果物 『桃源郷』
桃源郷 ①
──その後、桃源境の所在を問うものは誰もいなくなったという──
六朝『捜神後記』
劉郁の杯は乾いていた。
何杯飲んだかわからないが、しばらくは飲まなくても良いと思えるほどに飲んだ。
焚き火を挟んで、向かい側に腰掛けていた道士が、ふと呟いた。
「桃」
目の前の焚き火は消えかけていた。ちろちろと弱々しい残り火が、淡い光を放っている。
「桃が、食いたくなった」
言いながら、道士は火に薪を足す。
「桃でございますか」
劉郁は、道士から分けてもらった肉と酒で満足していたので、とくに桃を食いたいとは思わなかった。しかし、道士の気を悪くするのもうまくない。そこで、劉郁は、
「確かにそのとおりでございますね」
と、頷いた。
「桃といえば、道士様は、桃源境をご存じですか」
劉郁はふと思い出して、道士に問うた。
「桃源境──」
道士は怪訝そうな顔をした。
「年中桃が咲き乱れ、世俗とは違う時の流れの中で、人々が幸福に暮らしているという里でございます」
道士はため息をついた。
「──わしは、そんな里の話は知らんよ」
道士の言葉に、劉郁は、そうでしょう、と笑った。
「桃源境は、在ることは知られていても、その所在を誰も知らぬ隠れ里だそうでございますから。この辺りにあると噂するものもおりますが──」
劉郁は、道士の顔を窺った。道士は無表情に虚空を見つめている。劉郁は続けた。
「もしも、この辺りにあるのならば、是非とも訪れてみたいものでございますな」
つ、と道士の口が開いた。
「──人々が幸福に暮らす隠れ里など、わしは知らぬ」
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