第十三章 妄想と現実
第68話 可哀そうなものを見る目
「離して」
逃げなければ。
「離し……てってばあ」
誰も見つけられないような所へ、もっと奥へ。
「離し……なさい!」
視界が回転する。突き飛ばされる感覚を背中で味わったルーツは、そのまま冷たい地面を転がった。右足を、茶色く濁った水が濡らしていく。
ここは、通りの裏の裏。光も届かない暗い路地裏。いつ出来たとも知れない水たまりの飛沫を受けて、ルーツの靴下は茶色に染め上げられた。
「アンタ、何なのよ! さっきから!」
ルーツを見下ろしているのは、ユリ。ユリだけだ。ルーツはユリに突き飛ばされたことを悟った。すると、おもむろに手が差し出される。だが、ルーツが掴もうとするや否や、ユリは身体を強張らせ、手を引っ込めた。
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「いったいぜんたい、どうしたっていうのよ?」
ユリのその言葉には答えず、ルーツは大きく息を吐くと、大の字になり上を見上げた。ここは、建物と建物の間が異常に狭い通り。ゴミも多く、空気も淀んでいる。もし火事でも起ころうものなら、ここら一帯はたちまち火の海になるのだろうが――、今だけは一番の安全地帯だ。青い空は欠片さえ見えてこなかった。此処なら流石に、すぐに見つけられることは無いだろう。
ラードルの鬼気迫る顔、背中に詰め寄る足音、そして足元を焼き焦がした魔法。こうして寝転がっていると、動悸が収まり、逃げている最中には感じていなかった震えが、少し遅れてルーツを襲ってきた。
しかし、それは恐怖によるものではない。逃げてやったという実感が段々湧き上がってくるとともに、ルーツの顔は綻んでいく。
「アンタ、何? 何で笑ってるの?」
そんなルーツを、ユリはなぜか恐怖を携えた顔で見つめていた。
両手を胸の前で握りしめ、不安げに揺れる眼差しをありありと浮かべ――、ルーツが立ち上がろうとすると、半歩ほど後ずさりして、自分の背後を確認する。
「……そんなに、カルラのことが嫌だったの?」
何かがおかしかった。
「……言ってくれれば、いつでも話を切り上げたりしたのに!」
それは、期待していた反応とは、明らかに異なるものだった。
「……アンタがいつまでも、むすっと一人で黙りこくってるから、私が代わりに相手してあげてただけじゃない!」
形はどうであれ、一応ユリの危機を救った気でいたルーツは、ユリの掴みどころの無い言葉に困惑する。
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「ユリ、何言ってるの? ちっとも言ってることが――」
「わけわかんないのはアンタの方でしょ!」
突然、振り絞るように大声を出したユリを見て、ルーツが慌てたのは言うまでもなかった。いくら空から見えずとも、音を聞くことは出来るのだ。
「こんな暗い道まで引っ張ってきて、いったい何を――」
ルーツは、怒り口調のユリを壁に押し付けると、碌に説明もせぬままに、両手で無理やり口を塞いだ。そして、荒い息のまま首を動かし、周囲の音を耳で探る。
しかし、いくら耳を澄ませても、遠くから歓声のようなものが聞こえてくるだけで、足音や何かが擦れる音は聞こえてこない。そして、ラードルらしき声なども、まったく聞こえてこなかった。
その代わり、両手の下では、口がもごもごと動いていた。一発、二発。お腹に重い衝撃がやってきて、膝蹴りを入れられたことがなんとなく伝わってくる。だが、きっとユリなら、後付けの説明でもわかってくれるだろう。そう考え、もう大丈夫だと安心しきるまで、ルーツは手を離さないでいた。
「良かった、誰もいない」
だが、ユリに向き直ったルーツはギョッとした。ユリが涙目でこちらを見ている。ルーツが手を引っ込め、後ろに飛びのいてオロオロしていると、ユリは何度か息苦しそうに咳をしたのち、キッとした目でルーツを睨んだ。しかし、その瞳はすぐに揺れ出し、ユリは腰が抜けたように座り込んでしまう。
「やめ、アンタ……なんなの? 怖いよ、嫌。帰りたい」
ユリは手の甲で、幾度となく目頭を拭っていた。
けれど、それでもルーツは、自分の正当性を信じていた。だが、大きな瞳から涙がこぼれ落ちてきたのを見て、ルーツは途端に罪悪感に苛まれる。
