第2話
食べる前にまずハンマーヘッドを解体しなければいけない。羽がオレンジ色の業務用大型扇風機を最大出力にしてアンモニア臭を吹き飛ばしたら、準備は完了。
目が乾くくらいの強風がゴウゴウ吹き荒れるなか包丁を入れると、皮が恐ろしく硬い。鮫肌を舐めていた。刃先が削れているような気がする。そこで、祖母ちゃんが深夜のテレビ通販で買った、爪ヤスリみたいな砥石を使ったところ、びっくりするくらい切れ味がよくなった。楓夏の細腕でも、ハンマーヘッドの分厚い皮がさくさくと破れていく。
「この包丁すごいです!」
「へー、肉ってこんな色なんだ……」
ハンマーヘッドの脇腹、ちょうど黒い背中側と白い腹側の境界線にできた裂け目を広げると、薄い桜色が覗く。鯛の刺身をもう少し濃くした色だ。扇風機のおかげでアンモニア臭も気にならない。
順調に包丁が入っていき、かつん、と軟骨に当たったらしい。刃の方向を変え、拳くらいの大きさに身を切り出した。表面は艶やかで弾力もある。皮の黒と身のピンクがいいコントラストを演出し、見た目だけなら意外とおいしそうですらある。
先端をひょいっと削って、楓夏は口に入れた。
むせた。
泣いている。
洟をすすっている。
蛇口のもとに走っていき、水といっしょに飲み下した。
「そんなに臭かったの……?」
帰ってきた楓夏に尋ねても答えは返ってこない。
代わりに首を振りながら、薄く削られたハンマーヘッドの肉を差し出される。
葉月は口に入れた。
むせた。
泣いた。
洟をすすった。
蛇口のもとに走っていき、水といっしょに飲み下した。
舌がしびれる。吐く息がとことん臭い。胃袋が、全然掃除されていない公園の公衆トイレになった。とにかく息を吐くのがいやで、次にしゃべるまで軽く一時間はかかった。
「楓夏、こんなもの食べるの、本当に?」
「おかしいです、もっと普通に食べれるって聞いたんですけど……まさか……」
「え、なに」
「わたしがハンマーヘッドから出てきたとき、アンモニアの臭いを洗い流したせいでアンモニア臭への耐性がなくなったのでは……」
「わたしのせいじゃないかっ!」
楓夏が瞳を潤ませて見つめてくる。
「せ、責任、とってください……」
「いや、あれは仕方ないことで……」
「全部食べれないと、わたし……」
抱きつく勢いで葉月に迫る。貸したワンピースがオーバーサイズ気味で谷間が見えた。ワンピースなのに着やせしている。
ぐぬぬと奥歯を噛みしめつつも、
「あぁわかったわかった、いっしょに臭くない食べ方探すからさ」
「本当ですか、ありがとうございます!」
なんだかいいように掌で転がされているような気もするが、まぁ、この夏やりたいことも特にないので、暇にならないだけいいのかもしれない。
「とりあえず解体しよっか。でも、身を取るのってふつう最後じゃないの、魚の捌き方から考えると」
「あ、それもそうですね」
ヒレを落とすところから再開した。胴体とは軟骨で繋がっているのだが、数百キロの巨体は伊達ではない。軟骨なのに尋常でなく硬い。のこぎりで無理矢理落とした。一抱えはある両の胸ビレに、人間とほぼ同じ大きさの背ビレと尾ビレ、これが一千万の大金になると思うと手が震える。祖母ちゃんに渡すのも一苦労だ。
さて、ここでハンマーヘッドの解体は最大の難所を迎える。内蔵の処理。
「いい、いくよ」
「はい」
ふたりで持った包丁を、内臓を破らないよう繊細に、しかし肉と皮に負けないよう勢いよく、ハンマーヘッドののど元に突き刺し、肛門のほうへ走りながら引く。
どちゃっ、
べちゃっ、
グロテスクな音を立てて、巨大な内臓が地面に流れ出した。
「きゃーっ!」
「くっさー!」
アンモニアの塊が爆発したようなものである。一目散に逃げ出した。すこし距離をとって怖いもの見たさで観察するのだが、オオサンショウウオみたいに平べったく広がった黄みのある灰色が肝臓、その下に押しつぶされたようになっている鈍いどどめ色が腸だろうか。肝臓が大きすぎてほとんどの臓器が隠れてしまっている。
「見てるだけで鳥肌立ってくるんだけど」
「でも、あれを処理しないとですよ」
「それはわかってるけど……」
「あらー、これ鮫の肝臓でなかねー」
逡巡していると祖母ちゃんが大きなバケツを抱えてきた。
「肝臓もらってってもええかねー」
「持ってってくれるのー?」
「こっから肝油ってのがとれるんよ。健康にええでー」
大きな肝臓をすぱすぱと細かく切り分けながら、バケツに放り込んでいく。
「ほんじゃ、これもらっとくからねー」
