桃源郷 ⑪

 それから数日。

 困ったことが起こった。

 娘が何も食べようとしないのである。

 はじめのうち、許溥は、魚を取っては、娘に食べさせようとした。だが、娘は食べなかった。肉気のものは食わないのかもしれないと、粥や野菜を与えてみたが、やはり口にしなかった。娘は首を振るばかりであった。

 ──やはり、この娘は桃の精なのだ。だから、人間が食べるような物は口にしないのだ。では、一体何を食うというのか──。

 日が経つにつれ、許溥は焦った。

 許溥は、娘に無理矢理ものを食わせた。だが、娘はすべて吐いてしまう。まるで、柔らかなものしか食えない赤ん坊であった。

 娘は衰弱していった。桃の花びらのように鮮やかで瑞々しかった頬もすっかり蒼白くなり、荒れてしまった。

 そんな娘の姿に、許溥はひどく切なくなった。そして、尚も笑顔を絶やさない娘を一層愛おしく思い、きつく抱いた。娘は細かく震えていた。

 許溥は、掠れた声で呻いた。

 どうしてよいのかわからず、

「何を食わせたらいい」

 空に向かって呟いた。

 誰に問いかけるわけでもなく呟いた問いであったが、それに静かに答える声があった。

「その娘は桃しか食わぬ」

 振り返ると、戸口にいつしか桃の咲き乱れる村にいた道士の姿があった。

「その娘に桃以外のものを食わせようとしても無駄だ。生まれたときから、桃だけを食わせて育てた娘。腹が桃しか受け付けぬのだ。無理やり食わせても、吐き出すばかりであろう」

 道士は、無遠慮に許溥の家に入ってきた。

「桃娘はそのようにできている」

 道士は娘を「桃娘」と呼んだ。

「桃娘というのが、この娘の名前でございますか」

 許溥が尋ねると、道士は眉を顰めて、かぶりを振った。

「この娘に名前はない。桃娘というのは、あの村の娘たちすべての呼び名だ」

「娘たち、すべての?」

 許溥が問い返す。

 道士が答える。

「桃のみを食わせて育てられた娘は、体中から桃の香りを発するようになる。汗も尿も甘露となり、人間の持つ臭みは無くなる」

 道士はそういって、娘の方を一別した。許溥は、わずかに身を固くした。だが、道士は、目を細めただけで、再び許溥の方に向き直った。

「あの村は、桃娘を育てるための隠れ里なのだ。わしは、近隣の村から、器量の良さそうな赤ん坊を買ってきては、あの隠れ里で桃娘として育てている。村で妙齢に達した娘は、後宮に入り、皇帝の寵愛を受け、いずれ慰み者になる。唄うこと、楽器を奏でること、踊ること。そして、性技だけをひたすら教え込み、他のことは何一つ教えずに育てた娘達だ。皇帝の目と鼻と身体を満足させる。そして、最後には、その舌を楽しませるのだ。な」

 許溥は、道士の顔を見た。だが、その目を見ることはできなかった。後ろめたさもあったが、それよりも、静かに話す道士が、妙に恐ろしかったからである。

「桃娘の寿命は短い。ただでさえ、桃だけで生きている身体の弱い娘だ。お前のやったことで、その命は削られた。──この娘はじきに死ぬ」

 吐き捨てるように道士は言った。

 許溥は呻いた。

 ──娘がもうじき死ぬ。何となく感じていたことではあったが、はっきりと言葉にされたことで、許溥は愕然とした。

「では──私をあの村に連れて行ってください。桃を取りに行かせてください。あの桃を食えば、少しは娘も生きながらえることができるはずでございます。私をあの村に──」

 つ、と道士は、舌打ちのような音をたてると、許溥を睨んだ。

「無理な話だ」

 道士は冷たく言い放った。

「なぜでございますか」

 許溥が強い口調で訊き帰した。

「お前は打ち首になるからだ。皇帝のものを盗んだ咎で、明日の昼に、な。そもそもが、皇帝が人の肉を食っているなどと世に知られてよいわけがなかろう。だから、待て、といったのだ」

 道士は静かに言った。許溥は一瞬、奇妙な顔をした。だが、すぐに泣き顔になると、ぬかずいて道士に懇願した。

「そ、そんな、道士様。私は、知らなかったのです。この娘がそのような……ああ。どうか、どうか、お許しください。私には老いた母がおります。私がいなくなっては、母は──」

 衣にとりすがる許溥を一瞥し、眉間に皺をよせ、道士は大きく息を吐いた。

「自業自得だ。わしは、お前を本当にこの娘と結ばせるつもりでいたのだ。そのための準備をしていたというのに、お前はそれを無駄にしてくれた。いずれはわしの跡を継がせ、桃娘どもの世話をさせることも考えておったが……お前の所為でわしも咎を受けねばならなくなったわ」

 道士はそれだけこぼすと許溥を乱暴に振り払った。

 許溥は絶望にうちひしがれ慟哭した。

 後から、息子が打ち首になると知った母親も泣いた。

 娘は、泣き崩れる親子を楽しませようと、微笑みながら歌った。許溥と母は、そんな娘を見て、さめざめと泣いた。

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