第十章 灰色の記憶
第48話 全ての疑問が解ける気がした
白い部屋。人々の忌まわしい記憶が、自動で保管されるという謎の部屋は、ルーツが想像していたより格段に広かった。
両脇に並ぶ、天井に届きそうな棚の一つ一つには、記憶が閉じ込められた紙が、何百枚、何千枚。無数の紙が、無理やり押し込まれたように、敷き詰められている。
「この部屋って、いつからあるんですか」
「分からん。私が役所勤めを始めた時には既にあった。記録も残っていない。ひょっとすると、我々には想像もつかないような大昔から、存在していたのかもしれん」
役人は、明確な意思を持って歩いているようだった。曲がり角で迷うことも無く、一定のペースでキビキビと、ルーツの前を進んでいく。
「しかし、この部屋が、記憶でいっぱいになった試しは無い。不思議な事だが、記憶の持ち主が死んでしまうと、紙は自然に消えて無くなってしまうのだ。だから、此処にある記憶というのは、大方が最近の物だ。それでも、これほどまでに量がある。昔も今も、そして未来も、不幸になる者が絶えることは無いのだろう」
そう言いながら、役人は立ち止まり、とある棚を指差した。ルーツは今まで気づいていなかったが、全ての棚の隅には、小さな字で何かが記されているようだった。
『旧リーン市街における、魔法爆発による負傷者リスト』
役人が指差す、棚の上部には、そんな言葉が彫り込まれている。
―――――――――320―――――――――
「空っぽだ……」
「いや、よく見ろ。まだ数枚残っている」
口ごもったルーツに、役人は言った。
その言葉の通り、空っぽだと思った棚には、確かに数枚ではあったが、紙が残されていた。二枚。いや……、もう一枚。他の棚に比べれば量は少ないが、痛みというのは量ではない。この一枚一枚にも、多くの苦しみが詰め込まれているのだろう。
そう考えていたルーツの眼の前で、紙の枚数が明らかに増した。……十枚、二十枚。棚が急速に、紙で埋め尽くされていく。
「紙が……一気に!」
「一時的な痛みで、枚数が増えることはある。だが、それはあくまで、一時的なものにすぎんのだ。軽い傷や治る病気は、さきほど君が経験したような、記憶に残り続ける苦しみには成り得ない。放っておいてもそのうち消える」
度肝を抜かれたような声を出すルーツに、役人は事もなげに言った。それから役人は、また歩き出した。詳しく説明をしてくれる気はないようで、さっさと一人で進んでいくと、棚の陰へと、見えなくなってしまう。
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が、ルーツはそれほど急ぐ気にはなれなかった。役人は、しきりに先を急いでいるようだったが、ルーツとしては、もっとゆっくり歩いて欲しい。それに、出来ればユリと見て回りたいというのが、今のルーツの本音だった。
けれど、こんなところで迷子になってしまってはたまらない。
そう思い直し、ルーツは急いで後を追いかける。
だが、行く道の先に役人は居なかった。そして、辺りを見渡しても。すぐ前を歩いていたはずの役人は、影も形も見当たらない。
進退窮まったルーツは、大声で助けを求めた。しかし、役人はやってこなかった。それどころか、返事を寄こしてくれる気配もない。一分余りが経っても、部屋は静まり返ったまま。相も変わらず、沈黙に包まれている。
仕方なく、ルーツは役人を探して歩き出した。大声で役人を呼びながら、部屋の奥へと進みだした。けれど、思えばこの時に、素直に引き返すべきだったのだろう。引き返して、入り口で役人を待つべきだったのだろう。
手探りで進めば、来た道は分からなくなる。そして、進めば進むほど、入り口からは遠くなる。そのうえ、気づいたときにはもう遅い。
ふと、後ろが気にかかり、ルーツは後ろを振り返った。自分はどこを歩いてきたかと、その場で立ち止まり考えた。この時には、既にもう、ルーツは道に迷っていた。そして、帰り道どころか、自分が一体どの方向に進んでいるのかさえ、まったく分からなくなってしまっていた。
此処の角を、右に回らなければならなかったのだろうか?
