桃源郷 ⑥

 許溥は、しばらく部屋の中でまんじりと過ごしていた。部屋の中には机と椅子の他には何もなかった。気を紛らわす術もなく、手持ち無沙汰であった。部屋の中を歩き回るよりほかにすることがない。

 外からは、楽しげな音楽と娘たちの嬌声が聞こえてくる。先ほどの娘たちだ。

 その声を耳にしながら、許溥は、この屋敷を指し示した娘の顔を思い出していた。

 白絹のような肌。細く切れ長の眼。見事に整った足先。先ほどは、夢心地であったのと言葉が通じなかったことで気が付かなかったが、思い起こせば、何という美人であったろうか。もう一度、あの娘とえたいものだ。

 他にすることもなく、悶々としているところに、途切れることなく楽しげな嬌声が届いてくるものだから、許溥は、ひと目だけ、と道士との約束を破って屋敷を抜け出した。


 はたして、娘は見つかった。他の娘が歌い踊っている中、意中の娘は、ひとり池の畔で行水をしていた。きらめく水面にすらりと立っている娘の姿は、まさに天女そのものであった。

 許溥は見惚れた。

 惚けたまま立ちすくんでいる許溥の姿に、娘も気がついたようで、ふ、と瞼を瞬かせ、微笑んだ。桃の花びらのような瞼だ。娘の笑顔に許溥は舞い上がった。彼はそのまま濡れることも厭わずに池の中に走り込んでいった。

 言葉が通じないことはわかっているのに、許溥は娘に語りかけた。自分は許溥という名で、どこそこの村から来た。自分には、老いた母がいて、二人きりで暮らしている。母は優しい人だが病に臥せっており──。

 娘は嫌がるそぶりもなく、その話に耳を傾けていた。

 そうした娘の態度に、許溥は時の過ぎるのも忘れ、幼い頃から今に至るまで、思いつくままありとあらゆる事を話して聞かせた。

 喋っているうちに、許溥には、言葉が通じないことが、些末なことであると感じられるようになっていた。言葉の細やかな意味が伝わらなくとも、娘はとても愛情こまやかで、許溥が楽しそうに話せば嬉しそうに微笑み、話し疲れてしばらく口を開かないでいれば悲しそうな顔をした。その純粋で素直な感情に、許溥は心を打たれた。

 このような娘を嫁に出来れば。許溥は会って間もないにもかかわらず、娘と結ばれたいと思った。だが、一体どうすれば良いのか、見当もつかなかった。


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