第5話 葛藤 その①

 ウミガラスの福音書 第二話 葛藤


 七月三十日、ハンスはようやっと取得した休暇を使用して羽を伸ばしていた…ということは無く、キールの宙軍宿舎へと帰ってきていたのだった。宿舎に預けている荷物を運び出すためで、少尉が気前よくトラックを貸してくれるというから、ちょうど休みが取れたこの日に決行しようと思い立ったのだ。


「そっちしっかり持てよ。」


「お前こそ、持ち上げる高さが高いんだよ。」


 白鳥とマリーがぶつくさ言いながら階段を下りて行った。ハンスは踊り場で二人をやり過ごした後、再び上に上がろうとしたが、今度は段ボールを持ったブレンダが上の階から降りてきて、もう一度踊り場で待機する。この宿舎自体が、この地区が開発中に作られたこともあって、ほかの建造物との兼ね合いで廊下や階段が異様に狭いことが原因だった。立地と言い間取りと言い、つくづくいい部屋を割り当てられたものだと、ハンスは自嘲気味に思った。

 

 ハンスはブレンダが通り過ぎたのち、部屋に入ろうとドアに手を掛けたが、中から別な人物がドアを開けて危うく手を挟みそうになった。ハンスは手を引っ込めながら一歩下がり、部屋からは小隊軍曹が姿を現した。…割烹着に頭巾姿である。軍服にも軍曹にも似合わぬたたずまいに、ハンスは無意識に眉を細める。

 

「あぁ、ハンス軍曹、荷はこれが最後だ。中に戻るならこれをもって掃除の続きをしてくれ。それが済んだら、どこか適当なところで飯にしよう。」


 そういって軍曹はハンスにハタキなるものを手渡すと、大荷物で階段へと向かっていった。残されたハンスは言われた通り、はたきであちこちを叩いて回り、それが済んだら今度は床に掃除機をかけていく。


 それにしても、軍曹の掃除に対する執念はどこから来るのかと、ハンスは首を捻った。ハンスはここを発つ前に一通りの掃除は済ませて来ていたのだが、軍曹は渋い顔でこれでは足らんと言い、ハンスは窓ガラスを磨くところから掃除する羽目になったのだ。


 次に住むやつのために全力を尽くす、これがゼン・ドーというやつか。ハンスは東洋の文化に詳しいわけではなかったが、勝手にそう結論付けた。ちなみに白鳥の方も軍曹と同じで掃除にうるさいのかと言えばそうではなく、ハンスのように最小限の掃除で済ませて軍曹にやり直しを食らっていた。顔に似合わず、案外ずぼらだ。

 

 ハンス以外の四人が戻ってきたことで、掃除はようやく終了し、五人はトラックに乗り込んだ。今回は唯一大型免許を持つ軍曹が運転を担当し、ハンスは案内役として助手席に就く。残る三人は荷台に積まれた荷物の中に体を押し込んだ。トラックはエンジンを吹かして、表通りへと繰り出した。


 表通りでは怪しげな店の怪しげなネオンがビカビカ光り、今日分の飯代を求めてコールガールが道行く車に手を差し伸べている、まるで私をここから救い出してとでも言うように。相変わらず教育に悪い街だ。少し前までここに住んでいたにもかかわらず、外の景色に対してハンスは侮蔑の目を向ける。特に後ろにいるお嬢様方には、あまりお見せしたくない。


「何処か此処等に、うまい飯を出す店はないのか?」


 軍曹がハンスに尋ねる。ハンスは街についての記憶をたどるが、無味乾燥した思い出にそんなものは見当たらなかった。何せこの街の主要産業が売春であるため、治安が悪くてまともな店はほかの街へ移っていってしまったからだ。


「すいません軍曹。ここらは見た目通りの街でして、いい店はたいていほかの街に逃げてしまったのです。」


「そうか…。では俺が良く行く店にしよう。ベルリンまでまっすぐ戻ることになるが構わんか?」


「ええ勿論、お願いします。」


 荷台の三人も全員同意を示す。


「気にするな、ハンス軍曹。少尉のご厚意も、俺の新設も、歩兵であれば当然のルールだ。

誰かが困難に直面した時、全員が問題に対処する、それが小隊の掟だ。小隊は家族であり、一つの生き物として行動するのだ。お前も小隊の一員ならばよく覚えておけ。」


 トラックはベルリンへと向かう大通りに入ると、一気にスピードを上げる。大通りの左右には所狭しと如何わしい店が立ち並び、マリーは幌の窓から顔を出して外の風景とそこにいる哀れな連中を眺めた。

