第107話 寒気
そしてシャーロットは、少女の隣を、大股で張り切ったように歩き出す。
しかし、肝心の第一歩を踏み出した瞬間に、まるで大切な何かを忘れてしまっているような、勇ましい門出には不似合いな不安が立ちどころに垂れこめてきて、シャーロットは後ろを振り返った。
が、不気味な視線を感じたと思ったのは、やはりただの考えすぎであったようで、背後には森が広がっているばかりで、誰の姿も見当たらない。……だから、
「どうかしたの?」
こちらを覗き込んでくる少女に、何でもない。と、そう答えようとして、シャーロットはその瞬間、違和感の正体に気が付いた。
……誰もいない。
そう、先輩たちや、その部下たちが、先ほどまで見守ってくれていた森の中には、誰の姿も見当たらなかったのだ。
だが、なんにせよ、自分は城を出ていく身。
その理由がなんであれ、たとえ否定的なものであったとしても、もう私と関係はないのだからと、シャーロットはそう考えて、一度は違和感を忘れようとした。
けれども、何かが――、敢えてその正体を述べるなら、第六感のような不確かなものが、シャーロットの足を止まらせた。
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「お嬢様。何か、感じませんか?」
早くこの場を立ち去りたい。そんな気持ちを抑え、何気ないふうを装って、少女に話しかける。これから一緒に旅をするのだ。隠し事は一切なし。心配事も、気に障ったことも、何かあったらすぐに言う。それくらいの気概でなければ、やっていけない。そう思っていた節もあったが、この発言はシャーロットの不安の表れだった。
形容しがたい不気味な予感は、こうしている間にも、不快な寒気となって全身に広がりつつあり、先ほどまで、溢れんばかりだった楽しさや嬉しさは、千切れ雲のように散り散りになってどこかに消えてしまっている。そう感じたのは、シャーロットだけではないらしく、少女も服の裾を掴んできた。
「私もよ、シャル。冷気が私たちを包み込んで、楽しさなんて全て忘れてしまえ、と言わんばかりに迫ってくる気がする。まるで、この世から幸せが全て無くなってしまったかのような孤独感――、寒い、凍えちゃいそう」
その言葉にうんうんとうなずくと、シャーロットは、少女をギュッと抱きしめた。それから、二人で寒気がやってくる方角を――森の入り口の方をじっと見つめた。その上でそのまま微動だにせず、息を潜めて見つめ続けていると、木々の合間から何かがゆらり。人影のようなものが現れて、こちらに向かって近づいてくる。
そしてそれは、今にも倒れそうになりながらも、ふらふらとした足取りで二人の傍までやってきて――、最後には地面に倒れ込んだ。
しかし、たったそれだけの情報では、死んでしまったのか、それとも、まだ生きているのかということすらも、二人の方には曖昧にしか伝わってこない。
それに、手頃な枝や棒きれでも、そこらに転がっていたのなら、試しにそれで突っついて生死を確かめることも出来そうだったのだが。生憎手頃な枝はなく、それでいて人影の方にも、全く動く気配がなかったため。
シャーロットはようやく覚悟を決めて、怯える少女に黙ってうなずいてみせると、抜き足差し足で、地面に倒れている人影に近づいた。そして屈んで、顔を覗き込むようにして――、シャーロットの息を呑む声が、森に一際大きく響く。
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それは、同じ城で働いていた先輩たちの部下の女中、そのうちの一人だった。
日々の生活での付き合いは全くないに等しいのだが、何年か前に一度だけ、城の廊下で見かけたことがあるので知っている。
あの時はまだ、住み込み部屋に来たばかりの新人で、急に飛び出してくるもんだから、シャーロットとぶつかりそうになっていた。
しかし、この女中は、突っ伏すように地面に顔を押し付けていて――、シャーロットが近づいてきたことはおろか、誰かが自分に近づいてきていることにすら、まったく気が付いてはいないらしい。それに加えて、この女中は、此方が色々呼び掛けているのに、何の反応も寄こそうとしてこないので、
しびれを切らしてシャーロットは、結局、女中を助け起こそうとした。だが、
「冷たい」
女中に触れた瞬間に、痛みに近いような冷たさを感じ、ほとんど反射的にシャーロットは、差し伸べようとしていた手を引っ込める。