そう思ったルーツは、首を傾げながら、右へ回った。そして、次の角では右。その次の角でも、右。もう一つ次の角でも、今度は自信たっぷりに右へと回る。
すると、なんだか見覚えのある場所に出たような気がした。もう少しで入り口かなあ、とルーツは考えた。だが、その根拠はどこにもなかった。
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だけど、仮に当てが外れていたとしても――
どうせ、此処は部屋の中なんだから。適当に歩けば、いずれ壁に突き当たるだろう。そうしたら、壁を伝って、とにかく扉まで辿り着けばいいんだ。
ルーツは当初、そんな甘い考えでいた。しかし、歩けども歩けども、部屋の壁は見えてこない。しばらく歩いたところで、ルーツはようやく、この部屋に何らかの魔法が掛けられている可能性に気が付いた。
「迷った……」
途端に自信が崩壊し、その場に立ちすくむ。天井や床を見るが、抜けられそうな箇所は見当たらなかった。また、四方を見渡しても、どこも真っ白で見分けがつかない。そして、諦めがちに後ろを見た、ルーツの眼に飛び込んできたのは予想通り。同じ光景が、地平線の彼方まで続いている様子だった。
ルーツは思わずへたり込んだ。口から自然に、大きなため息がもれてくる。
僕以外に、此処で迷った人はいないのだろうか。迷う危険があるのなら、矢印ぐらい、設置してくれても良さそうな物なのに。
そう思いながら足元に目を落とす。すると、一番下の棚には、
『アルデラ家の災難』
そう書かれていた。
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駄目だ。短くてもこれ以上、覚えていられる気がしない。そう思い、顔を挙げたルーツは、目を何度かグリグリと擦った。そして、両目をぱちくりさせた。……というのも、なぜか一瞬、部屋の奥の方が、なんだか少し薄暗く見えたのだ。
目をかっぴろげて、もう一度、じっくり見る。
いや、確かに薄暗かった。でも、それならどうして、先ほど振り返った時には気が付かなかったのだろう。ルーツは不思議がり、立ち止まって考えた。
すると、通路の奥が、みるみる黒みがかっていって――。ルーツの身体に悪寒が走る。気が付かなかったのではない。見落としていたわけでもない。この薄闇は、今まさに、ルーツがいる方に向かって迫ってきているのだ。
そう気づくとともに、闇が大きくなってくる。部屋が薄闇に呑まれていく。つい先ほどまで、真っ白だった前方は、既に意識せずとも暗かった。しかし、完全に真っ暗というわけでもない。奥の方から変わっていったため、気が付かなかったが、黒というより、寧ろこれは灰色――。
あまりに急のことで、どうすることも出来なかった。逃げるどころか、動くことすらままならなかった。危険かどうかも分からないでいるうちに、薄闇は、ルーツの身体を通り抜け、ルーツの背後へと過ぎていった。
何も見えない。いや、それは瞼を両方とも閉じてしまっているせいだ。そう気づいたルーツは、ほっと小さく息をついた。そして僅かに目を開く。
意外な事に、ルーツの身体は何ともなかった。不可思議な薄闇は、何らかの影響を及ぼしたわけではないようだった。手も足も、お腹も胸も。自分の身体の色は、どこもかしこも変わっていない。もちろん、身体のどこかが痛んでくることも無い。
だが、周りの壁は、棚は。紙は、記憶は。全て一緒くたに、灰色に染まっていた。そして、天井も床も、燃え殻のような薄墨色。
何の気なしに下を向くと、先ほどと同じように、一番下の棚に注意が行った。そして、そこに収納されている記憶の名称が、ルーツの視界に飛び込んでくる。
―――――――――324―――――――――
「オーローダの受難と、その生涯」
以前の表示を、正確に覚えているわけではなかった。だが、その名称は明らかに、以前とは違うものになっていた。そのうえ、近くの棚を探っても、周囲の棚を見渡しても、ルーツが覚えた目印は、どこの場所にも見当たらない。
今朝の王都の壁のように、ルーツが移動したのか、それとも部屋が移動してしまったのか。どちらにしても、入り口から遠ざかってしまったのは、確かなようだった。
