第46話 世界は暗転した

 宿屋から一歩踏み出した。

 その時には、ルーツは既に、一人で外に出てきたことを後悔していた。

 明るい光の中にいたルーツの目は、暗い夜道に慣れていない。

 酒に呑まれたようなおぼつかない足取りのせいか、それとも、足元の視界がよくないせいなのか。ルーツは役所に着くまでに二回転んだ。

「ルーツ。編入試験のため訪問。認証済み。入れ!」

 相変わらずぶっきらぼうな機械音が、ルーツを出迎える。

 役人は、先程見た時と、さほど変わらぬ様子だった。雑誌に目線を落としたまま、手持ち無沙汰に足を組み、同じ姿勢で固まっている。

 そして、その机の上には、お菓子の粉や、何かの生地らしき食べかす。それに、不潔な垢やらフケやらがボロボロとこぼれて、小さな山を作っていた。

「……えーと、」

「あ――、何だ。君か。何か用かい?」

 人が目の前に立ったことで、雑誌に影が出来たのか、役人は一瞬眉を吊り上げた。が、ルーツの存在に気が付くと、大きく息を吐き、わざとらしく顔をほころばせる。

 役人なりに、初対面で失礼な事をした負い目を、少しは感じているのだろうか。そんなことを考えながら、ルーツはうんと、軽くうなずいた。

―――――――――303―――――――――

「すいません。えーと」

 そこまで言って、聞きたいことなんて何一つないことに気がついた。

 ルーツはただ、お喋りがしたかっただけだったのだ。誰でもいいから。話していると、少しだけだが気がまぎれるのだ。

「何か……できるだけ、多くのことが知りたいんです」

「はっ? 気でも狂ったのか?」

 当然、質問は漠然としたものになり、役人は、ルーツの煮え切らない態度にイライラしたように言った。

「此処は盗品管理の部署だぞ? 頭がおかしくなったのなら、入り口の所にあった呼び鈴を鳴らせ!」

「王都とか、半獣人とかについてもう少し……」

 ルーツは、頭に浮かんだ言葉を適当に並び立てた。

 そもそも何かを知ったところで、村長が、ルーツを裏切る手紙を書いていたことに変わりはない。役人と喋るにつれ、物の判断がつかなくなっていた頭は冷めていき、ルーツに、こんなところで話していても仕方がないと諭してきた。

 が、ルーツは気が付かないふりをした。

「助けてやれよ、どうせ暇なんだしさ」

 確かルイスと言っただろうか。隣の男が役人を小突く。

「ちっ、しょうがねえな。今回だけだぞ」

 すると、ルーツの予想とは裏腹に、役人は舌打ちをしながら立ち上がった。

―――――――――304―――――――――

「ついて来い」

 そういうと、カウンターを飛び越え、誰も歩いていない螺旋階段を上りだす。

「そういえば……髪がやけに綺麗だった――、女の子は一緒じゃないのか?」

 役人の質問にルーツは答えなかった。いま、ユリのことを考えたら、本当に帰りたくなってしまいそうだった。

 そうしていると、役人は意味ありげな顔つきで、ルーツの方を見てニヤッと笑う。

「さては、喧嘩でもしたか」

「そんなんじゃないです」

「若いってのはいいねえ」

「本当にそんなんじゃないんです。僕が勝手に、出てきただけなんで」

 ルーツは、半ば怒るように言った。すると、役人は肩をすくめて、一人でさっさと上って行ってしまう。遠ざかる背中を、ルーツは息を切らしながら追いかけた。

 一人で出てきたのは、決心を固めたからであるはずだった。だが、ルーツは既に、不安でたまらなくなっていた。今からでも、宿屋までユリを呼びに戻って、二人でこれからのことを考えたいという思いが、頭を何度もよぎる。

