妖犬 ③

 趙という男がいた。

 趙はもともと都市の近隣の岩場で石切りを生業として暮らす男だった。見た目はいかつい大男だが、性格はいたってお人好しで、真面目な働き者だった。

 そんなかれも食うに困り、つい出来心から盗みを働いた。知り合いの男に誘われ、役人の屋敷へその男とともに忍び込んだのだ。

 趙ほどお人好しな男はいないだろう。趙は、気の咎めから、一度盗んだ物をわざわざ返しに、役人の屋敷に戻り、そのまま捕まってしまったのだ。

 盗品を戻したからといって、罪が許されるわけではない。当然、趙はそのまま牢獄に入れられることになった。

 牢獄の中は、荒んだ目をした者で溢れ返っていた。異臭が漂う牢獄の中で、誰も声を発せず、誰も身じろぎひとつしない光景は、まるで幽鬼の群れのようだった。

 役人に背を押され、趙が罪人たちの目の前に姿を晒すと、それまで虚空を眺めるだけで、ひとことも言葉を交わしていなかった罪人たちが、急に色めき立った。かれらは、ひそひそと耳打ちをしたり、目配せをしたりしながら、互いに頷き、不気味な笑い声を上げた。

 趙が牢の中に突き飛ばされると、即座に罪人たちは立ち上がり、かれを取り囲んだ。

「新顔だ」「新顔だ」「新顔」

 罪人たちは、口々に呟きながら、妙にギラいた目で、趙をじっと見据えた。

 趙は思わずたじろぎ、視線を泳がせた。

 ふと、視界の端に、黄白色の気味の悪い塊が映った。その方向に目を向けると、それは、累々とうずたかく積み上げられた骨の山であった。どうやら人骨のようである。それが何を意味しているのかに思い当たり、趙は思わず身震いをした。あの山の中に、自らの骨が加わっている様子を想像したのである。趙の胸は早鐘のように高鳴り、体中の毛という毛が逆立ち、冷たい汗がツツと背筋を流れた。気を抜けば、その場にくずおれてしまいそうだった。

 趙は怯えを気取られないよう、必死で息を整えた。少しでも弱みを見せれば、その途端にかれらは襲い掛かってくるだろう。気を抜いてはいけない。

 しかし、一向に罪人たちが趙に襲いかかってくる気配はなかった。むしろ、かれらは趙のことを恐れているようであった。

 事実、かれらは趙を恐れていた。

 趙の、その石切りの仕事によって鍛えられた肉体は、さながら鬼神のようであり、その巨躯に罪人たちは恐れをなしていたのである。

 どうやらすぐに喰われるということはないらしい。

 趙は少しだけほっとした。

 互いにしばらく睨み合っていた。やけに気味の悪い沈黙が続く。そのうち、趙を取り囲んでいる罪人の中から、一人の男が前に歩み出て、問うた。

「新入り、お前、名は何という」

 趙は冷静を装って、精一杯の虚勢を張って答えた。

「俺は趙というものだ。ここには窃盗で入ることになった。お前こそ、名を何というのだ」

 名を訊いてきた男は、趙を横目で見据えながら、険しい顔で周囲の男うちの一人に耳打ちをした。耳打ちをされた男は、次々と周りの男たちに同じように耳打ちをしていく。趙は話の内容が聞こえないかと耳をそばだてたが、その声はどうにも小さく、聞き取ることは出来なかった。

 なんとも居心地が悪い。いったい、奴らは何を伝えているのだろう。最初の男は、何と言ったのか──。趙が思ったとき、不意に男が顔をほころばせて笑いかけてきた。

「おお、すまん。わしはここで、一番の古株で、名を孟という。よろしく頼む」

 孟はそう言って右手を差し出した。

 趙はしばし逡巡したが、ここではこの手を取っておいた方が得策であろうと判断して、「ああ」とだけ呟き、その手を握り返した。

 握り返すと孟は快活に笑った。

 かれはそのまましばらく笑っているものと思われたが、すぐに笑うのをやめ、趙に応対したときとは打って変わった鋭い口調で、周囲の人間に「散れ」と言い放ち、人払いをした。囚人たちは、だるそうにそれぞれの所定の位置に戻っていった。そのままかれらは床に寝転がったり、座り込んだりして、彫像のように身動きをしなくなった。余計な体力を使いたくないのであろう。

 それを見とどけると、孟は趙を牢の奥のほうへと招いた。

「──さて、ある程度は察しが付いていることと思うが、ここでわしらがどのようにして、生き延びているか、まずは、そのことを知ってもらわねばなるまい」

 孟は自分たちがこれまでに行ってきたことを包み隠さず趙に話して聞かせた。趙は顔をしかめながらその話を聞いていた。時折、何も入っていない胃袋から胃液が込み上がってきて、思わず口元を押さえることもあった。しかし、趙にとって一番恐ろしかったのは、目の前で語っている孟に少しの悪びれた様子もないことであった。それどころか、英雄譚でも語っているかのような口ぶりである。趙には、孟のその顔が、おぞましくてならなかった。

 蝋燭の小さな火を映し、孟の眼球が、てらてらと不気味に輝いている。趙は、改めて自分がいつ襲われてもおかしくない状況にいるのだと、実感した。

「趙、お前、腹は空いていないか」

 あらかた話し終えたところで、孟が切り出した。

「そりゃあ、空いているが」

 嫌な予感がした。

「──肉」

 孟が目を細めた。

「肉が食いたいと思わんか」

 孟の言わんとしている事を感じ取り、趙は沈黙した。孟はそんな趙をねめつけると、ゆっくりと舌なめずりをして、嫌らしい微笑を浮かべた。

「なァ、趙よ」

 孟は趙をじっと見詰めた。

「──人はものを喰わねば、生きていくことができないんだよ──」

 趙はとんでもないとばかりに首を大きく横に振り、孟に背を向けた。到底受け入れられる申し出ではない。

 孟は一瞬顔を顰めたが、

「そうかい。まあ、誰でもはじめはそんなものだ。だが、それもいつまで持つかわからんがな」

 くっくっくっ、と低く押し殺した笑い声を立てながら、孟は、部屋の端に歩いていった。

 孟が黙ると、部屋は再び沈黙に包まれた。

 誰も、何も言わなかった。物音ひとつ、立てることはなかった。

 趙の耳には、孟の不気味な笑い声の余韻が、じったりと染みこむ油のように残っていた。

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