八月頭のハンマーヘッド
多架橋衛
第1話
シュモクザメ、いわゆるハンマーヘッドが夏の入道雲を泳ぐようになって十数年。
日本の夏といえばハンマーヘッド。
何はなくともハンマーヘッド。
散らかったスイカの種やら、水を張った盥に突っ込んだ足やら、汗で張り付くブラウスやら何やらよりもハンマーヘッド。
葉月はこんな時代に生まれ、育ち、中学最後の夏を満喫できないでいた。母方の実家で縁側に寝転がると、空は今年もパステルカラーだ。陽射しの加減か気温のいたずらか、これが夏空の色なのだろう、とぼんやり思っていた。
絵の具で描いたような雲とともに漂う無数のシルエットがハンマーヘッドだ。あのハンマーヘッドたちのように飛び回って、泳ぎ回って、遊び回れたらどれだけ楽しく人生は回っていくだろう。
何せハンマーヘッドは己の進むべき方向を熟知している。下から見上げるとハンマーヘッドの姿というのは、まず頭部が左右に広がって矢印の形をしているし、一対の胸ビレも矢印に見える。二重の矢印だ、どれだけ自分の針路を強調したいのだろうか。たまにくねくねと蛇行する個体もいるが、それにしたって二重の矢印で自らの道を切り開いているのだ。
ただただ、葉月にとってはうらやましい。
同級生たちは中学最後の夏を、部活の引退試合に注ぎ込んだり、受験勉強に打ち込んだり、短期のホームステイに飛び込んだり彼氏と花火大会にしけ込んだり、何かしら魂を込めるものを持っているというのに、葉月は昼間からぼけぼけと時間をゴミ箱に捨てている。いい加減決めなければならない進学先も、そのための準備も何もかもほっぽり捨てて、白いところまで食べつくしたスイカの皮を皿に捨てた。今年のスイカはやけに甘い。唇がべたべたする。足元の盥の水はすっかりぬるかった。
あぁ、夏が過ぎ去っていく。
まぁ、別にそれでもいいか。
さぁ、スイカでお腹も膨れたしだんだんと眠たくなってきた。虫歯と熱中症が怖いけど、まだ若いんだしちょっとくらい眠ってしまおう。視界がとろんとしてくる。焦点が合わなくなって物の大きさだとか距離感だとかが変になってくる。ハンマーヘッドの矢印もぼやけて、あるものは小さく、あるものは大きく、大きく、どんどん大きく、シルエットが、影が、ついに視界の全部を覆って――
違う!
大きくなってるんじゃない!
落ちてきてるんだ! ハンマーヘッドが落ちてきてる!
葉月はすんでのところで飛びのいた。
どんがらがっしゃーん、と背後が騒がしい。
みしみしバキリは柱で、ぱきんポロポロは瓦だろう。
築数十年分の埃とカビ臭さを手であおぐとそれがいた。縁側、というか地面にできたクレータで、ハンマーヘッドがグロッキーだ。葉月の、平均的な中三女子の体くらいすっぽり一飲みにできる巨体が目を回している。
「祖母ちゃーん! ハンマーヘッドが落ちてきたー!」
「あらー! ちゃんと助けてあげんさいねー!」
「助けるって何を――わわっ」
ハンマーヘッドのハンマーヘッドが左右に揺れた。よくよく見れば自分で頭を振っているのではなくて、関節とか筋肉の予備動作を完全に無視してハンマーヘッドのハンマーヘッドがひょこひょこと震えている。
「気持ち悪……」
ぼやきながらも、生物には不可能な動きが気になる。頭のほうをそうっと覗き込むと、ハンマーヘッドの口がぱっかりと開いて、にゅるり、這い出してくる。
「う、腕!」
親指の向きから右手が一本、スカイブルーのマニキュアで彩っている。それはいいが、どういうわけか、というか当然というか、白い柔肌が粘っこい液体にまみれている。しかもなんとなく黄色っぽくて、葉月は顔をしかめた。
「臭っ! くっさっ! う……おぇっ……」
危うく右手じゃなくスイカを出すところだった。
息ができない、いや、鼻がくしゃくしゃに潰れたかもしれない、そんな幻覚に冷や汗を吹き出すほどの悪臭、飛び切りのアンモニア臭、つまり尿、おしっこを二百倍に煮詰めて炎天下に放置したくらいの化学兵器。
極限環境のなか飛び出た右腕は、手首から先で周囲を探っているらしい。指を閉じたり開いたり、指を伸ばしてぐるぐる回したり。が、腕の長さか飛び出た位置のせいか、残念ながら指先は何にも触れない。手の周りに何もないことが呑み込めたのか、急に動きが慌ただしくなる。腕の持ち主は明らかに焦っている。とにかくやたらめったら手首を振る。誰かに気づいてほしいのか、とにかくメッセージを送ろうとしているのか。
ハンマーヘッドから脱出しようとしているのではないか。
そうに違いない。
助けるべきか、祖母ちゃんが言っていたのはこのことだろうか。
いやでもあんな悪臭を振りまいて、しかもぬるぬるしている手に触るのか。
え、マジか。
手の動きはなおも激しさを増す。
あ、ぱったりとやんだ。
なんだか血色も悪くないか。
窒息、窒息するのか。
