桃源郷 ③

 どれだけ進んだのであろう。いつのまにやら、あたりにうっすらと霧が立ち籠めていた。許溥は、桃のことで頭がいっぱいになっていて、霧が出てきていたことにまったく気付いていなかった。

 こんな日差しの強い日の昼間に霧が出るなどなことだ。許溥は怪しく思い、舟を戻そうと考えた。だが、せっかくここまで来たのだから、せめて一つくらい桃を持ち帰りたい。桃を持って帰ったときの母親の喜ぶ顔。あと少しだけ進めれば、きっと桃の木がある。許溥は、自分自身を納得させるように呟いて舟を進めた。

 霧が濃くなった。視界は白一色に染まった。もはや舟が進んでいるのか止まっているのかさえ定かではない。桃も見つからずじまいで、許溥はどうして良いのかわからなくなった。

 そういえば、畑に行くと言って出てきたままだ。私がなかなか帰ってこないから、母は心配しているんじゃないだろうか。許溥は、自分の間抜けさが情けなくなった。

その時である。彼の鼻先を甘い桃の香りが掠めた。先刻食した桃と同じ香りである。すぐ近くにあの桃の樹があるのだ。許溥は香りを頼りに舟を進めた。

 霧が濃いので、どちらに進んでいるのかはわからないが、徐々に桃の香りが強くなっていく。許溥は、自分の鼻を信じて櫂をいだ。

 進んでいくと、川幅が狭くなり始めた。濃い霧の中でも両岸が見てとれるようになった。

 許溥は息をのんだ。

 岸には桃の林が広がっていた。全ての樹に、たわわに桃が実っている。他の樹木が一本も混じっていない、桃だけの林である。桃の林は、まるで壁のように、川に沿って続いている。

 水面を見ると、先ほど拾った桃と同じくらいに見事な桃が、幾つ幾つも流れている。一つ拾い上げて口にすると、やはりあの桃と同じ味がした。許溥は、岸に上がって、樹から直接実をもいでやろうと、舟を着けるのに適当な場所を探した。だが、舟をもやることができそうな所は見つからない。しかたなく、許溥はそのまま舟を進めた。

 舟を進めていると、霧の中に巨大な黒い影が浮かび上がった。近づくにつれ、その影は、岩山であることがわかった。さらに進むとその岩山にぽっかりと洞穴が口を開けているのが見えた。今、進んでいる川は、その洞穴から流れでてきていた。

 この穴の中までは入るまい。仕方がない。流れている桃を拾って、来た道を引き返そう。そう思って舟の向きを変えようとしたところ、洞穴の奥の方から、かすかに音楽が聞こえてきた。

 許溥は、おや、と思いながら、もう少しだけ、舟を進めた。やはり空耳ではなく、中から音楽が聞こえてくる。

 この奥に、人がいるのだろうか。何だか不思議な気持ちになりながらも、許溥は洞穴の中へ舟を進めていった。右に左にと入り組んではいるようであったが、脇道もなく、一本道の洞穴であった。しばらくすると、満月のような丸い光が見えた。どうやら出口のようである。

 洞穴を抜けると、少しひらけた水場に出た。池のようである。通ってきた川の両岸と同じく、池を囲むように桃の樹が立ち並んでいる。まるで都市を取り囲む城壁である。舟を進めていると、一角だけ桃の木が途切れた場所があった。その奥の桃の林の中に、何軒かの家屋が見えた。音楽は、どうやらそこから聞こえているようである。許溥は舟を岸に着け、音楽に惹かれるように家々に向かって歩いた。

 近づくにつれ、はっきりと聞こえるようになったのだが、何とも不思議な音楽であった。とても心地よい音色で、耳に染みこむようである。歌声も聞こえる。知っている言葉ではない。しかし、なんとも美しい声である。

 音色に誘われるまま、許溥の足は動いた。

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