第70話 偽善者

 ルーツが見た光景が正しいのだとすれば、ラードルは今もルーツたちを探し続けているのだろう。だから、同じ場所にとどまっているのは危険だ。

 そんな考えが頭をよぎらなかったわけではない。だが、別に移動し続けたからといって危険に晒されない保証はなかった。そして幸い、この場所は暗く、遠目には見えにくい。先ほどのユリのように大声を出すならともかく、小さな声で話している限り、居場所がバレる可能性は低いだろう。

 ただ――、ずっと立ちっぱなしというのは体力の無いルーツには辛かった。長く話すとなるとどうしても、どこかに腰を落ち着けたくなる。だが地面は泥だらけ。座ったら最後、どう考えても、役人に乗車拒否を食らう未来しか見えてこない。というわけで、ルーツは他に座れる場所が無いかと、辺りを見渡した。

「全く、アンタはいっつもわけわかんないんだから。まだ何にも話していないってのに、なーにが、不安が消えてった気がする、よ」

 大きな独り言が聞こえ、ルーツは苦笑いする。そして結局、座れそうな場所は見当たらなかった。腰掛けることだけを優先するのなら、目の前のごみ山に座ればいいわけなのだが、それなら壁に寄り掛かっていた方がまだましだ。

「ねえ」

 どうしたものかと悩んでいると、ユリに声を掛けられる。どうせ愚痴の続きだろう。ルーツは期待せずに振り返った。

「時間取らせないでよ」

 予想通り、ユリが口にしたのは文句だった。だが――、

―――――――――469―――――――――

「お時間ありますか?」

 ユリの言葉に被さるようにして、どこかから、今にも途切れそうな声が聞こえた気がした。

「出来ればで良いんですが、お願いしたいことがあるのです」

 気のせい……だろうか。そういえば、耳の掃除を、長らくやってもらっていなかったと、ルーツは小指でグリグリと耳をほじる。だが、その直後聞こえた足音に、ルーツは自身の認識を改めざるを得なくなった。見間違えではない。ユリの後ろに、小さな影があった。


 ペタペタという足音とともに、暗い路地の奥から、ユラリとした何かが近づいてくる。距離はそんなに遠くない。走ればものの五秒とかからず、追いつくことが出来る距離。だがその、大股なら数歩の間隔が遠く感じてしまうほど、人影が放つ声はあまりにも小さく、ルーツは上手く聞き取れなかった。

 ルーツの視線の行方に何かを感じたのか、ユリも後ろをくるっと向く。背中越しでは、その表情はうかがえない。ルーツに見えている光景が幻覚なのか、果たしてそうでないのか。ユリの反応を確かめたくて、ルーツはうずうずしたが、その心配は一瞬にして終わった。

―――――――――470―――――――――

 私は何も見なかった、とでも言いたげにユリが即座に振り返る。その右手がぎこちなく、人影の方を指差したのを見て、ルーツは何度も首を縦に振った。

「ユリ、何か居るような気がするんだけど……」

「奇遇ね、私もよ」

 そう言うと、二人して息を吐きだす。

「良かったあ、今度こそ幻覚かと思ったよ」

「そうそう私も、あんなこと言っといて、ほんとに幻覚見てたらどうしよう……って、問題はそこじゃないと思うんだけど!」

 ルーツにつられたユリが突っ込みを入れるとともに、濡れた素足で家の中を歩きまわっているようなペタペタ音は止まった。

 影がルーツたちの眼の前で形を変える。ちょうど腰の辺りで、折れ曲がったように半分くらいの大きさに縮んだ影の前で、二人は口をぼけっと開けたままただ立ちすくんでいるだけだった。光が差し込んでこないとは言え、今は昼。これだけ近づけば、人影の正体は誰にだってわかる。