「何か気になるものでもあったか。」


 白鳥がマリーに尋ねると、マリーは片頬を上げて笑う。


「いやぁ、俺も軍隊に入らなかったら、こんなところで働いていたのかと思ってな。」


 白鳥は仏頂面を崩さずに答えた。


「心配するな。人生の災厄な出来事ってやつは、どんどん更新されていくものだ。ここで働いていたとしても、すぐにまた別のひどい出来事がやってくる。」


「…笑えねぇよ、今の話のどこに安心する要素があんだよ。」


 トラックは三時間かけてベルリンへたどり着き、一行は小隊軍曹行きつけの店に行きついた。どんな場所かとハンスは勝手に想像していたが、意外にも普通の洋食屋だ。五人が席に着くと、小隊軍曹は四人の意見も聞かずに注文を決めていく。グラタン、ピッツァ、ナポリタン(ハンスは聞いたこともなかった。)と次々の料理が運ばれていく。


 ただのミートスパゲッティにしか見えないこの麺料理が、なぜ別な名前で呼ばれるのか。ハンスは訳が分からないままナポリタンを口へ運び、そして理解した。成る程、ケチャップか。同じトマトから作られるソースを使った麺料理だが、二つは確かに異なる料理であった。ナポリタンは薄めの味付けのおかげで、一皿食べても胃がもたれ無さそうだ。こんなうまいものをなぜ自分は知らなかったのだろう?ハンスは不思議がった。まあいいか、今日知ったのだからまた食べに来られる。


「久々に食う娑婆の飯はうめぇや。」


 妙に似合うセリフを吐きながら、マリーはいつの間に頼んだのかナマコの戻し煮を口に運んでいる。…確かここは中華屋ではないはず、どうしてこんな料理がメニューにあるのか。よく見ればほかにも洋食とは思えない料理が並んでいる。本当に全部食べられるのだろうか。自身の心配をハンスは目で訴えかけるが、当の本人が気付く様子は全くない。


 訳の分からん珍味を片っ端から頼んでいくマリーとは対照に、白鳥は洋食屋らしいオーソドックスな料理を頼んでいく。慎重な白鳥らしい実に堅実なラインナップだ。…ただし、その注文数が異常に多いことを除けば。


 すでに白鳥はハンスと軍曹を合わせたよりも多くの料理を平らげているが、その勢いはいまだ衰えることを知らず、このままではほかの料理も十分と掛からずに平らげてしまうことだろう。最初は気を使って全員の分を頼んでいるのかと思ったが、どうやら他人にあげる気はさらさらないようだ。


 二人の様子を見てハラハラしているハンスとは対照に、夢中になって食べる二人を見て軍曹は満足そうに笑う。


「どんどん食べろよ、ここの支払いはハンス軍曹の驕りだからな。普段食えない分好きなだけ食え。」


 それを聞いてハンスの食べる速度が著しく低下する。この軍曹、またとんでもない事を言いやがった。この店の価格はリーズナブルだが、白鳥の勢いによっては今週いっぱいハンスがひもじい思いをする羽目になる。これが軍曹の言う、小隊同士の助け合いというやつなのだろうか。


 ハンスは想定外の出費に半ば呆然としていると、ふと、ブレンダが全く料理に手を付けていないことに気が付いた。ブレンダはフォークすら持ち上げた形跡はなく、ただ目の前にある皿をじっと凝視している。


 ブレンダはポケットから飾り気のないポーチを取り出すと、中に入っていたカートリッジを手に取り、マスクのソケットに取り付けた。カシューという圧搾空気の音と共にカートリッジの中身が、マスクへと吸い込まれていく。


「食べないのか?」


 異変に気付いた小隊軍曹が心配するようにブレンダを見つめる。ブレンダはいつもの無機質な機械音声で


「…えぇ、お腹空いてないので。…」


 とだけ答える。先までバクバク食べていた二人も空気の変化を感じ取り、ブレンダに注目する。フォークとナイフの音がしていた食卓に沈黙が訪れる。四人は何も言わず見つめるばかりで、ブレンダの方も下を向いたまま何も話そうとはしない。

 

 最初に沈黙を破ったのはハンスだった。

 

 「いらないなら私がもらうぞ。今日は腹が減ってたまらんからな。」

 

  ハンスはブレンダの皿を持つと黙々と食べ始めた。「隊長がっつきすぎ~。」とマリーがからかうように笑う。さっきから人の金だと思って変なもの注文しているお前にだけは言われたくない。ハンスは目を細める。

 

 ブレンダは俯いたままなのでこれが正解なのかは分からないが、とりあえず気まずい空気ではなくなった。それで良しとしよう。ハンスはそう結論付けると、都合三皿目となるナポリタンを若干えずきながら平らげた。

 

