐ろしい場所から離れたい。ハンスの無意識の思いが彼を急かして、走る速度をさらに上げさせる。しかし、慎重に周囲の安全を確かめなかったことを、ハンスはすぐに後悔する羽目になった。


 ビルの前で沈黙していたBT―ブレンダの決死の攻撃で撃破されたはずのそれは今、ハンスの目の前で動き出し、その恐ろしい形相を此方へとむけていた。BTは後頭部に割れ目が出来ていて、中からBTの乗員が上半身だけを露にしている。


「…逃げてください隊長。私を置けば早く移動できるはずです。」


 ブレンダの提案は魅力的だったが、ハンスにそんな気はさらさらなかった。仮にブレンダを置いていったとして、高火力を誇る敵戦車の射線から逃げ出せる可能性は零に等しかった。


 ハンスは拳銃を構えるも、たかが九ミリ拳銃でどうにかできる相手ではない。何か起死回生の案は無いかと、ハンスは敵兵に注目する。敵兵は爆撃を受けたとは思えないほどしゃんとしていて、無傷である。胸にいくつか勲章をつけているのを見るに、相応に腕がたつに違いない。また奴を倒したところでもう一人の乗員がBTを操って、ハンスたちはなぶり殺しに合うだろう。


 八方塞がり。ハンスはそう認めざるを得なかった。その間にBTはさらに接近してきて、その複眼にハンスの顔が映りこんでいるのが分かるほどの距離まで接近して来る。万事休すか。


 ハンスが目をつぶった。しかし、当のBTの方は一向に射撃を開始しない。敵兵も安全な車内に戻る事も無く、ただじっとハンスを見つめていた。


「?」ハンスもつられて見つめ返し、一帯はしばらく膠着状態となった。


 敵はひとしきりハンスを眺めると、ゆっくりとポケットから何かを取り出してハンスに向かって投げ渡し、なんと敵であるはずのハンスに敬礼をしてきた!ハンスは投げつけられたものを恐る恐る拾い上げると、それは黒く塗られた竜を思わせる装飾で、ハンスは喪章だろうと推測した。


 突然のことに反応できないでいるハンスに対して敵兵はしばらく敬礼した後、今度は胸に手を当てて顔が見えるぎりぎりの角度でお辞儀する。ここまでされてようやくハンスは、目の前の生物が何をしたいか察することが出来た。


(奴はブレンダが死んでいると思っているのだ。…そしてブレンダを救出に来た俺に対してあろうことか哀悼と敬意を示している!哀悼と敬意をだ!)


 真っ白になりかける思考。個人の理解を超えた超常現象ともいうべき事態に、ハンスはうろたえ、ひどく狼狽する。しかしと、ハンスは動けなくなる一歩手前で押しとどまり、敵兵に対してぎこちない敬礼を返す。敵兵は頷くと、小隊が撤収した方向に視線を移す。


(行けってことか?)


 立っているのがやっとのハンスだったが、彼の足はまだ義務を忘れていないのか、持ち主の思考とは関係なくゆっくりと歩みを進める。二十五メートル程離れたところでだんだん正気に返ってきたハンスは、歩みを止めBTの方を振り返った。


 BTとその乗員はハンスに注目しているが、相変わらずこちらに攻撃してくるような素振りはない。ハンスは何度か振り返ってから意を決し、小隊のいる場所まで一目散に駆け出した。


 全く予想外の行動だった。頭がどうにかしているんじゃあないかと正気を疑った。ハンスが今まで見てきた光景とさっきの事象が、認知的不協和となってハンスの脳にダメージをもたらす。なぜあんなことが出来るのか?出来てしまうのか!?奴らは…、奴らは…





 基地へと戻る道中、ハンスは最も居合わせたくない人物と乗り合わせる羽目になり、顔を上げることが出来なかった。面前には優しく笑う少尉がいて、テストで百点を取った子供をほめるような口調で話し出す。


「今回はお手柄だったなハンス軍曹。君のおかげで本来死んでしまう運命にあった不幸な兵士の命が救われた!ありがとう!」


 手柄と言われているのは捨て身の作戦のことで、ブレンダを救ったことではない。


「宙軍にもこんな立派な兵士がいたと思うと、私は嬉しい!決死の行動を自ら率先して志願する姿勢には、思わず涙が流れるのを禁じえなかったぞ…」


 わざとらしいしぐさで少尉は目にハンカチを当てる。ハンスは笑顔と苦虫をかみつぶした顔が混じった微妙な顔になった。


「…そんな君だからこそ私は今回の暴挙を許した、と言う事をよく覚えておいてほしい。君が隊を離れた十分間、隊が危険にさらされていたことを忘れるな。君には隊を守るため、覚悟をもって部下を死地に送り出す義務がある。」


