第2話 邂逅 その②

自分の新しい任地に到着した時、ハンスはすでに疲労困憊にただ中にあった。グスタフ基地というのが、ベルリン第十一避難区を五階層丸々使った巨大な施設だということは前から知っていた。

 

 が、自信の想像を超えた広さの巨大な迷宮は、ハンスを一時間半にわたって苦悩させた。さらに、新しく受け取った事例の行き先が、自分が最初に乗っていたバスの目的地であったという事実が、彼をさらに疲労せしめた。

 

 どうなっているのだ…。ハンスは吐息とともに声にならない声を漏らした。辞令を受け取りにいかせたり、バスに乗せたり、また辞令を取りに行かせたり、なんだってこんな面倒なことをさせるのか。


 ハンスの疑問に答えられる人物は、今頃優雅なランチタイムとしゃれ込んで、命令を出したことすら忘れている事だろう。だが、それはとりあえず、今はどうでもいい事であった。ハンスの目の前には最後の、そして最大の疑問が立ちはだかっていたのだから。

 

 ハンスはチラッと視線を上にあげ、目的の建物に表記された文字を確認する。『第二五五歩兵大隊第三中隊』とある。次にハンスは、自信の受け取った辞令を確かめる。そちらにも『第二五五歩兵大隊第三中隊』と書いてある。それらを交互に見返してみる。第二五五歩兵大隊第三中隊、第二五五歩兵大隊、歩兵大隊、歩兵、ほへい、ホヘイ…、


「歩兵ぃ!?」


 自身の素っ頓狂な叫び声が無人の駐車場に木霊する。ハンスは口を押えると、念のためにほかに人がいないか辺りを見回した。これから世話になるかもしれない場所だ。あまり悪目立ちするといいことは無いだろう。なお、すでにその宙軍の制服のおかげで、ハンスはしっかり悪目立ちしていたのだが。


 ここでぐずぐずしていても埒が明かない。ハンスは意を決すると堂々とした足取りで、宿舎の自動扉をくぐった。最初は堂々としていた足取りはしかし、徐々に勢いを失って最終的には肩を縮こまらせて辺りをうかがうように、そろりそろりとした歩き方に変わっていった。


 第四中隊の宿舎の中でハンスは陸軍の、いや歩兵部隊の独特な雰囲気に気圧されていた。パイロットの宿舎よりも濃密に感じられる死の臭い。下品なポスターや壁に飾られた戦利品の数々は、持ち主のタフガイさを演出させるためのものだろうか。


 早いとこ目当ての人物を見つけ出そう―居心地の悪さを感じたハンスは手近な兵卒を捕まえると、小隊軍曹の居場所を聞き出して、足早にトレーニングルームへと向かった。前からくる兵士の奇異な目を感じたり、休憩中の兵士から下品な冗談を投げかけられる度に、ハンスは縮こまり、できるだけ前を向いて歩くことを心掛けた。

 

 とにかく、一刻も早く小隊軍曹を探し出し、この目立つ制服を着替えたかった。これ以上周りの心境を悪くするようなことは、少なくともハンスの望むことではないのだから。

 

 目当ての人物は案外簡単に見つかった。というのも、このトレーニングルームの中で一、二を争うオーラを放っていたからだ。日焼けした浅黒い肌で、背はハンスよりも低いが腕も足もハンスより二回り太い。鉄人、そんな言葉がぴったり当てはまった。

 

 男はダンベルを下すとゆっくりとこちらに向き直る。気怠そうな表情だがハンスの動きを見逃すまいと鋭い視線を投げかけてきた。落ち着けよハンス、心の中でそう繰り返し、ハンスは居住まいを正して親しみやすそうな笑みを意識した。


「本日付でこちらに転任となった、ハンス=ヴァルター・ヨアヒム少尉だ。貴官の第四小隊に配属となる。よろしく。」


 ハンスはできるだけ平静を装っていたが、男の方はそんなことは気にも留めず、短い言葉を発した。


「随分時間がかかったな、ええ、三等軍曹?」


「あ、いや、あの、それは…」


「いや、いい、何も言うな。大の男の言い訳ほど聞き苦しいものはない。自分の立場を弁えていないような奴の言い訳は特にな。…まあいい、黒井武雄。一等軍曹だ。」


 今の会話だけで、自分と軍曹の立場が決定的なものになったことをハンスは実感した。軍曹の発する声に何の感情も込められていないばかりか、自分を突っぱねるような言動にハンスは、少尉としての誇りはどこへやら、訓練生に戻ったように平身低頭となって小隊軍曹に教えを乞う。