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「あー、急に口を塞いだのは悪かったよ。……でも、気づかれて追ってこられてたら、今ごろもっと困ってただろうからさ」
「いったい何が追ってくるっていうのよ。アンタが勝手に、居もしないものを懼れているだけじゃない! そんなことに私を巻き込まないでよ!」
ユリの言葉は涙交じりで、うまく聞こえなかった。ただ、その目つきで、非難されていることだけは分かった。在らぬ罪まで着せられている。そんなやりきれない気分になり、ルーツは足元にあった小石を蹴り飛ばす。
「僕も散々、ユリに迷惑かけたから言える立場じゃないことは分かってるけどさ。今回ばかりはユリも悪いだろ? だいたい、ユリがあの三人に、自分の名前を教えなければ、こんなことにはならなかったのに」
「だから、何回言ったら理解してくれるの! 私は、カルラとカネルと話してただけじゃない! そこに、アンタがいきなりズカズカやってきて、カルラを突き飛ばした挙句、逃げるとかわけわかんないこと言って、私を連れてったのに……これのどこに私の落ち度があるって言いたいの! 妄想は自分の中だけで完結させといてよ! アンタ、遂に幻覚が見えるようになったんじゃないの!」
ルーツの言葉に、ユリは逆上し、一気にまくし立てた。
「もう最悪。アンタのせいで……泣き顔は見られるし……カルラに謝らないと……」
そしてユリは、そう言いながら、元来た道をとぼとぼと戻り出す。
ありもしない事実を見てきたように語られたルーツは、しばしの間、呆然としていた。が、自分を取り戻すと、ユリに駆け寄った。
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「付いて来ないで!」
「僕がおかしかったのは認める。でも、いま戻っちゃいけない。あと少しだけでいいから、此処で大人しく待っててよ。それに謝るって言っても、あいつパーティーだとかなんとか言ってたから、もう見つけられっこないって!」
強い声に、挫けそうになるが、はっきりと言う。ユリは嫌悪感丸出しで、ルーツの言うことなんて聞きたくも無いといった様子だった。が、パーティーのくだりになると、胡散臭いものを見る顔でルーツを見た。
「何、パーティーって。それにアンタ、一度もカルラと話したこと無いくせに」
「ん? このあと、街の人を集めて開くって、カネルって子が言ってた気がするんだけど……。それに去り際に、ユリ、誘われてたじゃん。一緒に行かない? って」
ルーツがそう言うと、ユリはいよいよ、不審なものを見る目になった。
「……アンタ大丈夫? 去り際って、そもそも去るも何も、アンタが強引に連れ去ったんじゃない! 自分で覚えてないの?」
「覚えてないのって……そんなこと、そもそもやってもいないよ。それに、パーティーのことは、カネルだけじゃなくて、ラードルも言ってたじゃんか!」
「……あきれた。ついに、人物まで創作するようになったのね。これはもう……なんか、怖いを通り越して、笑えてきた気がするわ。どこまで行くのか……その前に頭が壊れちゃわないことを祈っといてあげる」
ルーツがラードルの名前を出した瞬間、ユリはくすりと笑った。しかし、機嫌が少し治った様子のユリを見ても、ルーツはちっとも嬉しい気分にはなれなかった。ユリの気分とちょうど逆を行くように、ルーツの表情はどんどん暗いものになっていく。
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「……ユリ。それ、本気で言ってるの?」
「本気も何も、アンタこそ本気で言ってるの? 見かけによらず随分と想像力が豊かなのね。ここまで来ると、その手の職を目指した方が良いんじゃない?」
衝撃が全身を駆け抜けた。ユリはこの一連の流れを一切覚えていない。それどころか――。
雷に打たれたような顔をしているルーツを一瞥し、ユリは今度こそ来た道を戻ろうとしていた。
「それじゃあ、謝りに行くわよ。でも、アンタからもちゃんと謝ってね。いくら幻覚が見えていたって言っても、突き飛ばしたことには変わりないし、カルラたちにはそんな事情、まったく関係ないんだから」
それどころかユリは、ルーツと全く異なる光景を見ていたかのようだった。