 少尉が目に冷酷な冷たさが宿るのを感じて、ハンスはさらに俯く。少尉が朧げな顔を、ハンスに近づける。


「…いいか、ハンス少尉…」


 顔は見えなくても少尉の感情のない表情が、ハンスには手に取るように分かった。バスの堅いシートが自分の尻の下で飛び跳ねている。


「…あんな我儘が、いつまでも通ると思うな……


少尉は完全にその姿を消して、気配だけがその場に残り続ける。体が前に引っ張られ、バスが停車したことをハンスは…


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「隊長、着きましたよ。」

「…ん」


 フライトジャケットの裾を引っ張られて、ハンスは眠い目をこすりながらバスの行き先表示器に注目する。なんてこった、もう着いてるじゃないか。ハンスは慌てて立ち上がろうとして、隣にいる同行者に気が付かず跳ねのけるように立ち上がった。


「わっ…」「す、すまん」


 ハンスが詫びを入れるも、ブレンダに気にした様子はない。会釈だけしてバスを降りていく。ハンスもあわててこれに続いた。


 戦闘から七日後、ハンスはブレンダを連れ立って、彼女に対するお礼の品を購入しにベルリンの商業区まで来ていた。ハンスとしてはこんな一般人向けの商店街ではなく、少し値段が高めの服飾店なんかで返礼品を探したかったが、それはブレンダが拒否したのでなしになった。


(そこらの品じゃ私に対する罰にならないじゃないか)


 ハンスは前を行くブレンダに視線を移す。ハンスはフライトジャケットにジーンズを合わせてかろうじて私服に見せているが、ブレンダは休暇中にもかかわらず軍の執務服姿だ。あまりファッッションに興味がないのだろうか。ハンスにはあまりなじみがない種類の女性だった。それほど多くの女性と親しかったわけではないことを抜きにしても。


「…ところで、どんな夢を見ていたのですか?」


「えっ?」


「バスに乗っている間ずっとうなされていたので、気になったのです。」


「何だったかな…あまり覚えてないし、大した夢じゃあないんだろ。」


「そうですか…」


「そうとも。あぁー、やっぱり昼間に明るいってのはいいもんだな。」


 そう言ってハンスは伸びをする。天井にある太陽灯からの優しい光が、自分を幼少期の懐かしい時代へといざなっているような気がして、とても安らかな気持ちにさせた。貧困にあえぐキールではとてもできないこの贅沢。今の人類にとって最上位ともいえる贅沢をハンスは噛み締めていた。それと同時にこうも思う。人間はやはり光の下で生きていくべきだと。


「そうだ、何も聞かずについてきたが、結局どこに向かっているんだ?」ハンスは新しい話題に切り替える。


「そう遠くはありません。ほら、此処です。」ブレンダは目の前の書店を示すとさっさと中に入っていく。ハンスも急いで彼女に続いた。


 書店はこのご時世には実に珍しく、棚がほとんど埋まっていて様々な種類の本が取り揃えてあった。物不足が叫ばれる昨今、本棚が半分も埋まっていない店や、同じ本を必要以上に展示している店が普通になっている中、古き良き時代の佇まいを残している店がまだあったことにハンスは感心した。


 一人内装に見入っているハンスとは反対に、ブレンダは本棚の本には目もくれずまっすぐカウンターを目指して、取り置きしてもらっていた本を受け取ってハンスを手招きする。ハンスが本の値段を確認する。十一ユーロ。雑誌としては普通の値段だが返礼品としては適切な値段とはいえいない。ハンスは顔色を窺うようにブレンダに尋ねる。


「本当にこれでいいのか?ほかに欲しいものがあれば言ってくれていいぞ?」店員の不審そうな目線を、ハンスは無視した。


「えぇ、あまり高い物をもらうのもちょっと…」


「でも…、これじゃ礼にはならないだろ。」


「本当にこれだけで大丈夫です。」


「いやしかし…」


「ほんとに…これで結構です…」


「うーん、でもやはり―」「あのー。」


 後ろから声がして二人は同時に振り替える。振り返った先には金髪の奥ゆかしさを感じさせる少女が微笑をたたえて立っていた。歳はおそらくブレンダと同じくらい。しかし少女から醸し出される包容力のせいで年上に見えない事も無い。いや、もしかしたらそうなのかも知れない。


「まだ掛かりそうでしたら、私から先に済ませてもらってもよろしいでしょうか?」


 申し訳なさそうに少女が言った。気が付けば、少女だけではなく他にも五人が会計の順番を待っていた。全員が全員ほほえましいといった表情か気まずそうな顔をしている。


「あ、すいません…!」


 気恥ずかしくなってハンスは、財布の中から無造作に紙幣を取り出して店員が確認を終える前にブレンダを引っ張って店を飛び出した。「お客さん、足りないよ!」と店員の声がしたが、二人の耳には届かなかった。


「行っちまったよ…、どうすっかな。」


「急がせちゃったようですし、私が払いますよ。」


「えぇ!しかし知り合いでもない人に払ってもらうのは…」


「いえいえ、お構いなく。」


「でも…」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「なぁ、本当にほかに欲しいものは無いのか?」


 基地まで戻る道中、ハンスが同じ質問をしてブレンダが答えるやり取りがかれこれ三回は繰り返されていた。雑誌程度ではハンスの贖罪の心が満たされなかった故の行動だが、ブレンダはいい加減うっとうしくなってきていた。


