桃源郷 ⑧
しばらくの間、道士も許溥も両名、押し黙っていた。
娘は許溥と道士が喧嘩でもしていると思ったのか、おろおろと顔を強張らせていた。
沈黙を破ったのは、道士であった。
「今なら、まだこの村から出してやらないことはない」
しばらく、許溥はその言葉の意味を考えていた。
道士は続けた。
「この娘のことは忘れるのだ。この村のことも。ここで目にしたことすべて忘れるのならば村から出してやろう。できぬならば、お前の命を奪うことにもなろうが、それでも良いか」
道士の言葉を聞いて、許溥は拳を握り締めた。血が滲むほどに唇を噛み締め、身体をぶるぶると震わせている。それを道士はしっかりと見ていたのであろう。
「お前はそれほどまでに、この娘と結ばれたいのか」
目を細めながら道士は言った。
許溥は真剣な眼差しで道士を見つめた。そして、深く頷いた。
ふうむ、と道士は顎に手を当てると、髭を撫でた。何かを考え込んでいるようであった。しばらくそうして眉間に皺を寄せていたが、ついに諦観の溜息を吐くと、
「……仕方があるまい。お前がこの村に来てしまったことも、天の定めためぐり合わせだったのであろう」
と独り言をいうように呟いた。
「この娘と結ばれたいのであれば、俗世のことはすべて忘れよ。そして、私が言うとおりに暮らせ。どんなことにでも従うのだ。よいな?」
許溥は力強く頷いた。道士は満足そうに微笑んだ。
「──よろしい。ならば、そのように取り計らってやる」
許溥は、まじまじと道士を見つめた。信じられないという顔であった。しかし、道士が頷いて見せると、涙を流して礼をいった。
幾日かが経った。
道士は、娘と暮らすことは許してはくれたものの、契りを交わすことは認めてはくれなかった。そのことが、許溥には不満であったが、文句はいえなかった。
そして、毎日、桃を採らされるばかりであった。娘も共に桃を採っていたので、会うことはできたが、住んでいる屋敷も別であったし、必要以上に娘と触れ合うことも道士は許さなかった。
「いずれ、お前にもこの里のこと、この娘のことを話してやる。だが、まだ早い。もう少し待つのだ」
許溥はたいそう焦れた。郷里に残してきた母のことも案じられてならなかった。一時のこととはいえ、何故、母のことを忘れて、村から出ない、などという約束をしたのだろうかと怒りすら覚えていた。
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