妖犬 ⑧


               ※※※



「その日を境に、街に奇妙な噂が飛び交うようになった。牢獄がある役所の中から、老人が、獣のように四つん這いの体勢で走り出てきた、というのだ。その老人は黒い道服に身を包み、口とその周りの髭を真っ赤に染めていた。そして、その老人は、驚く人々を尻目に、狂ったように笑いながら、闇の中に走り去ってしまったのだという──」


 道士はそこで口を閉ざした。焚き火がはぜる音が、やけに大きく聞こえた。

 劉郁の視線は、石造りの床を嘗め、道士の顔へと至った。道士はにやついていた。劉郁は言葉が出なかった。

「ははは。案ぜずとも、これは、人間の肉ではない」

 道士は笑った。劉郁は顔をしかめ、道士を諌めるように睨んだ。

「いい加減にして下さい。肉を口にしているときに、人を喰う話など……。からかうにしても、もっとからかいようがあるというもの」

 しかし、道士はまるで意に介した様子は無い。愉快そうに笑っている。

「そんなに腹を立てるでない。わしも、ちと、巫山戯ふざけが過ぎたようだ。ところで──」

 道士の瞳が、焚き火の明かりを映して揺らめいた。

「巫蠱とは、どのような術か、知っておるかね?」

 劉郁は首を振った。

「巫蠱は、犬や猫、虫や蛇、蟇など、様々な動物を壺や甕などの器に入れ、互いに共食いさせ、最後に生き残った一匹を毒の呪薬にする、あるいは、その魂魄を操って他人に呪いをかけるという術だ」

「──巫蠱。ああ、話の中に出てきておりましたね。道士がその巫蠱の術を納めていたと」

 思い出した、というように劉郁はこたえた。劉郁にとっては興味のない話である。だが、先ほどのような気分の悪くなるような話よりは幾分ましかもしれないと、劉郁はとりあえず道士の話に耳を傾けた。

「巫蠱の中でも、奥義といわれるものに人蠱の術がある。人蠱は、動物のかわりに人間を共喰いさせ、生き残った者の胆液を呪薬に使う術だ」

「人蠱の術」

 劉郁は頷いてみせた。肉を手に取った。

 道士は、劉郁が肉を口にするのを待ってから続けた。

「……その胆液を得るのに、話にある牢獄は、おあつらえむきだとは思わんかね?」

 道士が不気味な笑みを浮かべた。

 劉郁の咀嚼が止まる。

「──おあつらえむき、というのは?」

 劉郁は尋ね返した。

「巫蠱の術士は、罪人たちのうちの誰かが、最後の一人になる機会を窺っていた、ということだ」

 劉郁は肉を飲み込む。

「──しかし、あの話の術士は、喰われてしまったではないですか。喰われてしまっては、術も何もあったものではないはず」

「……確かに術士は、身体を食われた。だが、巫蠱には、自らの魂魄を分離する術がある。獣に乗り移らせ操る術すら持ち合わせていると聞く」

 劉郁は目を瞬いた。

「人蠱の術では、胆液を取る人間たちが、みな強い毒のような『気』を持っている必要がある。殺し合い、喰らい合い、互いの恨みや無念さを十分に取り込んで濃縮された邪悪な『気』ほど、最終的に素晴らしい薬ができるからな。しかし、術の心得のない者には、もとより膨らませる『気』そのものがない。そのため、人蠱を行う術者は、どうにかして、共喰いをさせる人間たちに、『気』を与えねばならん。だが、どうやって『気』を与えるか。その最も簡単な方法はなんだと思うね?」

 劉郁は首を振る。

 道士はにんまりと笑った。

「──自らの身体ごと『気』を食わせればよい」

 道士は劉郁に向かって喋っている。だが、その視線は、劉郁の向こう側、蝋燭の明かりの届かぬ闇に向けられている。そこに、何かいるのだろうか。劉郁は、背が石のようにこわばっているのを感じた。