「申し訳御座いません軍曹。あの、出来ればこの若輩者に、ここで決まりやルールなどご指南いただけないでしょうか。」


「ぺこぺこするばかりの男というのも実に情けないな。…それで、何が知りたい?出口か?それとも退役願の書き方か?」


「できれば部屋の場所から教えていただけると助かります。」


 小隊軍曹は周囲を見渡したが、適当な人物がいなかったのか面倒くさそうに立ち上がり、付いてくるよう顎で示した。二人はトレーニングルームを出て、宿舎の二階へと上がって行く。示された部屋は意外にも、一人部屋であった。


 この場所に転属になって初めて良いことがあった。まあ、今日起こった出来事を合わせれば、それでも不幸な日であることは変わりないが。ハンスは荷物を置いてからおずおずと軍曹に向き直り、いくつか質問をしようと口を開いた。

 

「軍曹、この後…」


「必要書類は机の上にある。今日中に目を通しておけ。」


「朝食は〇七〇〇、昼は一二三〇、夕食は一九三〇、日の業務によって前後する。」


「普段は午前に訓練又は通常業務。午後も訓練又は通常業務。夕食後は自由時間だが必要に応じて訓練や業務にあてろ。就寝は二三○○、〇六三〇に起床だ。」


「質問はあるか。」


 ハンスの言葉などまるで聞く気がないのか、軍曹に矢継ぎ早にまくし立てられて、ハンスは若干イライラしながらも丁寧な態度を崩すまいと心掛けた。しかしハンスの三文芝居など、この小隊軍曹の前では通用しない。ふん、と鼻を鳴らすと、椅子に腰かけて見下したような視線をハンスに向ける。


「何か言いたそうな顔をしているな?」


一瞬どきりとしたハンスだったが、「いえいえ。」と言いながら笑顔を意識し再び従順さをアピールする。だがハンスの様子に軍曹はさらに機嫌を悪くしたのか、眉間にしわを寄せ不機嫌な感情を露にする。ハンスはここにきて漸く、自信の戦略の誤りを認識した。


「それが宙軍のやり方というわけか。まあ、生意気な口を利かないだけさっきよりはましだが…。三等軍曹、一つだけ言っておく。ここでは自分を将校だなんて思うな。」


「はい軍曹。」


「この小隊の将校はただ一人、リーバイ・オイストラフ少尉と決まっている。もし、ほかの隊員の前であんな態度をとってみろ、ここから生きて出ることはできんぞ。」


「はい軍曹。」


「こっちはわざわざ予備役少尉を軍曹の待遇で受け入れてやっているんだ。戦場のイロハも知らずに軍曹だなんてありがたいと思え。」


「はい軍曹。」

 また予備役少尉とかいう気になる単語が飛び出してきたが、ハンスは何も尋ねなかった。そういうことなのだと理解して、心の中で泣いていた。

 

「兎に角、今の貴様はただの三等軍曹だ。次あんな態度をとったらただではおかん。もし自分に尊敬を集めたいと考えているのならば、実力で示すことだ。」


 小隊軍曹は立ち上がると、ハンスのすぐそばまで近づきハンスの胸を指さしながら続けた。


「わかったな。」


「はい軍曹。」


最後の方はハンスもにやけ面がすっかり消え失せ、新兵のように緊張で引き締まった顔へと変わっていた。新米軍曹ハンスの戦いが今始まる!


「よぉし、分かったところで早速行くか。」


「行くって、どこへですか?」


「部屋についただけで終わらせるつもりか?お前の仕事についての説明がまだだ。食堂へ向かうぞ、付いて来い。」


 それを聞いてハンスは落胆した。この軍曹今なんて言った?食堂だって?いやいや、何かの間違いだろう。

 

 そもそも補給部隊やらなんやらの後方任務であればなぜ自分がやる必要があるのだろうか。そんなものは専門家に任せればよいだろう。なんで…俺なんかが…。あり得るはずがない!そう自分に言い聞かせながらも不安になったハンスは恐る恐るといった様子で軍曹に尋ねる。

 

「軍曹、聞き間違いでしょうか今食堂に行くと…」


「ん?いや聞き間違えてなんかいない。食堂に行って、仕事について教える。これしきの事も貴様は覚えられんのか?」


 終わった。食堂までの道のりを、ハンスは重い足取りでたどった。頭がぼうっとしてどうにかなりそうだった。自身に課せられた任務、それが何なのかハンスは確実にその正体を掴んだと考えていたのだ。


