桃源郷 ⑩

 やがて、夜が明けた。目覚めた許溥は、目に入った眺望に見覚えがあることに気がついた。

 ──ここは、私が魚を捕っていた所ではないか。

 微かなそよ風が頬をかすめ、高く小鳥の囀りが聞こえる。たった数日のことではあったが、何とも懐かしい気持ちになる。

 戻ってきたのだ。許溥は勇んで艪を漕いだ。


 家路につくと、母は、すっかり弱っていた。許溥がいない間、母はろくなものが口にできなかったのだ。当然である。許溥は、なんと己は情けないのかと、涙を流した。

 許溥は、早速、娘のいた村で取ってきた桃をすりつぶして、母親に食べさせた。母は朦朧としていたが、よく桃を食べた。

 桃のおかげか、許溥と娘の献身的な看病のおかげか母親は次第に気力を取り戻し、目を開けるようになった。目を開けた母は、そこに見知らぬ娘がいることに気付いて、たいそう驚いたようであった。だが、その娘を嫁にしたいということを許溥が話すと、それを素直に喜んだ。

「この娘さんは、なんと言う名前なんだい?」

 母が尋ねた。許溥は答えなかった。答えることができなかった。許溥もこの娘の名を知らなかった。許溥は、ただ首を横に振るばかりであった。娘も笑っているだけで、言葉を口にしなかった。

「この娘さんは、口をきくことができないのかい?」

 母親は、困惑したように目を瞬かせ、しばらく娘の笑顔を見つめていたが、

「にこにこと、本当に可愛らしく笑う娘さんじゃないか。真面目なお前が嫁にしたいというのだから、悪い娘ではないんだろう」

 母はそれだけ言うと、あとは何も言わなかった。

 許溥はそっと外に出ると、ひとりで泣いた。

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