野狗子 ⑦

 先に動いたのは男だった。男は、雄叫びを上げながら、そのあたりに落ちていた石を拾い上げた。

 かれはとっさに男に飛びかかろうとした。

 その鋭い牙で、男の喉元を突こうとした。

 だが、そこで、かれはふと思った。

 ──今、この男を襲ったら、その死を看取るのは、自分ということになるのだろうか。いや、きっと違う。この男にしてみれば、ひとりで死ぬと思っているだろう。先ほどの表情は、かれに対する恐れだ。そして、ひとりきりで死ぬことへの恐れだ。自分はやはり、ただの怪物なのか──。

 無駄な思考が、かれの動きを鈍らせた。それが命取りとなった。

 男は、かれの頭をめがけて、拳大の石を打ちすえた。

 突然のことに、かれは何が起こったのかわからなかった。

 だが、体は動いていた。かれは、その場から逃げだしていた。ひどい痛みだ。激痛で意識が飛びそうになる。血が目に入った。視界も歪む。どうしたらよいのかわからないまま、かれは駆けた。混乱したまま、よろめきながら、一目散に野を駆けた。

 無我夢中で走り、気づけば、いつの間にか、夢で見た丘に建つ墓の前まで来ていた。

 ──ここは、夢で見たあの墓ではないか──。

 墓の周りには、いまだに多くの供物や花が供えられていた。夜の静寂の中にあって、その墓の周りだけは、多くの人々の心の機微を感じさせる華やかさがあった。

 かれはしばらく立ち止まって、墓を眺めていた。

 意識が遠のき始めた。痛みが徐々に強まっていく。血が止まらない。

 かれは、自分の命がもう長くはないと悟った。

 これから、自分は誰にも看取られずに、怪物として独りで死んでいく。

 ずっと独りきりで暮らし、何者とも関わらずに生きてきた。そしてそのまま、誰にも知られずに消えていく。

 なぜかはわからないが、この墓を前にしていると、何も残らないというのが、ひどく悲しい事のように感じられた。

 最初から最後まで独りきりの怪物だったはずなのに、どうしてこんなにも心が乱れるのだろう。

 ──まるで、人間ではないか──。

 自嘲した。


 そうして、かれは静かに息を引き取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る