何事もなく帰っていく祖母ちゃん。見事に肝臓だけがなくなっている。ほかの臓器もなんとかしてくれないだろうかと少し期待はしていたが、さすがにそこまで甘くない。
「……バケツ作戦はありかもね」
「でも、入れるの大変ですよね」
なぜかじゃんけんで内臓処理係を決めることになり、当然のように葉月が負けた。
「ちくしょおおおおおおおおお!」
右手に包丁、左手にバケツを持って走る。目の前には大量の内臓。とりあえずそれっぽいところで切り分けて、片っ端からバケツに突っ込んでいく。
「うっ……おえっ――」
急に吐き気がこみあげてきて、一旦退避。頭から水をかぶって心を落ち着ける。
「大丈夫ですか?」
「息は止めてるのに、アンモニアが肌を貫通してくる……」
ハンマーヘッド周囲のアンモニア濃度が、飛び出た内臓のせいで、業務用扇風機では敵わないほど高まっている。呼吸などしなくとも、鼻の粘膜にいくらでもアンモニアが攻め込んでくる。
「頑張ってくださいね」
「ちくしょおおおおおおおおお!」
走って、ちょっと作業をして、吐きかけて、退避して、水をかぶって、また走って、を六度繰り返してようやく内臓をバケツに仕舞い込むことができた。大型の蓋付きバケツふたつがたぷたぷである。
「お疲れ様です。あとはわたしに任せてください!」
袖をまくる楓夏。内臓をバケツに詰め込んだおかげで臭いもすっかりましになり、彼女の手際が光った。ものの一時間ほどで、数百キロのハンマーヘッドはすっかりハンマーヘッドの部分を残すのみとなった。
楓夏はハンマーヘッドの両翼に、一本の紐の両端を通して軒先につるした。
「それは食べないの?」
「はい。頭の部分には食べる以外の使い道があるので」
「へー」
「それより、切り身から臭みをとる方法を考えないと」
「そうだったそうだった」
ふたりで思いつく限り処理方法を挙げる。
水にさらす、料理酒にひたす、酢でしめる、塩で揉む、醤油で洗う、天日干し、焼き、湯引き、煮つけ、カレー、フライ……。
臭みは口に入れさえしなければ我慢できる。料理中はさほど苦しめられることもない。
問題は身の中から吹き出てくる臭いなので、どうにかしてこれを除去しなければならない。調味料をまぶすだけでは効果がない。和えたりするのはなし。火を通すといくらか緩和できるが、無臭になるわけでもないので、胃袋に臭いが蓄積されていく悪寒があった。
「フライ、これ結構いけるんじゃない?」
「本当ですね……マヨネーズをかけるともっといけます!」
最大の戦果は、衣をつけて揚げるのが一番いい、という発見だった。油と相性が良いのか、マヨネーズの酸味も相まって、旨味の全くない白身魚のフライ程度の感覚で食べられる。ほくほくと身が崩れていく舌触りが意外と美味しいかもしれない。
「でも、こんなに油物ばっかり食べられないよね……」
「ちょっと胸焼けがします……」
一時間も食べると体は限界を迎えた。衣で嵩が増えているうえに、油でカロリーも爆上がりなので量を消化できない。真夏のキッチンで揚げ物をするのも一苦労だった。
塩漬けや糠漬けに望みを託しつつ、別の不安がよぎる。
「そういえばさ、内臓ってどうするの」
「まず血抜きをするところからですかね……」
「あ、やっぱり食べるんだ。あの量を血抜きってなると、水にさらすしかないかな……」
「そんなに大きな水場ってあります?」
「裏手に川があるよ」
「あの量、一気に持っていけますかね」
「あ……」
何せ大型バケツである。成人男性でも持っていくのは不可能だろう。
「じゃんけんぽん」
「ぽん」
「ちくしょおおおおおおおおお!」
またも負けた葉月が、大型バケツの中身を小型バケツに入れ替えた。川では、大型の網かごを水に浸し、そこに内臓を入れることにした。新鮮な湧き水がいくらでも流れてくるので、効果はてきめんだろう。臭いも取れてくれるかもしれない。
そうこうしているうちに、楓夏が落ちてきた日はすっかり夕方になっていた。
「さて、下ごしらえしたやつがちょっとでもましになってるといいんだけどね」
「数時間でよくなりますかね……」
楓夏の懸念は大当たりで、数時間ではほとんど効果なし。翌朝に何らかの変化があることを期待て、この夜はずっとハンマーヘッドの肉を揚げ続けた。
「ていうかここまでしてなんで食べなくちゃならないの」
「自分が脱ぎ捨てたものを美味しく食べられるのは大人の証拠だ、ってハンマーヘッドの昔話がありまして」
「にしてもキツすぎない? 臭いとか」
「それは、ちょっとしたトラブルなので」
「あはは……」
翌二日目、塩漬けは水が抜けただけでむしろ臭みが濃縮されていた、ダメ。酢漬けはアンモニアに酢の匂いが足されただけでダメ。水や料理酒にさらしたものも、そこまで匂いが落ちたわけではなかった。