 ユリならば――。

 きっとユリならば、ルーツの悩みを理解し、親身になって聞いてくれるだろう。

 とにかく焦っていて、おかしくなっていたせいもあった。

 が、一緒に居た時はそんなこと、考えつきもしなかったのに、離れた瞬間、ユリを頼もしく感じるのは不思議だった。

 それでも、ルーツなりに何とか迷いを断ち切って、螺旋階段を上り終わると、そこには大きな扉がたたずんでいる。

―――――――――305―――――――――

「早く来い」

 役人は、扉の前に立ち、ルーツを手招きしていた。そして、ルーツの右手をむんずと掴むと、荒々しい仕草で、扉の前まで連れていく。

 その間、ルーツはずっと、物珍し気な顔をしていた。

 役所はこんなに広いのに、二階のフロアに取り付けられている扉は、これを含めて二つだけ。それだけしか見当たらないのが、不思議でならなかった。

 そしてそのまま、扉が開くのをじっと待つこと十数秒。

 役人の塞がっていない方の手が、扉の取っ手をしきりに撫で擦っている――?

 そんな光景に、ルーツが疑問を覚えた瞬間、鍵が外れた音がした。そして、鈍い音とともに扉が開き、中の様子が見えてくる。

「扉ってもんは、お腹あたりをくすぐると勝手に開くもんなのさ」

 ルーツは、扉に何をしたのか聞こうとした。だがその前に、役人は顔に似合わず、どう考えても冗談にしか取れないようなことを口にした。それをはぐらかしと解釈したルーツは、疑問を心の中に押しとどめ、かわりに中を覗き込む。すると――、

 白。ひたすらに白。一面真っ白な、色が生まれる前の世界。視界の先には、そう表現するのがふさわしいような部屋が広がっていた。

 そして、その空間に立ち並んでいるのは無数の棚。整然とした光景が、何処までも果てしなく続いている。

「此処には、多くの記憶が眠っている。何かが……知りたかったんだろう?」

 役人はルーツを見て、尋ねかけるように言った。だがルーツには、特に知りたい事が合ったわけではなかった。

 何かが知りたいとお願いしてしまったのも、自分の意思ではない。その場しのぎで物を言った、その結果に過ぎなかったのだ。

 だが、ルーツの一言を、どうやらこの役人は、重く考えてくれていたらしい。

 こうまでされると、その厚意を無下にするのはバツが悪かった。一度くらい試してみるのが、礼儀というものだろう。そう思った。それならと、物は試しに、ルーツは目の前にあった棚から一枚の紙を手に取ってみる。

