野狗子 ②



「あ、あ、頭が犬」

 道士の言葉の言葉を聞いた瞬間、劉郁は悲鳴をあげていた。

 道士は笑った。

「怖いのかね」

「あ、いや、怖くなどは」

 そう答えたところで、劉郁は、自分が震えていることに気がついた。理由はわからないが、ひどく怯えていた。

 頭が犬のようで身体が人。確かにおぞましい姿であろう。だが、ただそれだけの話だ。まだ内容すら聞いていないうちからこんなにも怯えているのは何故だ。

 劉郁は混乱した。

「その妖怪は、戦場や出来たばかりの墓に現れては、死者の脳髄を食らう」

 劉郁の様子に気付いていないのか、道士は朗々と話を続けている。

「脳髄を食らう、妖怪──」

 そこで、道士は眉を顰め、

「──その妖怪の名だが──その名が──ん、なんじゃったかな。肝心なところで思い出せん」

 かっか、と道士は笑った。ずいぶんと酔いがまわり、気持ちよくなっているようだ。

「妖怪の名が思い出せんのでは話にならんな。この話はやめにしよう」

 そう言いながら道士が杯に手を伸ばそうとした。

「駄目だ! 話してくれ!」

 劉郁が怒声のような大声で遮った。

 道士はぎょっとしていた。杯の中の酒が少しこぼれ、石畳に小さな染みができた。

「何だ? どうしたというのだ?」

 道士の怪訝そうな顔に、劉郁は慌てた。自分でも何故とつぜん大声を出してしまったのかわからなかった。

「いえ、その」

 劉郁はばつが悪そうに口ごもった。

 道士は不思議そうに劉郁を見ていたが、何かを思い出したようで、ぽん、と手を打った。

「──おお、そうだ、別の話にはなるが、次々に金を生み出す蚕の話などどうだ?」

 言いながら、道士は杯に酒を注ぎ、再び嘗めた。先ほどから、杯を干すまでの時間がどんどんと短くなってきている。

 蚕の話でございますか──と口にしようとして、劉郁は、臓腑がきゅっと締まるような苦しさを覚えた。脳髄の奥底で何か引っかかっている。先ほどの犬の頭を持つ妖怪の話、必ず聞かなければならない。そんな気がした。

 道士に何とか妖怪の名を思い出してもらおう。

 もしかしたら、話しているうちに思い出すかもしれないではないか。

 それを伝えようと、劉郁は声を出したつもりだった。

 だが、出てきたのは、全く異なる、意味のわからない言葉だった。

「野狗子──野狗子の話を」

 道士が目を見開いた。

「おお、そうだ、そうだ。脳髄を食らう妖怪。その名は、野狗子。ん? 何だ、知っておるのか?」

 道士はあくびをひとつして、また一口酒を啜った。

 いっぽう、劉郁は、またも混乱した。道士は酔っていて気づいていないが、劉郁は、知るはずのない妖怪の名を自分が口にしたのだ。そのことに気が付いて、かれは一層恐ろしくなった。

 ──どういうことだろうか。以前どこかで野狗子の話を耳にして、それを思い出したのだろうか。

 だが、いくら思いめぐらせても、覚えなど無い。

 劉郁は納得がいかなかった。はじめて訊くはずの話を聴く前から恐れ、だが聴かなければならないと決めつけ、あげく知るはずのないことを口にしている。何と気味が悪いことだろう。

 何故こんなことになるのか。劉郁は、理由が知りたい、と思った。道士の話を聴いているうちに、何か思い出すかもしれない。そう考え、道士に話の先を促した。

「道士様。野狗子の話をお願いいたします」

 道士は答えなかった。見ると、うつろな目で宙を睨んでいる。あるいは、目を開けたまま、眠っているのかもしれない。

「道士様」

 劉郁の呼びかけに、道士はのそりと動いたが、意識が朦朧としているようで、緩慢な動作であった。劉郁は煩わしく思って道士の身体を揺すった。

 道士は、ようやく気がついたようで、

「ん──おお、すまん、すまん。酒が回ったとみえる」

 と、あくびを噛み殺した。劉郁は、そんな道士に荒い口調で言った。

「道士様、野狗子の話の続きを」

「おお。わかっておるよ、野狗子、野狗子じゃな。わかっておる、わかっておるよ」

 眼をこすりながら空返事をする道士に、劉郁はずいぶんと焦れた。かれは追い詰められたような顔をしていた。しかし、道士はそれには気付いていないようであった。

「少し風に当たって酔いを覚ましてくるとしよう」

 道士はそう言って立ち上がると、おぼつかない足取りで、外に出て行こうとした。

 転びそうになる道士を支えながら、劉郁は、

「道士様、どうか、どうか野狗子の話を」

 懇願した。

 道士は、劉郁の肩に掴まりながら、すまんすまん、と言い、

「わかったわかった、帰ってきてから話してやるわい」

 そのまま、劉郁の手をすり抜けて、戸口の奥の闇に消えていった。

 劉郁は、憮然として黙り込んだ。

 暗闇を睨む。

 だが、もはや文句を言う相手はいなかった。

 劉郁は一人、取り残された。

 道士がいなくなると、部屋の中は、ずいぶんと閑かになった。

 人ひとりぶんの場所が空いただけで、こんなにも部屋はがらんとするものか。劉郁は不意に自分が一人きりなのだということを意識して、心細くなった。

 部屋はしんとしていた。

 少しばかり肌寒かった。

 劉郁は、焚き火に近づいた。

 焚き火の前にしゃがみこむ。

 暖かい。

 かれは、赤々と燃える炎が、自分の脛を照らし出すのをじっと見つめていた。

 話し相手もおらず、何もすることはない。

 じっと火を見つめた。

 頭の中で、先ほどの野狗子という妖怪のことがぐるぐると回っていた。

 野狗子。何故か心に引っかかる。何故だろうか。

 焚き火の炎が、揺らめいている。

 野狗子、野狗子、野狗子──。

 だんだん、劉郁は、気が遠くなってくるのを感じた。

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