妖犬 ⑤
趙にとっての初めての獲物が現れたのは、翌日のことであった。
顔中に深い皺を刻み、厳しい顔つきをした老人が、役人に引かれて牢にやってきたのである。
老人の纏っている黒い道服から、老人が何らかの術士、道士の類であることが伺えた。後に看守に聞いたところによると、この老人は飢饉であるにもかかわらず、どこからか大量の肉を持ってきて、それを焼いて喰っていたというのである。
それを見た役人が、その肉の出所を問うたのだが、老人は頑なに口を閉ざし、そのため窃盗の疑いを掛けられて投獄されたのだという。
老人が牢に入れられると、すぐに罪人たちは老人を取り囲んだ。今回は趙の時とは異なり、罪人たちは今にも飛び掛らんばかりの雰囲気である。
だが、それに対し老人は、目を細め満足そうな笑みを浮かべながら、罪人たちを値踏みするように見つめた。
「人の肉を喰らい、人の血を啜り、それで生きながらえておる。ほっほっほ、亡者の群れよの」
老人は掴みかかろうとした罪人の腕を平手で打った。
にやにやとした笑みを浮かべ、孟が言った。
「……そのとおりだ。爺さん。よく来たな、ここは亡者の巣窟だ。残念だが、ここには亡者しか住めないんでね。人間は、ほれ、あのとおり、みな喰われることになっている」
孟は、牢の片隅にうずたかく積み上げられた白骨を顎で示した。
「──ほほう、わしは喰らわれる側、ということか」
老人が呟くと孟は大声で笑いながら、
「そうだなァ。亡者は人間を喰らわねば生きていけぬからなァ」
罪人たちも孟に続いて
「おい、趙」
孟が趙を振り返り、凄みのある目つきでかれを睨んだ。
「初仕事だ。……殺せ」
趙は思わず息を呑んだ。覚悟はしていたものの、いざ実行に移す段になると、手は動かず、足は竦む。
「どうした。肉が喰いたくないのか。爺の首を圧し折るなぞ、造作もないことだろう」
孟の発したひとことで、趙はゆっくりと動き出した。
しかし、老人は、近づいて来る趙を恐れるでもなく、逆に大声で笑い出した。
「喰らうというか。面白い。このわしを! 巫蟲の術で数多の人間を呪い
老人の気迫に、罪人たちは色めきだった。しかし、孟は鼻で笑うと、
「はったりに決まっている。そんな術者ならば、役人に捕らえられるようなことがあるものか。こいつはただの爺だ。怖れるな。はやく殺してしまえ!」
趙はその声に圧されるように、老人の前に立ちはだかると、その腕を掴んだ。
しかし、老人は眉一つ動かさず、
「……ふん。お前はまだ喰って間もないな。少しばかりの理性が残った目をしておる」
その言葉に、趙は老人の首を掴む手を緩めた。
「何をしている、趙、はやく殺せ!」
孟が急き立てる。
趙は
「わしを殺め、人を辞めるかね?」
老人が問う。
いや、違う。俺は人だ。
そうだ。自分はまだ人なのだ。亡者などではない。
こいつらとは違う。自分は、まだ。
自分は、まだ──。
そこで、孟が雄叫びにも似た声をあげた。
「お前はあの時、おれが渡した肉を喰った! あれを口にしておきながら、自分はまだまともな人間だと思っているのか! お前はすでに亡者だ! 腹を空かせた亡者だ! 肉の味を思い出せ。口の中に広がる生々しい血の味を思い出せ。喰いたいだろう。それが、お前が亡者である証だ。そうだ! さあ、目の前の獲物を殺せ。殺して、喰え! さあ!」
趙の息遣いが荒くなる。手足が震える。
趙の頭の中で、老人と孟の言葉がぐるぐると駆け巡った。
孟が叫んだ。
「ひとたび人肉を口にしたんだ。お前は、もはや人ではない!」
趙の心は、その言葉で折れた。
趙は老人の首に手をかけた。
老人は趙を睨むように見据えると、しわがれた声で呟いた。
「後悔するぞ」
しかし、その言葉は趙の耳には届かなかった。
その言葉だけではなかった。
周囲の音という音のすべてが、趙の耳には届いていなかった。
趙の耳に届いていたのは、不自然なまでに早鳴る自分の心臓の音だけだった。
趙が両手に力を加えると、その両手に、胡桃を割るような感触がつたわってきた。老人の頸骨が折れる感触であった。
老人は、ぐう、という呻き声を洩らしたかと思うと、ふたことみこと、呪言のようなものを唱え、口から一筋の血を流して息絶えた。
「ようし、よくやった、趙」
孟が満足そうに言った。
老人の死体に、囚人たちが群がった。
老人の手足にそのままむしゃぶりつく。その姿は、まさに亡者のそれであった。
趙は荒く息を吐きながら、自分の両手を見詰めた。老人の首を圧し折ったときの感触が、その手に生々しく残っていた。それは、蜘蛛の巣のように絡み付き、不快な
離れない。
「どうした、喰わんのか」
孟が乱雑に引きちぎられた老人の右腕に齧り付きながら尋ねた。
趙は、視線を両手から老人へと移した。老人は既に人の形をとどめてはいなかった。
その老人を、趙はしばらく不思議そうに眺めていたが、ゆっくりと首を横に振ると、
「いや、──喰おう」
趙は無残な姿となった老人の許へと歩み寄っていった。
その顔は、恐ろしいほどに無表情だった。
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