幕間 断絶された記憶の中で

第171話 とある固い決意

 ひっそりと静まり返った暗闇の中で、一人の女が孤独に座っていた。何をしゃべるわけでもない。誰かを待っているわけでもない。ただひたすらに、膝をそろえて座っている。

 すると、どこかから突然に、パチンと何かの蓋を勢いよく閉めるような音が聞こえてきた。と同時に、ほのかに光る、橙色の小さな光の玉が、女の手元からゆっくり浮かび上がり、瞬く間に辺りを同じ色に染めていく。

 薄明かりに照らし出されて見えてきたのは、家具も支柱も一切ない、真球に近い奇妙な一室。

 床に、壁に、天井に。

 部屋全体を埋め尽くすようにびっしりと細かく彫り込まれている、一見しただけでは黒い虫がうごめいているようにしか見えない趣味の悪い文様は、実際には文字の形を成しており、見た者の精神を、狂わせてしまってもおかしくないような不思議な魅力を持っていた。

 その、どこか気味の悪い文字にまるでそっくりな、ミミズが這ったような汚い字体で書き記された一枚の紙きれを、女は大事そうに抱えている。

 が、紙の方は、部屋のそれとは少し異なり、所狭しと書き込まれているわけではないようだった。それに、どこかで一度破かれでもしたのか。紙の左側には、とても細かい繊維がはみ出したように少しギザギザしたところがある。

 それはともかく、女は唐突に、紙きれを両の手でしっかりと持ち直すようにした。そして一瞬、周囲をぐるりと見渡した後で、紙をゆっくりと破り始める。すると、破れたその隙間から文字が勢いよく飛び出してきて――、まさか、その怪しげな儀式の代償として、光が充てられたとでもいうのだろうか。部屋の明かりは急速に、そして紙に吸い込まれるようにして消えていった。

 いつの間にか、暗闇からは女の息遣いさえも聞こえなくなっている。部屋はまた元のように暗く、そして静かになった。


―――――――――534―――――――――

「破いて……破け!」

 少女に怒鳴られ、シャーロットの意識はぐわんと揺らいだ。自分の意思とは関係なく、両手が勝手に少女の記憶が詰まった紙を破り始め、揺らいだ意識の隙間から、十一年分の記憶が流れ込んできているのが分かる。

 だが、その時になってもなお――今までずっと本性を隠してきたと告げられてもなお、シャーロットが少女に対して思う気持ちは、昔のまま、何一つとして変わらなかった。

「お嬢様がお考えになっていることが、私には分かりかねます」

 歪み、にじみ、だんだんと霞んでいく視界の中で、大切な人が、自分の前から去っていく。そんなことだけを認識しながら、シャーロットはポツリとつぶやくように口を開く。

「ですが、お嬢様は優しいおひとです。きっと、その小さな身体で、私を含めた大勢の者の過失や罪を、全て背負ってしまおうと思っておいでなのでしょう」

 自らの意識が闇に落ちて行く寸前で、傷ついた喉から絞り出すようにして紡いだその言葉が、暗い森の中へと消えかけていた少女の歩みを止めさせた。

「何年もの間、こんなに近くで見てきたんですもの。意図までは読めずとも、私にだって、お嬢様が嘘をついていることくらいなら苦労せずとも見抜けます。心無い言葉で、本心を偽って。冷酷な態度で、私をあざむこうとして――。自分を悪者に仕立て上げて、いったいそれから、どうするつもりだったのですか? もう、一緒に連れて行って下さらなくとも構いません。ですから、どうかそれだけでもお教えください」

―――――――――535―――――――――

 そう言うと、ふっと身体が軽くなり――気が付けば、先ほどまでシャーロットの全身を這いずり回るようにしながら脈動していた文字たちは、いつの間にやら、どこかに姿を消していた。そして、周囲をほのかに照らすと同時に、少女と自分との間を隔てていた淡い瑠璃色の球体も。一段と暗くなってきた森の中、全ての支えを一度に失って、シャーロットは地面へと、顔から突っ伏すように倒れ込む。が――、

「シャル……」

 自分の名を呼ぶその声に、何とか最後の力を振り絞るようにして顔を上げると、少女は目の前で泣いていた。込み上げてくる涙をこらえることもなく、涙が頬を伝うのも気にせずに、くしゃくしゃになって泣いていた。

「シャルぅ……」

 それなのに、こんなに大切な時に限って、どうしてこの手は動かないのだろう。どうしてこの身体はぴくりとも動いてくれないのだろう。

 本当なら、即座に少女に駆け寄って、ひしと身体を抱きしめてやりたいのに、何度も何度も殴打され、あらぬ方向に曲がってしまったシャーロットの手足は、もう動くことすらままならない。

