第133話 純粋悪

「一日……、朝から晩まで丸一日もの間、座っていたんです。サンクリンで私を見かけた方はいませんか? 靴屋のすぐ隣で、灰色のローブを着て、むしろの上に座っていた――、花を売っていた女性を覚えている方はいませんか? 誰か……、どなたでもいいんです。私の無実を証明してくださる方はいませんか?

 サンクリンは大きな通りです。一日に何百人も、何千人も利用する道なんです。これだけ居たら誰かひとりぐらい、路傍の私に目を留めた人がいるはずです。思い出してください。私を――、ほんとうに、誰も見ていないって言うの?」

 最後は、願望交じりの泣き声になっていた。言い終わると、女性はその場にぺったりと座り込む。

「私を見たって人は、どうか手を挙げてください。私の証人になってください。あの日、サンクリンで目にしたって。この人は、殺人犯なんかじゃないんだって。お願いです。住居も持たない私では、何の後ろ盾も無い私には、もう、これ以上どうしようもできないんです。助けて、お願いだから――」

 これだけの人が集まっていて、誰も女性を見ていないなんて。そんなことがあり得るのだろうか。そう考え、ルーツはため息をつく。

 女性の運が相当悪かったのか、それとも――。

 確かに、単純に誰も女性のことを覚えていないだけのかもしれない。だけど、女性の言ったことが全部本当で、花を買った人が二組は居るのだったら、少なくとも女性の話に出てきた金髪の若者と老夫婦は、女性の無実を知っているはずだ。

―――――――――321―――――――――

 女性の声は、魔法か、もしくは何らかの力で拡声されて遠くまで――、おそらくは王都全域に響き渡っているのだろうから、彼・彼女らは今現在、広場に居なくとも女性の窮地を聞ける環境にある。

 だったら、来てあげてもよさそうなものなのに――。我こそは、と名乗り出てくる者は誰も居ない。どこから騒ぎを聞きつけたのか、群衆の数は増え続けていたが、待てども、待てども、救いは一向に訪れることがなかった。

 女性が助けを待つ間、台の上からはもう何人かが、抗議のために進み出た。しかし、そのいずれもが女性と同じように言いくるめられ、誰一人として無実を立証できぬまま、引き下がっていく。

「もはやこれ以上、審議を続ける必要もないだろう」

 しばしの時が流れ、達観したような声がそう告げると、抗議を試みた数人の顔から、血の気が失せていった。彼らは、待ってくださいと悲痛な声をあげ、周囲を囲む兵士たちに取りすがろうとする。

 だがその一方で、抗議を試みなかった人々は、一切取り乱すことも無く、ただぼうっと、まるで他人事のように沈黙を保ち続けていた。

 その様子を見て、同じ境遇の身――、同じ疑いを掛けられている身でありながら、この違いは何なのだろう。と、ルーツは少し首を傾げる。

 しかし、興味本位でそのままじっと見つめていると、平静を貫く人々の眼から光が消え去っていることに気づき、

 『諦め』

 ルーツは彼らの表情をそう読み解いた。彼らは罪を心から悔やんでいるというよりは、全てを、生きることさえも諦めて、自分に降りかかった理不尽な運命を受け入れているのだ。そう考えれば、あの態度にも納得がいく。

―――――――――322―――――――――

 広場に溢れる群衆たちは、総じて前を向き、ルーツたちに背中を向けているため、その心の内をうかがうことは出来なかった。だが、友だち同士で来ているのか、時たま後ろを向いては楽しそうにぺちゃくちゃ喋っている若者の笑顔を見るに、少なくともあの場には、今という時を楽しんでいる者がいるのだろう。

 すると、ユリがまた、ひとりごとのような口調で、

「ねえ、本当に誰も、見てなかったんだと思う?」と、そう言った。

 だが、今度は窓の外ではなく、ルーツの方をしっかりと見つめている。

 ともかく、ユリがようやく、まともに相手をしてくれたような気がして、ルーツは少し嬉しくなった。嬉しかったので口早に、ユリの反応を期待して、ろくに分かってもいないくせに、それらしいことを言い始めてしまう。

「……そう言われても、僕にはあんまり分からないよ。だいいち――、あの人が本当に無実かどうかも、ここから見てる分には何とも言えないし。随分、真に迫ってはいるけれど、あれが全部演技だったらと考えると、綺麗に辻褄が合っちゃうしね。仮に嘘をついてるんだとしたら――人殺しって、いったい毎日、何を考えて生きてるんだろう。頭の構造から僕らと違っているのかなあ。

―――――――――323―――――――――

 何だろう、こう言っちゃあ、僕が悪人の味方してるみたいに聞こえちゃうかもしれないけど、勘定をちょろまかすとか、店の品を盗むとか。僕、そういうのならまだ理解できる気がするんだよ。人間、どうしても心が弱くなる時はあるもんだから、一生に一度くらい、悪魔の囁きに負けちゃうこともあるのかなあって。……だけどさ、殺しって。誰かの命を奪っちゃうっていうのは、他の罪と、随分違う気がしない? 

 純粋悪って言うのかな? 生まれながらの悪人じゃないと出来ないっていうか。根っからの悪人じゃないと出来ないっていうか。取り返しのつかないことを簡単に出来ちゃうのは、狂っているからなんだと思うよ。きっと僕らと、その人たちとじゃ、常識を測る物差しの長さが全く違うんだ。だから僕らじゃ、一生かかったって、人殺しの考えは理解できない。理解しようと思っちゃ――」

 そこまで調子良くベラベラと語っておいて、ルーツは唐突に口をつぐんだ。言い切ろうとして、記憶の部屋で見た少女たちのことが再び思い出されたのだ。

 リリスたちが他人を陥れなければ生きていけなかったように、生きていくために殺す――それが、正しいと言えるような場面も存在するのだろうか。

 しかし――、いや、何があっても殺しなんて間違っている。馬鹿なことを考えるもんじゃないと、ルーツは自分の顔をぴしゃりと叩いた。

―――――――――324―――――――――

「まあ、でも、多分。見ていないんじゃないかなあ。だって実際、誰も名乗り出てきていないわけだし。助かりたい一心で、嘘ばっかり並べてきたせいで、整合性が取れなくなっちゃったと考えた方が自然だと思うけど」

「ふーん、嘘ばっかり、ね。なら、これからもっと面白くなると思うわ」

 ユリは仄めかすように言ったが、少なくとも今、ルーツは非情に気分が悪かった。殺人者か、そうでないかを審議している場面なんて――、てっきり楽し気なパレードでも見せてくれると思っていたのに、ユリの思考が全く理解できない。

 それに、ユリは先ほど、意味がないことは嫌い、と言っていたが、この胸糞悪い光景を見たとして、得られるものは何かあるのだろうか。

 彼女らが冤罪にしろ、そうでないにしろ。見終わった時に残っているのは、激しい嫌悪感だけだろう。ルーツはそう思っていた。ユリの何気ない一言を聞くまでは。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る