 しかし、表も、裏も、透かして見ても、文字や線は見当たらない。意外な事に、その紙には、全く何も書かれていなかった――。

「それを破るんだ」

 無地の紙を見て、ルーツは戸惑った。そんなルーツに、役人は告げた。

 紙を破ることに後ろめたさを感じ、ルーツは抵抗したのだが、役人は聞いてくれない。記憶はそうしないと閲覧できないと、何も知らないルーツを追い立てる。

―――――――――306―――――――――

「……ほら。早く」

 結局、ルーツはその勢いに負けた。記憶を見るとはどういうことかと不思議がりながらも、紙を遠慮がちに少し破いた。

 すると、その隙間から、黒い文字が滲みでてきて――、

 逃れる間もなく文字が紙から飛び出した。そして、ルーツの眼の前に迫ったところで、世界は白から黒へと暗転した。



「お父さーん」

 自分を呼ぶ声が、家の外から聞こえた。

「……ねえ。ごはんまだー?」

 これは、ソフィー。娘のソフィーの声だ。

 元気な声に続くようにして、今日は何処で遊んできたのか。顔中泥まみれになったソフィーが家の中に入ってくる。

「こらこら、ちゃんと手を洗ってから入ってこないと、お父さん怒るぞお」

 男はそう言って、人差し指を角に見立てる。すると娘は、キャッキャと笑った。

「お父さん、こわーい。怒られたら私、お父さんのこと、きらいになっちゃうかも」

「そりゃ、困る。どうしよう? どうしたら許してくれるかい。ソフィー?」

「えーとねえ。今度のおたんじょうびに……」

「こらこら、ソフィー。そんなにお父さんをからかうもんじゃありませんよ」

 妻が長椅子に座り、こちらの様子を微笑まし気に眺めていた。

 その顔を見ているだけで、俄然やる気が湧いてくるのは何故だろう。

 男は、口元を綻ばせ、妻に笑いかけた。すると妻はニコッと笑った。

「もうすぐ出来るからなあ。向こうの部屋で、いい子で待ってるんだぞ」

「はーい」

 娘に言ったはずなのに、妻が返事する。

 二人は、可愛らしい声をあげて、キッチンから出て行った。


―――――――――307―――――――――

 七日に一度だけ、男は妻と役割を交換することになっている。

 今日はちょうどその日だった。

 朝起きてから、眠りに落ちる時間まで。この日は一日中、男は大忙し。

 妻が店番をしたり、資金集めに頭を抱えたり、新商品を思案したり……。そんなことをしている合間に、男は家事をせわしくこなしながら、家族の食事を作るのだ。

 ちなみに、自慢じゃないが娘によると、『お母さんのご飯とおんなじくらい、お父さんの作ったご飯は美味しい』らしい。

 慣れない事をするのは大変だが、自分の作った料理で、娘が笑顔になってくれるというのは、何とも言えず嬉しいものだった。

 カリッと焼き上がった肉団子を中央に乗せ、裏庭の小さな家庭菜園で採れた野菜を、自分のものには少々。そして、妻と娘の皿には沢山盛り付けていく。それから、汁物とルサ小麦で作ったパンを添えれば、男の料理は完成だ。 

 ルサ小麦で作ったパンは、日持ちはきくが少し固い。

 だから、本当はもっと上質の。出来ることなら、最高品質の小麦パンを食べさせてやりたいのだが、それは男の稼ぎ上、無理な話だった。

 心の中で、来年の目標を決めたところで、男は果実を絞り、飲み物を作る。それから、お盆を器用に三つ持ちして、陽気に鼻歌を歌いながら、キッチンを出た。

―――――――――308―――――――――

 出たところで足が止まった。

 いつもなら楽し気に話し込んでいるはずの、二人の声が聞こえてこない。それに、物の配置が、普段と少し変わっているような気がする。おまけに、戸口の棚に置かれていた、娘が先日作ってきたばかりの泥人形が崩れていた。

 もちろん、妻がそんなことをするはずがない。娘が自分で壊すわけがない。

 だが、それなら誰が。いや、そんなまさか――。

 器用に抱えていた皿が、大きな音を立て、床と衝突する。が、折角作った料理に目を向けることなく、男は扉を開けていた。


 部屋はいつもと変わりなかった。乱れているわけでもなければ、家具に傷が付いているわけでもない。――ただ、一点。

 剛毛、いや、そんな優しいものではない。身体中を毛でまとった異質な何かが、妻と娘の代わりに食卓に座り、料理が来るのを待っていたことを除いては。

「あ、ああ……」

 怒りの言葉を発しようとした口は少しも動かない。喉からは、声にならないかすれ声が漏れてくるだけだった。

「あんたは……娘は……妻は……」

 男は動揺して口をパクパクさせる。そんな男の前に、毛むくじゃらの何かは分厚い羊皮紙の束を突きつけた。

「督促状だ。貴様は、度重なる我々の命令に背き、借料を滞納した。……警告はしたはずだ。利息分と保証として、貴様の妻と娘を貰っていく」

―――――――――309―――――――――

 何を言われているのか分からなかった。そんな契約をしたつもりは無かった。そして、こんな毛の化け物に命令された覚えも――。

 男は、つたない記憶を辿りつつ、毛人間を再度眺める。

 いや、居た。こいつは居た。この家の契約を交わした時、偉そうにふんぞり返っていた役人の隣で、身動き一つせず立っていた男だ。まるで値踏みしているような、嫌な眼差しに、気分が悪くなったのでよく覚えている。しかし……、ということは、この毛だるまは、あの役人たちの代理か何かなのだろうか? 