「私、やっちゃった……シャルが死んじゃうって思ったら……」

 微かな声では、泣きじゃくる少女に言葉は届かず、かと言って、他に思いを伝える術は無い。無力感に苛まれるシャーロットをよそに、少女は震える声でぽつりぽつりと言葉を並べながら、自分の両手を恐れおののくような目で見つめ、遠ざけていた。

―――――――――536―――――――――

「シャルの仲間を……城の人たちを……みんなみんな、私のせいだ……私が殺したんだ……私さえ、私さえいなければ……誰にも会っちゃいけなかったんだ。城の中で閉じこもっている方が、皆にとっても、そして私にとっても幸せだったんだ。それを私は、勝手に勘違いして……」

 よろよろと数歩、シャーロットの方へ近寄ってはまた遠ざかる。その、およそ意味がないであろう無駄な動作を、少女はずっと繰り返している。

「何人……何人やっちゃったんだろう。五人、十人……? いや……殺した数まで分かんないなんて、そんなの、いや……。ねえ、シャル。私のやったことって、誰かを助けるためだったら許されるのかな?」

 はい、と考えるまでもなくそう言って、少女を安心させてあげたかった。だが、痛みが邪魔をした。シャーロットが痛みをこらえている間に、少女は既に自分の中で厳しい結論を出してしまっている。

「分かってる。ダメだよね。仮にそれで誰かを助けることが出来たとしても、私は今日だけで、どれだけの人の生活を壊してしまったの? どう償えばいいんだろう。死んじゃえばいいのかな?」

 もう自分の感情すらコントロールできなくなってしまっているのか、それとも悲しみを通り越してしまったのか。少女は瞳から大粒の涙をこぼしながら笑っていた。

 その様子を見ていると、今まで無理やりに押さえつけてきたものが込み上がってきて。側仕えのくせに、何もできない自分がどうしようもなく情けなくなってきて。

―――――――――537―――――――――

「駄目です!」

 気づけば、シャーロットは身体の警告を無視して、大きな声でそう叫んでいる。

 胸が張り裂けんばかりのこの痛みが、心から来ている物なのか、それとも物理的なものなのか。それさえも、シャーロットにはもう分からない。だけど、いま少女を止められないくらいなら死んでしまった方がずっとマシだと、シャーロットは死の恐怖を知ってから初めて、自分の死を受け入れる気になっていた。

「お嬢様は生きなければ――私たちのために生き延びてください。そうしなければ報われません。イレートスが……お嬢様のために身を張って、時間を稼いだ者達が……そして私も。早く逃げてください。また追手が来る前に!」

 胸を抑えながら、そして、口から血を吐きながら。その場から動けなくなってしまっているユリに向かって、シャーロットは懸命に訴えかける。

「これはいつものお願いではありません。義務です! 私にはお嬢様の命を守る義務があります。そしてまた、お嬢様にも同じように、守られた命を――私たちが作った自由への道を踏み出す義務があるのです!」

 そこまで言ったところで、顔を上げていることすら出来なくなり、シャーロットは再びその場に倒れ込んでしまった。

―――――――――538―――――――――

 このぐらいの傷なら、おそらくこのまま意識を失っても死に至ることはないのだろうが――、シャーロットは少女を逃がした大罪人。捕縛ではなく、処刑の命令がなされている以上、目覚める日はきっとこない。

「私はもう駄目でしょうが……どうか私の分まで、外の世界を楽しんでください」

 だからその言葉を残して、この世にお別れするつもりだった。だが、気が付けば、少女が自分の肩を揺さぶっていた。

「嫌だよ、シャルまで失うなんて嫌。命令よ、死ぬな。死ぬな!」

 とても必死なその様子を見ていると、何故だか自然と顔から笑みが零れ出てくる。

「私を守る前に自分を大切にしてよ……。私ばっかり守られて――、私もシャルを守りたい。立場とか境遇とか、そんなん関係なしに。一人の友だちとして、貴方を守りたいよ!」

 ひょっとすると、傍から見れば悲惨な最期に思えてしまうのかもしれないけれども。誰かに思われて死ねる、ということはこれほどまでに幸せなことだったのだと、シャーロットは自分の運命に満足していた。

 少女が逃げてくれるなら。自分が身を張って守ったものが未来に繋がってくれるなら。生きた証が残せるなら、死んでもいい。そう思い始めている自分がいた。

 だが、もしかするとその一方で。シャーロットは、いま自分の前に立っているべそっかきの女の子が、誰よりも負けず嫌いで、そして、誰よりも諦めという言葉が似合わない、ちょっと頑固な少女であることを忘れてしまっていたのかもしれない。

―――――――――539―――――――――

 先ほどまでの泣き顔は一体どこに行ってしまったのか。

 大の大人が、もう何もかも諦めて、少女の未来のために犠牲になる自分に酔い知れているその間に、シャーロットを覗き込む幼い少女の眼差しには、とある固い決意が宿り始めていた。

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