 ハンスの驕りで心行くまで料理を堪能した一行が、ようやく中隊宿舎まで戻ってきたのは午後三時を過ぎたあたりであった。宿舎の入り口には第一分隊の兵士が何人かいて、荷物の運び出しを手伝おうと、トラックの周りに集まってきた。一行も荷物を運び出すためトラックを下りるが、マリーだけがその場から動こうとしなかった。


「何をしている。…早く降りてこないか。」


 けげんな表情を浮かべながら、白鳥がマリーを急かす。マリーは体を左右に揺らしながら駄々をこね始めた。


「白鳥くぅ~ん、ぼかぁもう駄目だぁ。トラックに散々揺られてやられちゃったもの、こっから一歩も動ける気がしないよ。」

 

 小隊軍曹があきれた表情になると、しらじらしいほどの棒読みで周囲の人々に告げる。


「諸君、この休日の中手伝ってくれてどうもありがとう!今日来てくれた皆には、あとでささやかながらお礼の品を差し上げたいと思っている。だがもし、さぼっているやつを見つけたときは…」


「いやだなぁ軍曹!そういうことは早く言ってくれなくっちゃ。さぁ運ぶぞブレンダ!もしさぼったらひどい目に合うらしいからな!」


 マリーは急いで立ち上がり、荷物をブレンダへ乱暴に押し付けると、今度は何か言おうとした白鳥に荷物を投げ渡した。こうしてマリーが急ピッチで荷物を渡していくことで、トラックの中のハンスの私物はあっという間になくなったが、あれだけ乱雑に扱われて中身は無事なのだろうか。


 こいつにはもう二度と頼まん。ハンスはそう誓って知り合いからもらったチャブ=テーブルを持つと、自分の部屋へ向かった。最初は使いどころに悩んだが、今ではコーヒーテーブルや書類置きとして重宝していた。自分としては、これで足が長ければいうことがないのだが、とハンスは常々思っていた。


 荷物を運び終えると、小隊軍曹がいつの間に用意したのかクーラーボックスを持ち出してきた。中には飲料やアイスが入っていて、小隊軍曹が配り始めるとマリーが真っ先に飛びついた。白鳥はそんなマリーを白い目で見るが、自分もちゃっかり二番目に並んでいる事をハンスは見逃さなかった。

 

 ハンスはブレンダが列に並んでいないことに気が付くと、ポケットに手を入れたままブレンダの方へ歩み寄った。んん、とわざとらしく咳払いすると、ポケットからコーヒーを取り出してブレンダに差し出す。


「その、なんだ、手伝ってもらって何もないというのも悪いし、今はこれしかないんだが…、よければ受け取ってほしい。」


 決まった。ダメ押しとばかりに、笑顔を向けるハンス。ブレンダはコーヒーに、そしてハンスに視線を移すとこう告げた。


「私は、コーヒー飲めないので…」


「あっ…、そうだったのか?」


 自分の厚意があっさり空振りに終わったことで、ハンスは配慮の足りない自分が恥ずかしくなってきた。こうしている間にもブレンダはフォローの一つもなく、ただじっとハンスを見つめるだけだった。二人の間(ハンスしか思っていないかもしれないが)に微妙な空気が流れた。


「すっ、すまない、今何か別なものを。…」「いいえ、お気持ちだけで結構です。ありがとうございます。」


 慌ててハンスが代替案を述べようとするが、ブレンダは表面上感謝の意を表明すると、静かに立ち去ってしまった。


 またやってしまった、コミュニケーションでヘマをしでかすのはこれで二回目だ。成長しない自分にあきれて、ハンスは静かに目を閉じる。


 小隊軍曹の時はまだいい、あまりに突然のことで自分も混乱していたからな。だが、今回の件は完全に自分の落ち度だった。ブレンダは一見とても従順そうに見えるが、実は隊で一番の難物だった。扱いを間違えて場の空気が凍り付くこともしばしばある。隊長として、体内の不和につながるような事象は何としても避けたいところだ。何としても。


 それに…、


 ハンスは洋食屋でのブレンダの様子を思い浮かべた。自分が何もしなければ、彼女はずっとああやって一人で過ごしているのだろう。


 ハンスは首を振って先ほどの考えを隅に追いやる。やめるんだハンス。余計な心配は決断の邪魔でしかないし、必要以上の関心は失った時の痛みを大きくする。いつの間にかハンスの目には、宇宙軍でパイロットをしていた時の表情が宿っていた。鷹が獲物を狙う時に見せる、カメラのように無表情で残酷な目。ブレンダもそうだが、ハンスもこの絶望に侵された世界にすっかり毒されていた。


「やっちまったねぇ旦那。」


空気を読まないマリーがやれやれとハンスの肩に手を置くが、何ら反応を示さないハンスを見て一瞬たじろぎ、手を放してそそくさと立ち去った。

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