というのも、女中の身体は、まるで真冬の雪山の中で、何時間も立ち続けていたかのように、冷たく冷え切ってしまっていて、熱がまったく感じられない。
それに顔も青白く、死体だと言われて見せられたとしたら、シャーロットが素直に信じ込んでしまうくらいだったのだ。
だが、先ほどまで、不安そうな顔をしながらも少女のことを探してくれていた女中が、こんなに短時間で氷柱のようになってしまうなんて……。
シャーロットはどうにも信じられず、手が張り付いてしまいやしないかと恐れながら、女中の顔をペシペシと叩いた。
しかし、それでも、女中の意識は戻らず、ますます身体は冷え込んでいくばかりなので、どうしたものかと、シャーロットが途方に暮れていると、
不意に少女が隣にしゃがみ込んで、何を思ったのか、グロテスクな見た目のロドラの幼体を、ふん、と二つに引き裂いてみせる。
そして、まだ微かに拍動している塊を手に取ると、大きさを確かめるようにしたあとで、女中の口に無理やりねじ込んだ。すると、
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一回、二回、少し時を置いて三回目。むせるような、それでいて苦しそうな咳が女中の口から聞こえてくる。そして、明らかに大きな塊が喉の辺りを通過したと、喉の動きからそう分かったところで、女中はうっすらと目を開けた。
そこでシャーロットは、後ろから抱きかかえるようにして、片方の腕を女中の背中に回し、もう片方で、女中の視界の前で手を振りながら、女中の反応を確かめる。
そうすると、女中の瞳孔が大きく開き、それから収縮していって、それを目にしたシャーロットは、ようやく正気に戻ったのかと安堵した。
一方、女性は、肩を貸そうとするのを断って、自分で立とうとしていたのだが、途中でバランスを崩してしまい、内股すわりの態勢になっていた。
それに応じてシャーロットも、屈んで、目線を合わせようとしたのだが、
「追いかけてきたの?」と、どうしても、言葉の勢いは強くなる。
だが女中は、寒さで口がきけなくなってしまっているのか、それとも喋りたくないだけなのか。シャーロットが何を聞いても同じ風に、横に首を振るだけであり。
その曖昧さ加減に、ついついイライラが募ってしまって、
「何か言ってくれないと分からないじゃない!」と、シャーロットが怒鳴りかけてしまった丁度その時。女中の口から、物凄く小さな声が聞こえてきた。
「……違う。……違うの」
聞こえてくるのは、消え入りそうなほど弱々しくかすれた声。だが、その代わりに女中の眼が、危険を伝えようとする強い意志を、二人に感じさせた。
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「逃げ……て……」
事切れるようにそう言うと、女中はガクリとうなだれる。
しかし幸いにも、女中はふたたび意識を失ってしまっただけらしく、シャーロットが肩を揺さぶると、自分では意識が飛んでいたことにすら注意がいっていなかったのか。また眼を開き、二人の後ろを震える手で指差すと、何とか言った。
「あいつが……、みんなを……」
その途端、全身の血という血が凍り付いてしまいそうなほど恐ろしい寒気が、また一段と強くなってきた。そして、どこぞの誰かに後ろから視線を浴びせかけられているような、そんな得体の知れない感覚が、またシャーロットの下へと戻ってくる。
ここで振り返ってはいけないと、本能はそう告げていたのだが、シャーロットの顔は既に後ろを向いていた。見上げるような大男。そのシルエットだけが見えている。
すると、声をあげる暇もなく、額の辺りにガツンと大きな衝撃が走った。
殴られたのだ、とそう気づき、ようやく少女を守ろうと思い立つも、全てはもう手遅れに近い。少女と女中とシャーロットと、それから大男の周りには、身体を突き刺してくるような冷たい風が、どこからともなく、吹き付け始めていた。
そして、風は急に勢いを増し、焦るシャーロットの片足を、ひょいと軽く持ち上げる。その上さらに、嘲笑ってでもいるかのように、よろけたところでもう一度。
そのまま転べと言いたげに、強い向かい風が襲ってきて――、抵抗することも出来ぬまま、シャーロットは真後ろの成木まで飛ばされた。
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