妖犬 ⑦
牢獄の中は闇と静寂で満たされていた。
微かに差し込む月明かりが、白骨の山を、血で黒く穢れた壁を、潰れた肉塊を、忌まわしく照らしだしていた。
趙は深く呼吸をした。いつもは気にならない死臭が、何故か今このときばかりは、ずいぶんと鼻についた。
趙は、孟の死体の前におもむろに屈み込み、その腹に口を寄せた。孟の体には、まだ仄かに体温が残っていた。
かれは、ゆっくりとその部位に齧り付いた。
口の中に広がる、血の味。噛み千切った肉塊を、かれは淡い微笑を浮かべながら咀嚼した。
孟の腹は、今まで多くの人間の肉を喰ってきていたため、ずいぶんと厚い脂肪の層を持っており、なかなか噛み切ることが出来ない。絡みつくような脂肪の味が、口の中に広がっていく。
しばらく趙はその味を楽しんでいたが、やがて噛み切れないそれを、趙はそのまま、飲み込んだ。
ふと、夜風にのって、微かな犬の吼え声が趙の耳に届いた。
先程の吼え声は、気のせいではなかったようだ。
どうやら犬は、徐々に牢獄に近づいてきているようで、その吼え声は、段々と大きくなっている。
趙は、猛の頭から目玉を抉り出し、それを口に含み、かみ砕いた。
犬の吼え声は、かなり大きく聴こえるようになった。
趙は、孟の腹に開いた穴に手を入れる。臓物を引きずり出して、血をすする。
犬の吼え声が、ついに牢獄のすぐ外で聞こえた。
趙はそのまま、一心不乱に食事を続けている。
と、そのとき、今まで響いていた吼え声が、ふいに掻き消えた。
趙は手を止め、格子のはまった窓を見上げた。犬の吼え声は、やはり聴こえない。だが、
……ジャッ……
かわりに奇妙な音が聴こえた。それは、この牢獄の石畳を何か硬いものが擦ったような音であった。音のした方に目を凝らしたが、そんな音を発するようなものは見当たらなかった。不思議に思って、再び耳を澄ませた。やはり何の音もしなかった。しばらくそのまま耳を澄ましていたが、いっこうに何も聴こえなかった。かれは、気のせいか、と床に腰を下ろした。
瞬間、背後に気配を感じた。
全身が強張った。
「お前が残るとは、少々意外だったな」
年老いた人間の、呟きのようなものが、聞こえた。
趙は振り返った。
闇の中に、見開かれたふたつの目があった。
ふたつの眼球は、じっと趙を見詰めていた。目と目が合う。趙はおもわず、喉に空気が詰まったような、奇妙な声を上げていた。
眼球が、笑った、ように見えた。
趙はとっさに後退った。
再び、石畳を擦るような音が響いた。どうやら、その音は闇の中のモノが、歩を進める際に発される音のようである。眼球が徐々に近づいてくる。窓から差し込む蒼白の光の中に、そのモノが、姿を晒した。
現われた異形に、趙は縮み上がった。
それはまさしく犬であった。虎と見まがう見紛うばかりの大きさをした、漆黒の犬であった。
その開いた口からは、鋭い牙と赤く燃え立つ炎が覗き、目は熟れた石榴のように赤黒く輝いている。
趙は、あまりの恐ろしさに悲鳴すら上げることが出来なかった。
漆黒の犬は、ゆっくりと、まるで趙の恐怖を煽ってでもいるかのように徐々に間合いを詰めた。犬が動くたびに、足の先の鋭い爪が石畳を引掻き、軋るような音を響かせる。
何故、ここにこのような化け物が!
思いながら、趙は逃げようと踵を返した。
途端、妖犬は勢いよく趙を跳び越え、趙の目の前に降り立ち、その退路を塞いだ。
犬の真っ赤に燃えた目が趙を見据えた。趙は思わずその場にへたり込んだ。
「無駄だ」
妖犬が口をきいた。どこかで聞いたことのある声だ。
「この狭い牢獄の中、どこに逃げようというのだ」
妖犬が、しわがれた老人の声で嘲笑った。
「わしのことを忘れたわけではあるまい。わしは、お前がはじめて命を奪った人間だからな。わしの脚は美味かったか?」
「まさか……お前は、あの時の爺か」
その声は、趙が殺した老人のものであった。そのことに気付き、趙は慄然とした。
「ようやく思い出したか」
犬は口から炎を漏らしながら笑うと、ゆっくりと趙に歩み寄った。赤く燃えたつ双眸に見据えられ、趙は、身じろぎひとつ出来ない。
唐突に、漆黒の犬が跳んだ。
あ、と趙が声を上げたときには、すでにその漆黒の犬は、趙の喉笛に噛み付いていた。
ずん、という痛みが走る。
熱い。喉が焼け付くように熱い。
いや、実際に喉が焼けている。犬の口から吐き出される炎が、趙の肉を容赦なく焼いていた。
自分の喉が焼け付く音を耳にしながら、趙は喘いだ。発狂してしまいそうなほどの苦痛に身をよじる。しかし、獰猛な獣は、容赦なく趙の首の肉を噛み切る。犬の目と同じ色をした血が噴き出す。
苦痛で趙の視界が溶けた飴のように歪む。そのままゆっくりと趙の視界は赤黒く暗転し、そして、何も見えなくなっていく。
趙は、闇の中で、自分の肉が潰れる音、骨が砕ける音、臓物が引き摺り出される音を聴いた。生臭い血の臭い、汚物の臭い、肉の焼ける焦げた臭いを嗅いだ。
この牢獄の中で、何度も繰り返し聴き、繰り返し嗅いだ、脳裏に焼きついて離れない音と臭いだ。
激しい痛みの中で、趙は思った。
ああ、今まで俺が喰ってきた奴らは、こんな苦痛を味わっていたのか……。
自分が喰われる音を、臭いを感じながら死んでいったのか……。
犬が、死に逝こうとしている趙に向けて言った。
「言ったであろう? 後悔するぞ、と」
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