「アンモニア強すぎない……?」
唯一、天日干しにしたものが若干の臭いの改善を見せていた。
「味もちょっとだけついてますね。明日になったらちょうどいいくらいじゃないですか?」
ソフトするめくらいの硬さになったハンマーヘッドの肉は、一口二口なら飲み込める臭いになっていた。そういう珍味なのだといえばぎりぎり納得できそうなレベルだ。
日が明けると、丸二日近く干してカサカサになったハンマーヘッドから、見事に臭みが抜けていた。
「よし、片っ端から全部干そう!」
「はい!」
納屋から引っ張り出してきた茣蓙を壊れた縁側の軒先に広げ、ありったけのハンマーヘッド肉を並べていく。塩漬けのものも冷蔵しておいたものもすべて並べる。二日間干したものをしがみながら、およそ一時間。腰が悲鳴を上げつつも、ずらりと並んだ桜色の肉片はなかなかに壮観だった。
「こっちは大丈夫そうですね」
「内臓のほう、見てみよっか」
庭を後にしようとすると、楓夏が干してあったハンマーヘッドのハンマーヘッドを首にかけて、麦わら帽子のように背負った。
「それ持っていくの?」
「命の次に大事なんです。実は」
「ふうん」
怪しい首飾りだが、肉と同じようにハンマーヘッドからもすっかり臭いは消えていて、葉月もそこまで気にすることはなく、ふたりで川へ降りた。かごのなかでは内臓がすっかり白くなっていた。血が綺麗に抜けている証拠である。
「最悪これも、干したら食べられるかな」
「上まで持って上がらないとだめですね」
「うわ、大変そう……」
「持って降りてきたときよりも大変ですよね」
言いつつも、楓夏の表情は晴れやかだった。ハンマーヘッドの肉を食べきる目処が立って、すっかり肩が軽くなっていた。
「葉月ちゃん、ありがとうございます」
「きゅ、急に何を……」
「だって、葉月ちゃんがいなかったら、ハンマーヘッドをどうすることもできなかったし、そもそもハンマーヘッドから出てくることもできなかったと思うので」
「本当に窒息しかけてたんだ、あのとき……」
「だから本当に、ありがとうございます!」
「いやぁ、別に、あはは……」
「お忙しいかもしれないのに、こんなに時間を割いていただいて」
暇だったから別にかまわないのだが、面と向かって感謝されると途端に恥ずかしくなって、どうにもむず痒い。葉月は腰をかがめて、両手を川につけた。
「そっちのほうから落ちてきといて、いまさら他人行儀はなしだからね!」
ばしゃん、と水を楓夏にぶっかける。
「きゃっ。もう、濡れちゃったじゃないですか!」
楓夏も負けずに反撃。
「ひひ、やったなこの」
「お返しですよ」
水音と笑い声が、ふたりだけの水辺に満ちていく時間。スイカを食べて、盥の水に足を突っ込んで、ブラウスを体に張り付けるだけよりもよっぽど夏っぽい夏を送っているかもしれない、葉月はこの時間にもっとひたっていたくなった。けれど楓夏と水遊びだけを続けていたって、それは寝転がるだけの夏休みと最終的には変わらないのかもしれない。前に進むには、それまでと何か違うことをしないといけない。二重矢印のハンマーヘッドが一瞬たりとも同じ場所にいないのと同じように、自分も、前に進みたいんだったら、前に進まないといけない。
いずれ、進むときがきてしまうかもしれない。
「ねぇ、楓夏。ハンマーヘッドの肉を食べたら、楓夏はどうするの?」
「食べ終わった後も、やらないといけないことがあって」
「そうなんだ」
「葉月ちゃんにお願いしてもいいですか?」
「ものによるけど……」
楓夏は背中にかけたハンマーヘッドを両手で掲げ、葉月に差し出した。
「すべてが終わったら、これでわたしの頭を割ってください」
「頭を割るって……それ殺人なんじゃ――」
その声をかき消すように、頭上で稲光が啼いた。
「きゃあっ!」
楓夏はかがみ葉月は見上げる。雲の色が見る間にどす黒くなっていき、頬に雨粒を感じた。
「雨だ……楓夏、早く上がらないと、ハンマーヘッドの肉が濡れちゃう!」
「そんなっ」
大急ぎで川から上がる。内臓が流されることだけはないように、と願いながら家まで走るが、ほんの数分の間にも雨が滝と打ち付けてくる。
「はーちゃん! 楓夏ちゃん! 大丈夫やったかえ!」
「こっちは大丈夫! ハンマーヘッドは?」
「ちょっと取り込めたけどあかん、だいぶ濡れてしもうた」
並べられたハンマーヘッドの肉は、泥水に沈んでいた。
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