そりゃハンマーヘッドの体の中にいたら窒息するんだろう、仕方がない……。
葉月は覚悟を決めた。暗い所での窒息死はもっともやりたくない死に方だった。
大急ぎで蛇口のホースを取りに行き、水流は全開、走りながら大きく空気を吸い込んで、肺にため込んで、ハンマーヘッドの口元にスライディング。ホースで水をぶっかけながら腕を掴む。ぬるぬるは残っている。表面だけつるつるで微妙に硬さのある感じ。引っ張れなくはない。体重を傾けると、ずるりと背後に倒れる勢いだ。
「ぷはぁっ!」
葉月ではない、葉月と同年代の女の子の声。
――は、ともかく、葉月もバランスを崩した拍子に悪臭を思い切り吸い込んでしまった。さっきよりもひどかった。
「くさ……め、目がシみる……」
涙をだばだば流しながらどうにかハンマーヘッドのほうを見ると、大きく深呼吸をする女の子がひとり。スカイブルーのマニキュアだ。
「助けていただいてありがとうございます。わたし、楓夏っていいます」
息を整えながらハンマーヘッドが吐き出した少女は、楓夏と名乗った。なるほど、鮫だけにフカということらしい、フカヒレのフカだ。鮫のつく名前って鮫島とか醒ヶ井とかちょっと捻って釈とかがあるけど楓夏とは小洒落ている、などと感心するわけもなく、葉月はホース片手に逃げ出す。
「あぁ、待ってください! どうして逃げるんですか!」
「せめてその臭いとぬるぬるを洗い流して! あと服! それからわたし葉月!」
悪臭がぎりぎり届かない場所で水流攻撃を加えると、楓夏からきゃっ、と楽しそうな嬌声が聞こえる。無防備な少女に水をぶっかけるというシチュエーションに楽しくなってくると、ぼろぼろに崩れた縁側に祖母ちゃんが姿を現した。臭いが気にならないんだろうか、もう歳だしな。
「はーちゃん、もっちょっと優しくしんさい! 御嬢さんのほうもすっきりしたら家のなか入ってき、お茶淹れたげるから」
「お騒がせしてすいません」
水をぱちゃぱちゃと浴びながらのお辞儀ひとつ。
だいぶ匂いも洗い流せてきたので葉月は楓夏の背後に立って、
「しゃがんで。頭は自分で流して。わたし、背中のほう流すから」
「ありがとうございます。落ちたところがいい人たちみたいでよかったです」
「はぁ……」
さすがにあんな数百キロもありそうな巨体を落としてきてその言いぐさは他人事すぎやしないかとも思うのだが、楓夏は勢いよく、
「落ちた縁もあるので、ちょっと手伝っていただきたいことがあるのですが」
「手伝いって、それはちょっと――」
壊れた縁側のことはどうするんだ、と問う暇もなく、
「お礼に、わたしのフカヒレを差し上げますので」
「ふ……フカヒレ? フカヒレってあの、めっちゃ高いやつ?」
すっかり目の色も声の色も変える。
「はい。そのめっちゃ高いやつです」
ちらりと、落ちてきたハンマーヘッドを見る。
「あの大きさと形なら、背ビレ、尾ビレ、胸ビレを合わせて一千万円は行きますよ」
「い……一千万! いいでしょう。やりましょう。なんでもおっしゃってください。力になります」
背中を洗い流す手に力が入る。所詮金の前に人は無力だ。
「よかった、助かります!」
楓夏の全身をくまなく洗い終えて、改めて間近に相対する。
短く切りそろえた髪が涼しそうで、葉月は同じ髪型にしたくなった。スカイブルーのマニキュアも可愛いし、青みがかったカラコンも考えてみよう。表情やたたずまいはお淑やかで、なるほど見倣うべきなのかもしれない。スタイルは……服を着てこその勝負だろう、ということで見ないことにする。
「で、わたしは何を手伝えばいいの?」
「実はわたし、やらないといけないことがあってですね」
くるりとハンマーヘッドに向く楓夏。
浮き上がった毛先がシャギーで鮫肌を思わせた。
「十日間の間に、ハンマーヘッドの肉を全部食べないといけないんです」
「……は? あれ、全部?」
「そうです」
楓夏の腰は、牛ヒレステーキも入るかどうか怪しいくらいには細い。
「本気? あれ数百キロはあるんじゃないの?」
「そこを手伝っていただきたいんです」
葉月の脳に駆け巡る情報。
大量のハンマーヘッドの肉。
漂う猛烈なアンモニア臭。
それをすべて胃に収める?
他人事とはいえ想像しただけで吐きそうになった。
「いっしょに食べましょうね、葉月ちゃん!」
親愛の情のつもりか、楓夏は葉月に抱き着く。
これぐらいクラスメイトとのスキンシップで慣れているので抱き返すくらいは造作もないのだが、それどころではなかった。
鮫の肉を収めるのに楓夏だけではなく葉月の胃袋も使われるらしい。
前言撤回。
自分のことだ。
吐きたい。
もう二度と金に眩んで安請け合いなどしてはいけない、と誓う。
この日、七月二十三日は大暑、一年でもっとも暑い日のことだった。
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