第109話 手加減

 だが、今まで何とか平静を装っていた男が、明らかに怒りを顔に出したのを見ると、意外と少女の指摘は外れていなかったのかもしれない。普通に生きてきた男に、少女が本の中の知識を実在の者にそのまま当てはめているなどと、想像できるはずもない。男は純粋に、自分が仕える主が侮辱されたと思ったことだろう。

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「上が上なら、部下も部下ね。出会って早々、暴力に訴えて、シャルを傷つけようとするなんて。力で全てを解決できると思っている野蛮な思考が見て取れるわ。この未開人」

「それ以上、主を貶めるのは止めろ」

 男は、先ほどまでのわざとらしい柔らか声を止め、命令口調になった。

「女に何を吹き込まれたのか知らないが、これ以上言うと――」

「言うと、どうするのよ?」

 男はその後に、何か続けるつもりだったのかもしれない。だが、それが何であったとしても、後の展開に動きが生じることは無かったろう。男が喋りだすその前に、少女は唐突に、男の顔に向かって唾を吐きかけた。

 唾は、的を外れ、男の胸にシミを作ったが、男が激高するには、それで十分だった。男の顔が、みるみる飲みすぎた酔っ払いのように赤くなる。最大限の恥辱を受けた。そんな顔だ。口から、うめき声とも唸り声とも判別のつかない言葉が二言三言、漏れる。それから、今度ははっきりと聞き取れる声で一言。

「もう我慢ならねえ」

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 少女の両手が男に向かって、重なるように突き出されるのをシャーロットは見た。これ以上ないくらい大きく歪んだ、耳元まで裂けたような男の唇も少女の肩越しに見えていた。と、同時に生暖かい風が、下の方から忍び寄ってくる。意思を持たない自然現象であるはずのそれが、まるでシャーロットの首を絞めるように、上へ上へと、まとわりつくように這い上がる。そんな違和感もシャーロットは覚えていた。そして、シャーロットが風を払いのけようとする前に、全ては大きく動いた。

 男の唇が震える。瞬間、少女の両手から乳白色の靄が、男の胸めがけて飛び出した。靄は大きくうねって渦巻き、男に襲い掛かる。不透明な乳色を、男は避け損なったかのように見えたが、片手を半円を描くように回転させると、靄は虚空に吸い込まれたかのように掻き消えた。と思うと、不意に視界が暗くなる。見上げると、先ほど男によって吹き飛ばされた木々が束となって、二人を貫こうと上空から落下を始めているところだった。が、腰を抜かすより先に、木々たちは空中に張り付けられたように落下を止め、そのまま重力に逆らい、上昇していく。そのまま何処かへ。見えなくなってしまった。

「お父様が心配してるって? やっぱり嘘だったのね。ほんとだったら、大事な娘に攻撃することを許すはずがないもの。いや、そもそも娘を殺そうとする父親なんて、もう父とは呼べないわね」

「こんなもので死ぬくらい軟弱なら、主も貴方を、娘とは思わないだろうよ」

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 理解が追い付かないほどの攻防。シャーロットが意識を少女に戻したときには、男の両手は、氷結し先端が鋭くとがった枝を握っている。直前で、何とか防御が間に合ったのか。少女の喉元に突き刺さる寸前で、状態は膠着していた。

「ほーら、煽られると、すぐ正体を現した。結局、あんた。お父様の方に忠義を感じているだけで、命令されたから、仕方なく私を連れ戻しに来ただけなんでしょ。欠片すら、私のことは大切だと思ってないくせに、よくもあんなことが言えたわね」

 少女は、あくまでも余裕そうに言ったが、凍り付いた枝は、少しずつ、少女の首へと迫ってきている。

「手、出さないで。これは、私の勝負なんだから」

 手を貸そうとするシャーロットに、少女ははっきりと言った。だが、仮に言われなかったとしても、日常生活に使えるような魔法もままならないシャーロットでは、足手まといになるだけだろう。もどかしいが、おとなしく見ているしかない。

 自分に人質としての価値がないことは分かっているが、万が一のことを考え、シャーロットは周囲に気を配りながら、少しずつ後退した。そのまま、冷たい地面に放っておかれていた女中を揺り起こし、すぐにでも逃げられるようにと背中に背負う。自分の身すら守れるかどうか怪しいこの状況。他人に構っている余裕はなかったが、この女中は少女を見つけようと、一緒に探してくれたのだ。

 女中の身体はすっかり冷え切ってしまっている。此処に残しておけば、男の被害を受けずとも、酷い風邪をひくか――最悪、死んでしまうかもしれない。二人の門出に、そんな後味の悪い思い出は残したくなかった。

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 これで、後ろから撃たれた際の魔法避けが出来た。そんな意地悪い心の声を黙殺して、向き直ると、ちょうど少女が持ち前の馬鹿力で、枝をへし折ったところだった。が、事はそう簡単には進まなかったようで、少女の頬には、スパッと鋭利な刃物で切ったような赤い線が残っている。胸を押さえ、肩を上げ下げし――、とても苦しそうだ。

「不思議に思っているんだろう。何故、自分の魔法が、こんなにも簡単に押し負けてしまったのか」

 男は不敵な笑みを浮かべながら言った。

「自分は目の前にいる男より、強い魔法が使えるはずなのに、と」

 答える代わりに、少女の指先から赤い光がほとばしる。だが、男は少し首を傾けただけで躱し、光は背後の巨木の芯をとらえた。爆音とともに、男の髪は爆風のあおりをうけ、少しはためく。

「本来なら、その魔法一つで、木一本消滅させることも容易なはずだ。ならば、何故。後ろの巨木は、まだ原型を留めているんだろうねえ?」

 焦ったのか、恐怖に駆られたのか。少女の指からは、続けざまに光線が飛び出した。男はそれも難なくかわし、少女の右手首を掴むと、体ごと吊り上げようとする。それから、服の下から呪文を撃とうとしていた左手首を――、ゴキっという嫌な音がして、シャーロットは男が少女の手首を無理やり外したのを悟った。少女は、あっ、と一声大きな悲鳴を上げ、涙目になる。

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「それはだなあ」

 顔を少女に近づけた男が、何をしたのかは分からない。次の瞬間、シャーロットは後ろにすっ飛ばされた少女を、転びそうになりながら受けとっていた。

「お嬢様、貴方は手加減してるんだよ」

「誰が、あんたみたいな、糞野郎に……情けなんて……かけるはずないでしょ」

「いいや、してるさ。知らず知らずのうちにね」

 痛みに耐えようと、細かく区切りながら喋る少女に、男は含むように言った。

「女、お前も気づいているだろう。お嬢様が、先ほど放った魔法は弱い。それとも何か? 魔法を見るのは初めてか?」

 魔法の威力の大小なんて、さっぱりわからない。どれもシャーロットにしてみれば、威力が大きすぎるくらいなのだ。だから、知らない。他の魔法だったらそう答えるしかなかっただろう。だが、幸いにもその魔法は、少女と再会した際、魔毒症の説明にと見せてくれた魔法と同じだった。一撃で木一本どころか、その場に在った生命全てを無差別に消失させた魔法。確かに、その時の威力と比べると、今回の一撃は――、太くて固い幹以外、全て吹き飛ばすような威力に生身の肉体が持つならばの話だが、いささか手加減しているようにも見えた。しかし、一概には言えない。時には、威力を抑える方が功を奏する場面もあるだろう。

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