16限目 一方、その頃……(前編)

「はあ~。やっと終わった……」


 俺は机に突っ伏した。

 周りには筆記用具、研修で渡された教本や資料が広げられている。

 不意にシャラシャラと耳障りな音が聞こえた。

 何事かと思ったら、研修の教官が朝からずっと下がっていたブラインドを上げる音だ。


 外は真っ暗である。

 時間はすでに19時を回っていた。


 俺は今、新任教員研修を受けるため、県内にある研修施設にいる。

 施設には、研修室や会議室はもちろん、宿泊施設、食堂、小規模な図書室もあって、泊まりがけの研修をするための諸々が揃っていた。

 周りは山で、市街からも遠い。

 コンビニも30分以上歩かなければならないほどの秘境だ。


 ここでみっちりしごかれてこい、ということらしい。


 本日の研修は『スクールコンプライアンス』だ。


 一口にいうとそれまでだが、内容自体は多岐に渡る。

 「教員の飲酒運転による事故」の例から始まり、「個人情報の管理・漏洩」「校費の横領」「生徒への体罰とセクシャル・ハラスメント」「虐待の通報義務違反」etcetc。


 事例や先輩教員の経験を交えて話を聞く。

 午前は座学講義があり、午後からは県内外の学校から集まった新任教員と一緒に、座学で学んだことに対する改善と課題について話し合い、最終的に発表する班別分科会が行われる。


 予定は朝から晩までびっしり。


 午前中の座学までは、こんな楽な研修ならいつまでも受けていたいと思ったものだが、思いの外ずっと椅子に座っているのも、なかなか辛い。

 学校では授業中ずっと立っているのが辛いと思っていたが、やれ生徒側として座ってみると、それはそれで苦労があることに気付く。


 1コマ1時間近く、子どもをずっと座らせている方が、よっぽど虐待ではないかと思う。


 他の新任教員たちも疲れ切った顔をしていた。

 きっと俺と同じことを思っていることだろう。


「玄蕃先生」


 溌剌とした声に俺は顔を上げた。

 ふんわりとしたボリュームのあるショートカット。

 ややつり上がった瞳は鋭く、厚めルージュの唇には、どこか自信を窺わせた。

 グレーのリクルートスーツがパリッと決めていて、教員というよりはやり手の保険外交員を思わせる。


 同じ班のまとめ役を担った吉永美由紀先生である。


「お疲れ様でした」


 声がはっきりしている。

 口調にも、顔にも全く疲れを感じさせない。

 班の中で積極的に発言し、最後には発表役まで担っていながら、いまだ溌剌としている。

 今から朝から同じ講義を受けても、たとえ剣林弾雨の中でも、この人ならきっと立っていられそうな気がした。


「お疲れ様でした、吉永先生。ははっ……。元気ですね」


「それは鍛えてますから!」


 ふん、という風に肘を90度に曲げて力を入れる。

 残念ながら、その美しく鍛え上げられた筋肉は、リクルートスーツの袖に阻まれ、おめにかかることはできなかった。


「発表、素晴らしかったですよ」


「いえいえ。玄蕃先生が作った原稿も良かったですよ」


 「も」か。

 自分のことは否定しないのね。

 まあ、自信があるのはいいことだ。

 ちょっと俺にも分けてほしい。


「とってもまとまっていました。わかりやすかったし」


「ありがとうございます」


 昔から原稿とか資料を作るのは、何故か得意だった。

 文学部の友人が「小説家にでもなれば」と勧めるほどだ。

 まさかその才能が、新任教員の研修で発揮されるとは思わなかったが……。


 ぐぐっ……。


 小さく腹音が鳴る。

 1日目の研修が終わって、ようやく緊張が解けたのだろう。

 我が胃袋はいきなり抗議の声を上げた。


 ぷっと横で吉永先生が噴き出す。

 どうやら聞かれてしまったらしい。


「面目ない」


 照れ笑いを浮かべる。


「夕食にしましょうか? 腹が減っては戦はできぬと言いますしね」


 と吉永先生は言う。

 さすがは現国担当の先生だけはある。

 でも、戦ってなんだ?

 この人がいう戦場はどこにあるのだろうか?



(※ 後編に続く)


~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~ ※ ~

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