そして、それだけでも、ルーツが塞ぎ込むには十分だったのだが……。帰り道の心配とはまた別に、ルーツは今、もう一つ、重大な不安を抱えていた。
『先ほど、部屋が灰色に変わった時から、無性に寒い』
服を重ね着すれば何とかなる。そんな肌寒さとはまた違う、心の底から冷え切ってしまうような悪寒。ひどい冷気が、ルーツの中に入り込んできていた。
息を吐いても意味はない。身体を縮こまらせても効果はない。寒さは一層激しくなって、まるでルーツに襲い掛かってきているような気がする――。
――パタン。
とにかく、立ち止まっていないで歩き出そう。そう考えていたルーツの耳に、気がかりな音が聞こえてきたのは、その時だった。それは、一枚の紙から生じた落下音としては、あまりに大きな音だった。が、ルーツの後ろ。どこから落ちてきたのかは分からないが、床の上にあったのは、ペラペラの紙が一枚だけ。
寒さはますます酷くなってくる。ルーツは、震える手でそれを拾い上げた。
―――――――――325―――――――――
『孤児』
そこに載っていたのは、そんな言葉だけだった。白い紙には、ルーツが今、一番気にかかっている言葉が、とても小さな字で書かれている。
いや、正しくは『書かれてあった』と言うべきなのだろう。
なにせ、ルーツが見ているそばから、文字はどんどん薄くなり、最後には、紙に吸い込まれるようにして消えていったのだから。
どうして、この紙だけが、勝手に棚から落ちてきたのか。
ルーツは少しも不思議に思わなかった。この部屋は、魔法の部屋なのだ。部屋の色が移り変わる前ならともかく、今なら、何が起こっても驚く気がしない。それより、問題なのは、紙に書いてあった『孤児』という言葉だった。
文字が見えたのは一瞬だった。だが、それだけで、手紙を目にした時の感情が、ルーツのもとに戻ってくる。沸々とした怒りと、悲しみ。困惑と当惑。しかし、先ほどまでとは違い、そこには、奇妙な冷静さが加えられていた。ルーツはようやく、此処に来た目的を見出したような気がした。
――そうだ、これだ。僕はこれを見に来たのだ。
手紙を見た時から、ずっと疑問に思っていたことがあった。
――孤児になったらどうなるのか。
『孤児』
その言葉にまとわりつく、誰からも見捨てられるという負のイメージに、ルーツは漠然と恐怖を感じていた。だが実際、孤児がどういう待遇を受けているのか。ルーツはまったく分かっていなかった。
―――――――――326―――――――――
――もし、この紙が本当に、孤児の記憶を、映し出した物だというのなら――
記憶が、この部屋に存在している以上、やはり孤児の待遇は、良いとは呼べない物なのだろう。だが、不幸せかというと、必ずしもそうとは限らない。
だって、そうだろう?
幸せか、そうでないかを決めるのは、あくまでその人次第なのだ。
例えば――。仮に王侯貴族が、いきなり孤児になったとしたら?
そんなケースなら、絶望するのも無理はない。が、毎日の食べる物にも困っている人にしてみれば、孤児の待遇というのは、意外と悪くない物なのかもしれない。
村長は何を考え、僕を孤児の立場に落とそうとしたのか。目の前の紙を破っただけで、全ての疑問が解ける気がした。ひょっとすると、差別を受けている村で暮らし続けるより、まだましだと思ったのかも――。ルーツの意思を無視したのは許せないが、それだったら、何とか許す事も出来そうな気がする。
相変わらず手の震えは止まらなかった。今や悪寒は全身にわたっていた。そして歯もカチカチと鳴り、思考を妨害する。だが、今度はためらわなかった。ルーツは勢いよく、紙を破り捨てる。
生まれた隙間から、文字が蠢いているのが見えた。紙から解き放たれた文字が、一目散に突進してくるのが見えた。破り方が違ったせいなのか、それとも、記憶の量が違うせいなのか。文字の量は、一度目とは比べようがないほど多かった。
そして――、
『灰色の部屋と、回る世界。大量の文字と、破けた記憶』
それが、十一歳のルーツが目にした、最後の平穏な状景となった。全てが文字に覆われたのを境に、ルーツの視界は再び暗転した。
―――――――――327―――――――――
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