 主計科だ。


 ハンスは心の中でそう呟いた。主計科。それは厨房をねぐらとし、戦闘員のために日々糧食を生産することに情熱を費やす兵科。要するに、戦場のコックである。

 

 ハンスは絶望した。本当に体のいい厄介払いだったとは、それも最悪のパターンで。ハンスはこれから敵との戦いに赴く兵士たちを眺めながら、敵に対する怒りを人参や、じゃが芋にぶつける日々を過ごす羽目になるのだ。補給部隊のほうがまだましだ。戦闘員を直接目にしないぶん自身の境遇を嘆かずに済む。

 

「いつまでそこに立ち尽くしているつもりだ。さっさと中に入って、お前の下につく哀れな連中に挨拶しろ。」


 もう、全てを諦めよう。ハンスはあきらめに境地に達し、切り替えて考えようと努めた。しかしどうやって?何をどう解釈すれば次の仕事に邁進できるのか、ハンスには皆目見当もつかない…。


 食堂のドアを潜り抜けてから、ハンスは待てよ、と考えを改める。三等軍曹ということはまず間違いなく部下がつくということだ。これは自分にとって初めての経験だ。何しろパイロットは全員士官なのでハンスは部下を持ったことがなかったからだ。


 せめてそれが、楽しい経験になることを祈ろう、ハンスはそう考えることにした。自分の上官がどんな様子で部下を率いていたかを思い出せば、そんな考えはあっさり吹き飛んでしまうだろうが、今のハンスには無理な話だった。

 

 だが、ハンスの考えはまたしても裏切られることになる。自分の部下だという連中を軍曹が指し示した時、諦観の念によって静寂を取り戻したハンスの心は再びざわつき、ハンスは目を丸くした。


 目の前にいるのは三人、それも若い、というか子供だ。いや子供というには大きすぎるが、成人しているとはとても思えない。ハンスがしどろもどろになっていると、三人の中の一人、人懐っこい笑顔を浮かべた褐色肌の兵士が口を開いた。

 

「おやおや、まるで幽霊でも見たような顔じゃあないか。将校サン。」


 聞き覚えのある声だった、いや確実に先ほど聞いた声だ。確かマリー・ビゼラルとかいう名前のコメディアンめいた兵士。


 困惑の中でハンスは「君たちは…」と一言発するのが精いっぱいだった。マリーが芝居がかった大げさなジェスチャーで両手を広げる。


「おぉ、これはこれは。荷役係の少尉さんじゃないか。どうしたんだこんなところで、迷子か?」


「なんだ知り合いだったのか、ならばほかの二人とも親睦を深めると良い。今日からこの四人で第六分隊を編成するからな。


 なんだって


 またしてもこの軍曹はおかしなことを言いやがる。そう思いつつ、ハンスはもう一度軍曹に確認の質問を行う。


「あのー軍曹、その―自分の任務というのは主計科の任務ではないのですか?」


「誰がそんなことを言った。貴様の任務はここにいる四人で分隊を結成し、使い物になるようにすることだ。使い物になるというのはもちろん、貴様のことだ。この三人はお前より長く普通科(歩兵の事)の経験を多く積んでいるからな。俺も貴様がいっぱしの分隊長になれるよう、ビシバシ鍛えていくつもりだ、覚悟しろ!」


「おやおやぁ、初めからハードモード突入とはついてないね少尉サン。まあこれから長い間、よろしくね♪」


「よろしくお願いします!」


「…よろしくお願いします。」


 悪魔がゲラゲラ笑っている。ハンスにはそんな気がした。そいつがたとえ神様であっても、ハンスには殴らずにはいられなかった。なんにせよ、ハンスの受難は始まったばかりだ。がんばれハンス!




 悪夢のような一日から三週間は経ったろうか。ハンスは訓練に疲れた体を別途に横たえて、布団もかぶらずに眠りにつこうとしていた。最近はずっとこんな調子である。

 

 屋内訓練場で怒鳴られ、地上でも怒鳴られ、特に地上での小隊訓練には二度と参加したくない。小隊軍曹に小突き回されながら、演習場を駆け回るのはもうごめんだ。ほかの隊員たちの手前、加減はしているのだろうが、周りからの視線は冷たかった。

 

 ハンスの頭の中に、ほかの隊員たちとの顔合わせの時の情景がありありと浮かび上がってきた。分隊員との顔合わせが済んだ後、分隊長たちとも顔を合わせたが、一人の二等軍曹以外はみな無関心といった様子で、まぁご勝手に、正し、絶対に自分の邪魔はするな、という寒々しい態度がひしひしと伝わってきた。