「じゃあ、僕が三人のうちの一人! 名前はわかんないけど、女の人を殴ろうとしたことは! この時に、カルラは僕に怒ったんだ。それくらいは覚えてるでしょ?」
必死に言い寄るルーツに、ユリは面倒くさそうな顔を向ける。
「……は? アンタそんなこと考えてたの? 妄想の中なら思い通りになるからって、さすがにそれはないんじゃない?」
軽蔑した目がルーツを見返していた。
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「それは無いよ、だって確かに僕は見たんだ! それにユリだって、僕の代わりにとか言って、勝手に謝ってたじゃないか!」
「だ・か・らー。私を、アンタの妄想の中の登場人物にするのは止めてって言ってるじゃない。殴るわよ」
取り付くしまもなかった。冗談で言っているのではない。ユリは本心から、ルーツの言葉を全て妄言だと信じているのだ。そう気が付き、ルーツは青ざめた。
「じゃ、じゃあ、ユリがラードルに、六年にならないと使えない魔法を見破ったことを指摘されて、連れていかれそうになったことは? だから僕は助けようとしたのに、ユリはそれも全部嘘だって言うの!」
「何を言ってるのか、よく分かんないけど、嘘だとは言ってないわよ。アンタの妄想の中では、それは本当のことだったんでしょ?」
可哀そうなものを見る目で見ないで欲しい。そんな眼で見つめられると自分が本当におかしくなってしまったような気がしてくる。
「魔法を撃ちこまれて、必死によけて逃げたのに!」
「アンタの足の遅さを考えれば、逃げきることなんて到底不可能だと思うけどね。それに魔法が、そう何発も都合よく外れるわけがないじゃない。妄想の中だったから、そんなに都合よくことが進んだのよ。いい加減、目を覚ましなさい」
違う、そんなわけが無い。
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「おかしいのは僕じゃない。ユリの方だ。僕じゃなけりゃ、ユリが――」
「アンタじゃなく私が幻覚を見てたって言いたいの? でも、精神的に参ってたのはアンタの方でしょう。どうして健康な私がそんなもの見ないといけないのよ?」
ユリの言うことには説得力が有った。対してルーツは、何の証拠も持っていない。この状態で、ルーツの肩を持ちたくなる人はあまりいないだろう。
そう考え、拳を震わせてうつむくルーツに、ユリは一つため息をつくと、慰めるようにして、肩に手を置いた。
「……まあ、そんなときもあるんじゃない? 私もつい、カッとなって怒っちゃったけど、そこまで気にしてるってわけじゃないし、それだけで嫌いになんてならないから。……うん。村に戻って落ち着いたら、幻覚もきっと治るわよ」
別に大嫌いだと言われても良かった。そんなことより、ユリが言ったこと。その方が問題だった。今までルーツが見てきたことが全部幻覚である。そんなはずはない。自分の身体だ。確かにユリとリリスが重なって見えることはあるが、それ以上のことは無いということは自分が一番分かっている。だが、
――比べてごらん、あんなに毅然としているユリとお前を。どちらが正しいのかは丸わかりだろう?
自分を信じきれない別の自分に、同じようにして責め立てられると、ルーツは弱かった。本当に自分は正常なのだろうか。本当に幻覚を見ていたのかもしれない。もしそうだったとしたら、これ以上反論するのは恥の上塗りでしかない。
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「ほら、早く行くわよ!」
気が付けば、ユリはいつもの態度に戻っていた。そしてルーツの足は、いつもの通り、勝手にユリに付き従う。
この七日間、いや、ユリに出会ってから今に至るまでずっと、ルーツはユリに助けられてきた。いつでもルーツはユリに頼りっきりで、ユリの言うことだけ聞いていれば、ユリの作戦を実行すれば今まで上手くいってきた。だから、今回も――。
だが、もしルーツの見てきた景色こそが真実だったとしたら。
ユリに大人しくついて行こうとしているルーツを何かが止めた。
一方ユリは、立ち止まっているルーツに気づかず、スタスタと歩いて行く。その後ろ姿が、また赤髪の少女とダブり、ルーツは何度も目を擦った。
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