「分かりました。では他にも欲しい本がありますので先程の書店に戻りましょう。」


「…他の場所じゃダメなのか?本屋なら此処には幾らでもあるだろう?」


「あそこが一番いい店なのです。さぁ、さっさと言って済ませてしまいましょう。」


「すいません…勘弁してください。」


 結論が出て、二人は基地への帰途に就くことになった。基地のある区画と商業区をつなぐ幹線道路に入ると、商業区のまばゆい明りとは打って変わって、真夜中のような暗闇が延々と続いている。基地までの距離はそう長くはない筈だが、ハンスはタクシーを呼び寄せて早く通り抜けたい衝動に駆られた。


 無言で歩き続ける二人。ハンスは隣を歩くブレンダの、さっき買ってやった雑誌に目を移す。航空機に関する雑誌で、戦争前にとられた航空写真とかが掲載されているマイナーな雑誌だった。


「好きなのか?飛行機。」


「えぇ、父が乗せてくれてからずっと好きです。」


 二人の後ろからタクシーが迫ってくる。ハンスは呼び止めようとして手を上げるも、すぐに考えを改めて手を下ろした。タクシーは二人を置いて闇の彼方へと走り去る。


「興味あるな。よかったら詳しく聞かせてくれないか。」


 ブレンダが一瞬眉をひそめた気がしたが、気のせいだとハンスは思うことにした。話してもいいと判断したのか、ブレンダは遠くを見つめながら一つ一つ記憶を確かめるようにゆっくり語った。


「…私の故郷ラナトゥスは常にガスが充満していて、風景はいつも緑色の霧で満たされていました。重金属を含んだ雨が降るためこの地球と同じく、マスク無しでは歩くことも出来ませんでした。」


「生まれた時から似たような風景が続いていたので、外は好きになれませんでした。私以外の子供も用があるとき以外は外に出ようとしません。」


 車が一台、二人の横を通り過ぎ、一瞬明るくなったトンネルが再び闇に包また。ハンスはその闇の中に、狭い地下居住区の中で身を寄せ合って暮らす、ラナトゥスの住民のイメージを見出した。


「ある日、父が飛行機に乗せてやると言って私を叩き起こしました。私は空にも陰鬱な緑の世界が広がっていると聞いていたので断りました。しかし父は、嫌がる私の手を引っ張って強引に飛行機に乗せました。『今日は珍しく打晴れているから』って。」


「飛行機は緑の雲の中を進んでいきました。私は雲の上の風景に興味ありませんでしたが、飛行機が雲を突き抜けたとき、私は目の前の光景に息をのみました。」


 ブレンダは車道に目を移した。存在しない空の風景が、目の前に見えているようだった。


「上空に広がる、雲一つない青い空。緑の雲は低空にとどまって、太陽の光を受けて鮮やかなグリーンの雲海を構成していました。入道雲が生き物のように隆起し、高層ビルが雲海から突き出している光景は、四歳の子供には衝撃的な出来事でした。」


 ハンスは初めて小型機を操縦した日を思い出した。煌めく太陽と青い空、雲の間を縦横無尽に飛び回った。激しいGの中で、ハンスは味わったことのない感動を覚えた。


「パイロットになろうとは考えなかったのか?」


「考えましたが、二年後には戦争になったのでそれどころでは…」


「今からでもやってみたらどうだ。私が持っている昔の教科書を貸そう。」


「今はパイロットを必要としていないでしょう。それに、もう戦いは…」


 もう勝敗は決まっている、と言いたいのだろう。ハンスは立ち止まってブレンダの両肩を持った。そしてできる限り笑顔であることを意識して、心にもない出まかせを言った。


「何言ってるんだ。私たちはまだ生きている。生きていればこれからいくらだって挽回できるさ。そうだろう?それに、希望もない中戦い続ける何て、こんなに辛い話は無い。この戦いに勝って、自分の運命を切り開くと考えた方が楽しいじゃないか。」


 二人のそばを車が横切り、その横顔をフロントライトが照らし出す。ブレンダはハンスの苦しそうな笑顔から目をそらした。


「…では、ありがたく頂戴します。」


「じゃあ、基地に戻ったら私についてきてくれ。わからないところがあればいつでも聞きに来てくれて構わない。」


 きっといい人なのだろう。ブレンダはハンスをそう見定めた。この人が仲間なのかそうではないのか、それは分からないが、誰かを不幸にするようなことは望まないだろう。そう思えた。それと、ブレンダはわずかにほほ笑む。この人といると、なんだか懐かしい気持ちもする。


「そうと決まれば、さっさと帰るとするか。懐かしくもない我が家へ。」


 二人は再び歩き始めた。暗い幹線道路の中は微かに街灯が明滅するほかは、明かりになるようなものは何もない。一寸先も分からない、静かで恐ろしくも感じる通路の中を、二人はただひたすら進み続けた。二人の行き先は、いまだ見えそうにない。

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