 混乱する男に背を向けて、毛の化け物は帰路に就こうとしていた。男をそのままにしたままで、帰ってしまおうとしていた。

 だが、これだけなんてあんまりだ。これはきっと、ひどい手違いか何かなのだ。そう思い、男は紙の束を投げ捨て、必死で腕にすがりつく。

「人違いだ。俺は……俺はお前らのような毛の化け物なんて知らない。そんな契約もしちゃいない。あそこでしたのは、売り上げの十分の一を収めるってことだけだ。俺はちゃんと収めていたぞ。間違いはないはずだ。先月分も、昨日――」

 男は早口で言った。だが、男が何と言おうが、毛だるまは取り合おうとしてくれなかった。男を引きずったまま、戸口に向かって歩いて行く。

「我々の言い分は、残らずその紙に書いてある。納得できぬ点があったのなら、後から自分で訴訟でもなんなり起こすといい。だがその前に、毛だのなんだのと言うのを止めろ。我々にはれっきとした名前がある」

―――――――――310―――――――――

「まあ、でも、お前にその名前を言ってもピンとこないだろうなあ……。だけど、毛の化け物は流石にひどいぜ。半獣人より心に来る」

 男の背後でも声がした。振り返るとそこには、毛むくじゃらの化け物がもう五体立っていた。いや、毛むくじゃらというには、こちらはいささか毛の量が足りない。姿形は人間と変わりないが、手足だけが太い毛で覆われていた。そして、そのうちの一体が、男が捨てた羊皮紙を拾い、男の前へと差し出してくる。

「これが、何だってんだ。お前ら……こんなことして、何が狙いだ。金か、命か。ただで済むと思うなよ、憲兵が今にも飛んでくるからなあ」

 男は、脅すように喚いた。だが、半獣人たちが焦ることは無かった。男の声にもひるむことなく、平然とした様子で、紙の端を指差してくる。

「……言いがかりはよせ。これは、相互了承の正当な契約であるはずだ。十分の一なのは最初の一年だけ。二年目は十分の二、三年目は三割。……五年目は売り上げの半分を収めること。此処にもしっかり、その条文は記してある。それにこのことは、契約時にもちゃんと確認したことだろう?」

 男が指差した先に在ったのは、豆粒だった。……否。目を凝らしてみなければ、塵か何かだと勘違いしてしまうくらい、小さな文字の集まりだった。

 契約時に、こんな事を確認された覚えはない。こんな内容で、契約を結ぶはずもない。けれど、今になって反論したところで、水掛け論になるのは目に見えていた。

「じゃあ、今からでも……払うから……妻と娘だけは……」

 男には、半獣人たちの言い分を受け入れる気なんてさらさらなかった。それに、男の手元に残っていたのは、ひと月分の生活費にも満たなかった。

 だが、妻と娘が戻ってくるならどうとでもなる。隙を見て、逃げることも出来るだろう。そう考え、男は何とかこの場だけでも乗り切ろうと試みる。

 しかし……

―――――――――311―――――――――

「潔く諦めろ。猶予の段階はとうに過ぎたのだ。……まあ、その様子だと、何らかの手違いで、こちらの警告文がとどいていなかったのかもしれんがな」

 半獣人は唇の端を少し上げ、哀れむようにせせら笑った。

 この時になって、男はようやく騙されていたことに気が付いた。

 わざとだ。わざと完全に手遅れになるまで、こいつらは重要な事実を隠していて、俺から全てを奪って行こうとしているのだ。

 そう気づいたが、気づくのが遅かった。

「利息は既に、お前が一年で稼ぎ出せる額を超えている。すぐにどうこうできる物ではない。それに、お前が借金を抱えたまま、お空の国に高飛びしまっては我々も困るのでな。保証として仕方なくお前の妻と娘を貰っていくことにした、というわけだ。

 なあに、完済した暁には、ちゃんとお前の元まで送り返してやるさ。……ま、その時まで、五体満足で生きていられるかはなんとも保証しかねるが。とにかく、温かい食卓を取り戻したければ、出来るだけ早く返すことだ」

 半獣人たちがそう言い終わらないうちに、男は毛だるまに飛びかかっていた。

 首をへし折る。そんなつもりで、後の事は気にもせず、毛だるまの首に全体重を掛けた。だが、男の想像と異なり、毛だるまはびくともしなかった。男が腕一本で、毛だるまの首にぶら下がっている構図を、他の五人は白い目で見つめている。

