桃源郷 ②
河南に許溥という男がいた。早くに父を亡くし、母親とふたりきりで細々と暮らしていた。母親は、女手ひとつで許溥を育てるため、かなりの無理をした。そうして、許溥が成人する頃には、すっかり身体を壊して、寝込んでしまっていた。そんな母親の恩に感じ入って、許溥は何かと母親に気を回す青年に育っていた。
その日、許溥は畑に向かう道すがら、ふと、「母親に魚を食わせてやりたい」と思った。こんな熱い日だ。なますでも食えば美味かろう、そう考えたのだ。
一度そのように思ってしまうと、畑仕事も手につかず、魚を取りに行かずにはいられなくなってしまった。許溥はを投げ出し、近くの河へと向かった。
日差しの強い日であった。まだ春も中頃であるにもかかわらず、真夏日のような照り付けであった。水面は熱せられ、ぬるま湯のようであった。そんな状態であるから、魚も深みに逃げてしまったのであろう。釣果はまったくあがらなかった。それでも、許溥はあきらめる様子もなく、黙々と魚っ気のない河に糸をたらし続けた。
一匹釣れるまでは、一匹釣れるまでは。何度も繰り返し口の中で呟きながら、かれは水面を睨み続けた。
だが、結局いくら待っても竿はピクリとも動かなかった。
日除けもない小船の上のことである。長らく強い日差しを浴びて、許溥の身体も熱を帯びてきた。体中にじっとりと気持ちの悪い汗が滲み、喉もからからに渇いた。
さすがの許溥もいい加減に焦れた。
一度岸に戻ろう。そう思ってに手をかけた、そのときである。水面にぽっかりと桃が浮かんでいるのが目に入った。
上流から流れてきたのであろうか。許溥はさっと手を伸ばし、桃を拾い上げた。桃はずっしりと重く、とても美しい色合いをしていた。みずみずしく、手に持っているだけで、よい香りが鼻に届いてくる。何とも見事な桃である。見ているだけで、自然と口に唾液が湧きあがってくる。意識しないまま、許溥は、その桃に齧り付いていた。
口の中いっぱいに広がる甘みに、許溥は言葉を失った。じゅわと滲み出る桃の汁が、喉の渇きをあっという間に癒した。たいそう美味い、すばらしい桃である。
許溥は、あっという間に桃を平らげてしまった。
ああ、美味かった。彼は、大きくため息をつくと、しばらく放心したように日の光を眺めていた。
この桃を持ち帰れば、魚などよりもずっと母を喜ばせることができたのではないだろうか。桃の汁で粘ついた両手をしゃぶりながら、許溥は全てひとりで食ってしまったことを後悔した。
他に同じような桃はないだろうか。許溥は水面を見わたしたが、桃らしきものは見あたらなかった。
上流に行けば、きっとあの実を落とした桃の樹があるに違いない。許溥はおもむろに櫂に手をかけ、上流をめざした。
少しずつ舟を進めていく。上流に樹があるならば、また同じように桃が流れてくるかもしれない、そう思って、目を皿のようにして、水面を睨み付けながら進んだ。
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