ある民俗学者の手記
私は■■県■■にしばらく滞在することとなった。近所の人々とつき合って、土地の観察をすることにしたのである。
最初驚いたのは病の子供がいないことであった。私にすれば、これくらいの頃の子供らが病気をするのは当然であって、遺伝的因子にせよあるいは外的、栄養的因子にせよどういうことか興味を抱いてしまったのである。
(中略)
■■においてもう一つ驚いたことは、どの家もワン・チャイルド・ポリシー(一児制)で、一軒の家には男児と女児どちらか一人ずつしかいないということであった。私が「兄が二人、妹が三人いる」と言うと、人々がざわめくほどであった。
しかし、一児制を採らざるをえなかった事情は、理解できる。
農村の人々の間では、人口抑制の必然性の意識が高かったと推測される。飢饉もしばしばおこり、農地の不足の意識は強かった。
■■によれば■■の飢饉では秋口から早くも餓死者が出はじめ、山野の植物がなくなる降雪期になると食物が無くなり餓死へ追い詰められていったとある。屍肉も食べるほどの飢えの中にあって間引きは生きる者を残すためやむを得ない手段であった。
(中略)
中絶手術ではなく、もっと露骨な方法が採られて来たわけである。所謂間引きのようなものである。
町医者の元にもよく■■の住人が死亡診断書の作製を依頼しに訪れたらしいが、医者は多くの場合断ったという。
(中略)
ここに来て早くも三年になる。
私の印象に最も強く残っているのは、川に沿って歩いてゆくと「お豊ヶ淵」と呼ばれるところに粗末な作りの小屋があり、誰が描いたものであろうか、壁一面におどろおどろしく彩色された絵が描かれてあったことである。
その図柄は、般若のような顔をした女が黒髪を振り乱し、嬰児の四肢を引き毟りはらわたを啜っているという残酷なものであった。夜になるとその女の絵がぼうっと映り、なにやら腐臭のようなものまで立ち込め(硫黄含有量の高い水が流れている)ひどく肝を冷やしたものである。
考えてみればこの図柄の意図は推察でき、もの悲しい気持ちになるのだが。
また、小屋の中に入ってみると意外にも奥行きがある造りをしていて、板張りもしっかりとしていた。
さらに奥には神棚が祀ってあった。
ふと見上げると、天井に大きな染みが広がっている。そこで連想したのが伏見城の血天井である。
落城の折最後まで残った鳥居元忠ら380余名の兵はが伏見城の「中の御殿」という場所に集まり自刃した。
その自害の現場は凄惨を極め、床板にはその時に流れた血が染み付き、その後いくら洗っても、削っても、血の痕が消えることはなかったという。
それを知った家康は、元忠をはじめ兵たちのための供養として、その床板を外し、「決して床に使ってはならぬ」と命じた上で、養源院などのいくつかの寺の天井板として使わせたということだ。
またも憶測となるが、この場所は飢餓により間引かれた嬰児だけではなく、なにかそういった悲しい理由でこの世を去った死者への供養を兼ねているのかもしれない。
私は思わず神棚に手を合わせていた。
(中略)
私はとんだ思い違いをしていた。
死者のための供養などではなかった。
病気の子供らがいないのではない。いなくなるのである。
私はそれに気付いたとき科学的、いや倫理的根拠を以て人々に道徳を説いたが、それもまた思い違いであった。
淵から這い寄る彼女は、私の長年信奉していた(と表現せざるを得ない)実地調査に基くプラグマティズムを打ち消した。
あの壁画は弔いではない。起こったことありのままである。
(中略)
私は■■を去ることにする。
人々の暖かさ、ようやっと馴染んだ牧歌的生活への未練がないわけではない。
しかし彼女はもはやお豊ヶ淵に収まらず、屋敷に訪ねてくるようになった。嬰児では足りぬということなのかもしれない。
私の手記を読み、何かの折にここを訪ねようと思う者があってはならない。
場所は伏せる。
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