「気は済んだか」

 穏やかな声がした。そして、その声とともに、男の身体は宙を舞っていた。

 しかし、冷たい床の感触は伝わってこない。男が落ちた場所は、半獣人が用意した柔らかいクッションの上だった。

―――――――――312―――――――――

「どこまで……どこまで、人を馬鹿にするんだあ!」

 男は吠えた。吠えながら立ち上がり、掴みかかろうとした。だが、立ち上がろうとした男の身体は、手下らしき半獣人によって押さえつけられる。

「だけど、お金を払わなかった旦那が、一番悪いんじゃないですか」

「そうですよ、自分で賃料を滞納しておいて、怒りを回収役にぶつけるなんて……。勘弁してくださいよ、こっちも仕事なんですから。いっつもそうだ、上の負担は現場に回る。やってられないよ、まったく」

 半獣人たちは勝手なことを言った。

「んなわけあるかあ! こんな、こんな、やりかたで、あんな小さな文字、気付くわけないだろお!」

 男は叫んだ。だが、毛だるまはもう振り返らない。戸口の向こうに消えていく。

「お金は返す。一生かかって返す。だから、だか……止めてくれ! 何でもする。何でもやる。だから妻と娘を持っていくのだけは止めてくれ!」

 男は懸命に身体をよじらせた。けれども、五人に押さえつけられた身体は少しも動くことがない。

「この高利貸しの畜生。屑、返せ! 返せ!」

 戸口に毛だるまが戻ってくる気配はない。妻は、娘は、永遠に去ってしまった。

―――――――――313―――――――――

「あのー、旦那さん。大丈夫ですよ。稼げば帰ってきますから。……ほら、何でしたっけ。ケイラさんとソフィーちゃん」

「……お前らが、その名を呼ぶなあ! 出てけ、出てけ、この害獣ども! 出てけえ! 俺の家から出てけえ!」

 心が悲鳴を上げていた。怪我はしていないはずなのに、全身が痛かった。

 家族一つ守れずに、何が父親だ。何が、お父さんだ。何が、一家の大黒柱だ。そう考えると、涙がボロボロと零れてくる。

「それじゃあ出ていきますが、本当に大丈夫ですか?」

「要らん心配だ……早く……出てってくれ」

 半獣人たちが五人そろって、戸口の外に消えていく。そんな一幕が、視界の隅にちらと映った。だが、男はまだ立てなかった。胸が痛くて仕方がなかった。

 もう誰にも圧し掛かられていないはずなのに、呼吸が苦しく、辛かった。


 そんな中で、男は幻影を見た。目にするはずのない光景を、この目で見た。

 妻と娘が、突然押しかけてきた男たちに脅され、身支度も出来ぬままに攫われていく一部始終。それを確かに、記憶に焼き付けさせられた。

 ソフィーは、何度も男の名前を呼んでいた。戸惑いと、悲しみの中で男の助けを求めていた。明日、友だちと遊ぶときに何を着て行くか。そんな楽し気な話をしている時に攫われたのだ。何故だか男にはその時の、ソフィーの心情が事細かに分かった。

 妻は自分のことより、残される男のことを心配していた。男の身を案じて、何度も男の名前を呼び続けていた。だが最後には、恐怖に駆られて声をあげた。声にもならない声をあげた。そして恐怖が、絶望が、男のもとに迫ってくる。

―――――――――314―――――――――

 男は絶叫した。ガラガラ声で叫んだ。声がかすれても叫び続けていた。しかし、叫んでいるうちに、男は奇妙な違和感を覚え始めてもいた。この部屋には自分だけしかいないはずなのに、声が二重になって聞こえてくる。どこかから、自分の声が聞こえてくる。頭の中で他の誰かが叫んでいた。自分ではない、誰かが――。

 男は、妻と娘がたった今さらわれたにも関わらず、物事を冷静に見つめている自分に気が付いた。その瞬間、世界は暗転した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る