「私を買ってください!」

 ルーツたちよりずっと小さな少女。ルーツの肩ほどまでしかない白髪の少女が、二人に頭を下げていた。


―――――――――471―――――――――

「これが、アンタが恐れてた何かなの?」

 そう言ったユリに、そんなわけないだろうと、ルーツは無言で首を振る。

「お姉ちゃんたち、買ってくれないの?」

 目の前の少女は衝撃的な言葉を放ち、ルーツに軽い眩暈を覚えさせた。

 枯れ木のようにカサカサして、水気のない細い手足。まるで宿屋の老婆のように痩せこけた頬に浮き出ている頬骨。そして、身に纏っているのはボロボロの毛皮。

 路地裏の衛生状態が悪いのか、それとも少女自体の衛生状態が悪いのか。少女の頭には、羽虫が集っていた。プーンという耳障りな音が、ルーツの周りを巡って止まる。だが、少女は虫を振り払おうともせず、そのままにしていた。すると、一匹の虫が少女の鼻の中にゴソゴソと入っていって――。はじかれたように、ルーツは少女の元へと駆け寄ると、虫を追っ払った。ぼんやりとした目が、ルーツを見上げている。

「買ってください。お願いします。他にもいい品が揃っています」

 感情の籠っていない無機質な声。いや、カタコト。と言った方が正確なのだろうか。何も考えていないようなポカンとした顔から言い放たれる言葉は、少女の身なり以上に不気味だった。

―――――――――472―――――――――

「ねえ、この子――」

 そう言ったユリを押さえ、ルーツは少女の目線にまで腰を落とす。

「此処で何してるの? 他に誰か……友だちとかと一緒じゃないのかなあ」

 それは、自分でも気持ち悪くなるような、甘ったるい声だった。

 だが、今ばかりはしょうがない。

「ううん、でもお父さんならいるよ。……それより、お客さんなんでしょ? 私、もしお客さんが来たら連れてきなさいって言われてるんだけど……あっ! じゃあ、買ってくれるんだ。お兄ちゃん、ありがとう!」

 少女は、そう独り合点すると、無邪気な声とともに、此方の手を握ってくる。

 けれど、その指は、本当に血が通っているのか疑いたくなるほど冷たくて、手のひらには固い豆のようなしこりが幾つも出来ていた。そして、今にも折れてしまいそうな頼りない感触が伝わってきて、ルーツの顔は悲しみに歪む。

「……ねえ。かかわりになるのは、やめときなさいってば。何かおかしいわよ。こんなところに、親が子どもを一人で残して行くわけないし」

 ユリは少女を直視できないと言った様子で、目を細めたまま、ルーツに警告した。確かに、ユリの言うことは正しかった。普通、親は子どもを目の届かない場所に一人残して、どこかに行ってしまったりはしない。日の当たる明るい庭先ならまだしも、こんな暗い路地なら尚更だ。だがそれは、普通の親であったらの話に限られる。世の中には、森に子どもを捨てる親も、一歳にも満たない我が子を見捨てる親も、そして子どもを孤児に、奴隷と同じような境遇に落とそうとする酷い親もいる。そのことを、ルーツは身をもってよく知っていた。

―――――――――473―――――――――

「いつもこうやって、お客さんを呼びに行ってるの?」

「ううん、今回が初めて。あんまりにもお客さんが来ないから、暇だーって言ってたら、お父さんが怒っちゃって。そんなに暇ならお客を探して来いーって言うから、此処まで探しに来たの」

 少女は不思議そうな顔をして一瞬考え込んだが、しばらくすると思いついたように言った。だが、一言目と違って、少女の言葉は、ルーツのそれと変わらないくらい流暢で、感情が抜け落ちているわけでもない。それが意味するのは一つだった。