「巫蠱の術が、蟲や獣を共食いをさせるのは、共食いをすることによって、それぞれの固体の中での毒気を高める効果を狙ったものだ。人蠱の術の場合も例外ではない。共食いを繰り返すことによって、その人間の恨みや無念な思いを吸収して、邪悪な気が、どんどんと凝縮され、高まっていく。そうして、最終的に生き残った者の胆液には、これ以上はないほどに、濃縮された邪悪な気が溜まっているのだ」

 道士の言葉に耳を傾けていると、幽玄の世界に引き込まれてしまうような気持ちになる。劉郁は大きく息をついた。気が付けば、道士が男の目を覗き込んでいる。

「喰わんのかね」

 道士が笑いながら肉を差し出す。

「け、結構です」

 劉郁は、そういいながら、勢い良く手を振ってみせる。道士は肉を一口齧ると、言葉を続けた。

「──人蠱の術は、強力な呪術であるとともに、延命の術でもある。人蠱の呪薬は、人間の魂だけを殺す。その人間を形作る肉体はそっくりそのまま残す事ができる。極めて特異な毒薬だ。巫蠱の術者は、儀式によって、魂を殺し形だけとなった肉体に、自らの魂を乗り移らせることができるのだ。すなわち、薬が続く限り、術者は乗り移りを繰り返し、何百年、何千年と生き続ける。そして、やがては仙界の頂に到達できるという。これが、人蠱が奥義といわれる所以だ」

 道士はそれだけ言うと、しばらく黙り込んだ。

 静寂が続いた。聞こえるのは、霊廟の外で風にさらさらとそよぐ、枝葉の音のみ。劉郁が動く。衣擦れの音。劉郁はその音にすら、動機を早める。劉郁はゆっくりと息を吸う。そして、かすれた声で尋ねた。

「……なぜ、そのように、道士様は、巫蠱の術などにお詳しいのですか」

 道士はにやり笑うと、

「はっは、わしも長らく道術に仕えてきた。他流の術もそれなりに心得ておるだけよ」

 道士は声を立てて笑うが、劉郁は真面目に続ける。

「お待ちください。先ほどのお話、考えてみれば、道士様は趙という男の心の中のことまで、お話になっておられました。なぜ、そこまでをご存知なのです」

 道士は軽く息を吐くと、

「……何故だと思うね?」

 重々しい口調で言った。

 劉郁は恐ろしいものを見る目つきで道士を見た。

 沈黙が続いた。焚き火がはぜる。音が消える。しん、と石壁が鳴く。劉郁は、喉を鳴らして唾を飲み込む。

「か、は」

 耐え切れず、劉郁が奇妙な呼気を吐き出した。すると、道士はふいに「ふはははは」と、さも可笑しそうに笑いだした。そして、何食わぬ顔で言う。

「これこれ、そう怯えるでないぞ。簡単に引っかかられては、わしも張り合いがないではないか」

 劉郁がきょとんとしているのを見て、道士は続けた。

「よいか? このような話を、人を喰った話、というのだよ」

 劉郁は、しばらく惚けたような表情をしていた。道士はにやけ顔を浮かべている。そんな道士の顔をしばらく眺めていた劉郁は、ふいに「あ」と気の抜けたような声を出して笑い出した。

「……は、ははは。はははは。……まったく、道士様もお人が悪い。ああ……怯えて損をしましたよ」

 劉郁は笑いながら腹をさすった。

「はあ……。安心したら、また腹が空いてきましたよ。もっとあの肉を頂きたいのですが、よろしいですか?」

 道士は破顔し、

「幾らでも喰うがいい。残りの肉も焼くとしよう」

 道士は、そういうと立ち上がって踵を返した。

 肉を取りに行くのだろう。劉郁は怯えていた自分を情けなく思いながらも、安堵して道士の背中を見送った。


 結局、劉郁は最後まで気付かなかった。

 道士が歯を剥きだして笑った時に、口から覗いていたその犬歯が、人間のものとは思えないほど、鋭いものであったことに。

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