桃源郷 ④

 そこは妙に暖かかった。ぬるま湯に浸かっているような暖かさであった。強い桃の香りが立ち籠め、聴いたこともないような美しい音楽が耳をくすぐる。許溥はしだいに、自分が夢を見ているのではないかと思うようになってきていた。

 蠢く人影が見える。何人もの若い娘たちが一糸まとわぬ姿で遊んでいる。笛を吹き、琴を弾き、歌い踊っている。娘たちは、皆、とても美しい顔立ちをしており、まるで桃の花の化身が踊っているかのようであった。

 許溥はあまりの光景の美しさに、言葉も忘れ、しばしその場に立ちすくんだ。ますます、自分が夢の中にいるのではないかと訝しんだ。

 娘のひとりが許溥を見つけ、あ、と小さく声を出したことで、ようやく許溥は我に返った。娘達は遊ぶのをやめ、許溥を指差し、不安げに顔を見合わせた。

 許溥は、あわてて、

「私はあやしい者ではごさいません。霧で道に迷って、ここにたどりついたのです」

 娘たちは、許溥の言葉に怪訝な顔をした。許溥は自分がこの場所にたどり着くまでの経緯を話して聞かせたが、娘たちは、皆一様に不思議そうな顔をするだけで、誰も言葉を返してはくれなかった。言っていることの意味がわからぬようであった。言葉が通じないのだと許溥が気付いたのは、しばらくたってからであった。

 許溥は、身振り手振りで言葉を伝えようとした。だが、娘達は、許溥が妙な踊りでも踊っているとでも思っているのか、笑うだけで、何も言ってはくれなかった。そうしているうち、しだいに娘たちは、許溥に対する興味を失っていった。ひとり、またひとりと、何事もなかったように、再び遊びに興じ始めた。

 まったくもって不思議な娘たちである。仙女の村にでも、迷い込んでしまったのではないか。

 許溥は、最後まで彼のことを見ていた娘に尋ねた。

「……あなた方は、天女様でございますか?」

 声をかけられた娘は、小首を傾げ、軽く微笑んだ。そうだといっているようにも思えたし、違うといっているようにも思えた。それとも、教えられない、という意味なのだろうか。

 何にせよ言葉が通じないことには、どうしようもないではないか。許溥が困った顔を浮かべていると、その娘は、村のはずれの家屋を指差した。どうやら、あの家に行きなさいといっているようであった。許溥は、どうせ言ってもわかるまい、とは思いつつも、娘に礼を言い、家屋に向かった。

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