桃源郷 ⑨
許溥は、娘を連れて、村を抜け出ることを企てた。
まずは船である。許溥は夜明けのまだ薄暗いうちに、屋敷を抜け出すと、道士が隠した船を探した。船は簡単に見つかった。隠してあるというよりも、ただ岸に繋いであるだけであった。船はいつでも動かせる状態にあった。これならば出られる。許溥は、満足して帰った。
屋敷に戻った許溥は、寝たふりをして待った。桃を採りに行く刻限になると、そのまま屋敷を出た。道士は、まったく怪しんでいるようなそぶりを見せなかった。許溥は、ほっと胸をなで下ろし、足早に桃園へ向かった。
桃園に赴くと、娘はいつもと同じく籠を抱えて立っていた。許溥が声をかけると娘は顔を挙げた。愛らしい眼で、許溥を見つめる。
許溥は、娘の手を取ると言った。
「一緒に村を出よう。私の家に行こう」
娘は小首を傾げ、ニッコリと微笑んだ。はい、と言う意味ではあるまい。許溥が話しかけてきたから、微笑み返した。それだけのことなのだろう。それは、許溥にもわかっていた。しかし、それで後に引けるはずもない。許溥は、無理矢理娘の手を引くと船に向かった。娘が抱えていた籠が地面に落ちた。いくつもの桃が転がり出た。娘が声をあげた。鳥がさえずるような声であった。許溥は耳を貸さなかった。
船までたどり着くと、許溥は娘に乗るように言った。娘は途惑っているようであった。
許溥は、娘の袂を掴んで引き寄せ、抱きしめた。娘は、もそり、と動いたが、そのまま許溥に身を預けた。許溥は、それで娘と心が通い合ったように感じられた。娘の表情は物憂げであった。
許溥は、娘をつれ、小舟に乗った。
後ろ暗い気持ちがあったものの、それを振り払うように櫂を動かした。
来るときに通った洞穴を抜け、河を下っていく。霧が少し出ていたが、来た時と比べると、ずいぶんと薄い。日も高く、これなら河を下っていける。許溥は確信した。櫂を動かす手にも力が入った。
いったいどれほど漕ぎ続けただろう。霧は無くなっていたものの、辺りは薄暗くなり、山の陰が色濃く水面を染めている。だが、月は明るく、進むべき水道がわからなくなることはなかった。
許溥は、疲れて眠っている娘を見た。月の光に照らされた娘は、まるで彫像のようであった。思わず、許溥は娘の唇に自分の唇を寄せた。
ふ、と桃の香りが鼻先を掠めた。桃が咲き乱れていたあの村からは、ずいぶんと離れたはずである。にもかかわらず、仄かな桃の香りが漂っている。許溥はその香りが娘から香ってきていることに気がついた。許溥は、この娘はやはり桃の精なのではあるまいか、と思った。
もしかしたら、自分はとんでもないことをしているのかもしれないという不安もあったが、そんなことが些細なことと思えるほどに、娘は美しく、また良い香りであった。
桃の香りに包まれ、うっとりとした心持ちのまま、許溥も娘の隣に横たわった。
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