 最初の言葉は、誰かに言わされたものだった――。

 瞳が燃えた。そう感じるくらい目の奥が熱かった。少女は父と一緒に居るという。ということは、先のセリフを覚えさせたのは、少女の父親だということだ。

「さっき言ったこと――」

 怒りのあまり、自然と語調が荒々しくなった。

 顔を上げれば、少女が委縮しているのが伝わってくる。

「あー、買うとか、お客……とかは、お父さんが考えたことなの?」

 何とか優しい口調に戻そうと試みた結果、少女は小さく頷いた。

「ユリ、決まりだ」

「何のこと言ってんのよ?」

 ユリは無関心と言った様子で、少女の方を見もしなかった。面倒くさそうに腕を組んだまま、壁に背中をもたれ掛からせている。

―――――――――474―――――――――

「何って――」

「まさか、アンタ。この子が身売りしてるって考えてるんじゃないでしょうね?」

 ユリに思っていたことを先回りされ、ルーツは口をつぐんだ。

「どうせ、可哀そうな身なりの子どもを見て、自分と境遇を重ねたんでしょうけど。だからって、どうしたっていうの?」

 ユリはいつにもまして素っ気ない。そしてそれは、義憤に駆られていたルーツをいつになく苛立たせた。

「でも、自分を買えって言ってるんだぞ。こんなに小さい子が!」

「さあ、本当にそうかしら。そんなの、主語が少し抜けちゃっただけなんじゃないの? 幼少期にはよくあることよ」

「私、お父さんの言ったこと、ちゃんと全部覚えたよ!」

 自分の手際を批判されたと思ったのか、少女がルーツたちの会話へ割り込んできた。だがユリは、少女を一切無視して、話を続ける。

「百歩譲って、そうだったとしても、この子が私たちと何の関係があるの? この子は、たまたますれ違っただけの赤の他人じゃない」

「だとしても――」

 だとしても、何なのだろう。ルーツは記憶の中で見た、劇場の舞台のような場所を思い出していた。観客席の大人たちの姿。悪意ある彼らの歪んだ笑みが、頭の中にじんわりと浮きあがってくる。

 『買う』

 少女のその言葉が、あの時の光景を思い出させているのは間違いなかった。

―――――――――475―――――――――

「アンタ、自分では気づいてないでしょうけど、相当カッカしてるわよ」

「してないよ!」

 そう言ったルーツの鼻息は荒い。

「でも、親が子どもをそんなふうに扱っていいの?」

「どうでもいいでしょ、他人の家庭の事情なんて。どうせ、私たちに口を出す権利なんてないんだし。だいたい、何でそんなに気にするの? それより時間がもったいないから、アンタが見たことについて早く話して欲しいんだけど」

「そんな言い方ないだろ!」

 手に固い感触が伝わった。それから、痛み。

 どうやら思わず壁を殴りつけていたらしい。歯をむき出しにしているルーツを見て、少女が怯える。だがユリは、呆れた顔で肩をすくめるだけだった。

「……アンタ、やっぱり妄想の中にいるみたいね」

「その事についてはもう、十分に確かめたはずだろ! それにユリだって、さっきは僕が言うことも一理あるって――」

「言ったかもね。……だけど、場当たり的な判断で、衝動的に動くことしか出来ないのなら、妄想に囚われてるのと変わんないんじゃない?」

 言い合いでは勝てない。

 そう思ってしまうほど、ユリの表情は硬く、崩れなかった。出所の分からない怒りに震えるルーツとは対照的な、感情に左右されない冷たい声が続く。

―――――――――476―――――――――

「私は別に、アンタが言おうとしてたこと自体を否定したいわけじゃないわ。見た目だけで判断するのは危険だけれど、確かにこの子は可哀そうだし。

 服もボロボロ、明日の食べるものにも困っている。うん、私もアンタと同じ考えよ、助けてあげたい気分にはなる」

「じゃあ――」

 だが、発言とは裏腹に、ユリはルーツを睨みつけていた。戸惑うルーツに追い打ちをかけるかのように、続けて言葉が吐き捨てられる。

「でも、実際には助けないんでしょ、この偽善者」

 その強烈な言葉に、ルーツの時間は暫し停止した。


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