 小隊長、つまりリーバイ少尉とは一度話したが、二言三言短い言葉を交わして、それっきりだ。ハンスは寝返りを打ち、頭にたまった不安を振り払おうとした。悩んでいても仕方がない、もう寝よう。どれだけ明日を拒もうと、明日は待ってはくれず、その見飽きた顔を自分の前に表すのだから。

 

 ハンスがようやく眠りへ誘われそうな頃、望まぬ訪問者は唐突にその幸福を打ち破り、ぶしつけにドアへノックをかましてきた。ハンスは訪問者に対して要件を話すよう言ったが、やっと口から洩れた一言は言葉と呻きがごちゃ混ぜになっていて、ハンス自身にも理解が困難だった。


「隊長、白鳥です。小隊軍曹に駐車場へ集合するようにと、伝言を預かってまいりました。」


「何分後だ。」


「一分一秒も無駄にするなと。」


 訓練によってボロボロになり疲弊しきっているハンスとは反対に、白鳥 可織上等兵はいつも通りのはきはきとした口調で用件を伝える。東洋人らしいインクのように真っ黒な黒髪を、アップヘアーにして後ろで束ねていて、眼鏡の奥にある神経質そうな目とあいまって女教師のような威圧感がある。ハンスが寝起き直後の朦朧とした意識でドアを開けると、直立不動の姿勢で彼を迎えた。


「お早うございます。」


「…眠れたように見えるか?」


「眠れるときにお休みになられませんと、お体に障りますよ。」


「呼ばれなきゃ寝てたンだ。

 むっとした表情のままハンスは白鳥の横を通り過ぎ、駐車場へと気乗りしない足を運ぶ。そのあとにハンスを追い抜かないようにして、白鳥が続いた。


 深夜の駐車場には小隊軍曹の姿はなく、ハンスの二人の部下が談笑(片方が一方的に話しかけているのをそう呼ぶなら)していた。やれやれ、今回は小隊軍曹にいちゃもんをつけられずに済みそうだ、とハンスは心の中でほっとする。


 これまでの経験から言えば、一回の小言が比べ物にならないほどののしられるのは自明の理だったが、ハンスはあえて無視した。

 

「おはよぉぉございまぁす!」


 にやにやした笑顔でマリー・ビゼラル一等兵は挨拶した。何か楽しい事でもあったのだろうか?ぜひその幸運にあやかりたい、ハンスは心の中で羨んだ。


「…お早うございます。」


 無機質な機械音声でハンスの最後の部下、ブレンダ・アボット一等兵が呟く。彼女の顔の下半分はマスクに覆われていて、表情を伺い知ることはできない。鉱山惑星であるラナトゥス生まれ特有の緑髪を長髪にしているのが特徴だ。ちなみに、マリーの方は何があったのか真っ白になった髪を、無造作に後ろで束ねている。

 

「おはよう!諸君!」


 皆がそろった後、ツーブロックの筋肉ダルマ…ではなく、小隊軍曹の黒井武雄が肩を揺らしながら歩いてやってきた。この男、昼間はハンスの二倍走っていたはずなのに、まるで疲れた様子がなく、ぴんぴんしている。


「眠そうだな、ハンス!下士官は体力勝負、そんなことでは兵になめられるぞ!」


 今日は大丈夫かと思っていたハンスに、さっそく小言が飛んできた。軍曹というやつは人の欠点を見つける天才だな、とハンスは思った。小隊軍曹の後ろで、マリーが声を押し殺して笑っている。これが橋が転んでもおかしい年頃、というやつか。


 そんなにおかしいならいっそ変わってやろうかとぼやきつつ、ハンスは「すいません軍曹!」と声を張り上げた。「よぉし!」と何かに納得したらしい小隊軍曹が再び話し出す。


「では諸君、これより夜間行軍を開始する。ジープで第一階層へ向かい、そこから、灰の森を目指して徒歩行軍を行う。質問はあるか?よし、総員かかれ!」


 小隊軍曹の怒声が飛ぶと、四人はすぐさまジープへ飛び乗る。運転はもちろんハンスだ。


最後に小隊軍曹が乗り、命令を下した。


「ハンス、車を出せ!」


 へいへい、とハンスはジープをわざとらしい安全運転で発進させる。地位や実力でかなわないハンスにできる唯一の反撃だったが、隣に乗っている鉄面皮にどこまで通用しているのか、傍目にはわからない。ハンスは諦めて真面目にジープを運転し、幹線トンネルに入って第一階層を目指した。不定期開催、深夜の特別演習の始まりである。


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