第31話 魔王の母


 しん、と城内放送までもが鳴り止んだ中、ヴァルくんが唖然と呟く。


「……どうして……なぜ彼女が〈聖紋〉を。そんなそぶりは……」

「ウフフ、やっぱりあの時、一緒にいたのはこの子たちだったのね」


 甘やかに笑った悪魔リリムは、彼を離れて踊る足取りでケイちゃんに寄り添う。


「気付かなかったのも無理ないわぁ、あたしも見逃しかけたもの。この子に気付けたのもホントに偶然。キューマの湖岸に封じられてたあたしの眷属を、この子ったら、なにも知らずに解放してくれたの。解放されたその子が〈聖紋〉持ちの存在を飛んで知らせに来てくれたから、すぐに知ることができたのよ」


 いい子でしょ? と微笑んだ唇を、赤い舌がぺろりと舐める。


「――あたしの魔力にもなってくれたし」


 意味を悟って、ぞっとする。――喰らったのだ。己の眷属を。それを笑ってできるのが悪魔というものだと、知っていたつもりでも、粟立つ肌は止められない。


 ケイちゃんにしなだれかかった金髪の悪魔は、幼女の見た目にそぐわない仕草で、生々しくも艶めかしく、解放された魔導書に指先を這わせる。そしてその古書を手に取ると、すっとヴァルくんへと差し出した。


「でもね、それだけじゃまだ足りないの。それにあたし一人じゃつまんない。ずっと、貴方ともう一度……って思ってたのよ。ねえ、貴方もきっとそうだったでしょ? ずっと退屈だったでしょ?」


 問いと魔導書を押し付けられたヴァルくんは、身動ぎせずにリリムを見返す。

 その視線を一身に浴び、リリムはさらに身を寄せて、殊更甘く囁いた。


「こんな世界つまらないもの。全部壊してすべての魔物の頂点に立って――また一緒に、面白おかしく暮らしましょ?」


「い、――」


 引き攣った声を洩らしたのは、なんとわたしの喉だった。

 その反動で息を吸って、ふと身体の強張りがとれる気がした。――そうだ、頭が追い付かなくとも黙り込んでいる場合じゃない。紅と青の双眸が向けられるのを受け止めながら、わたしは一歩、青の所持者のほうへ踏み出した。


「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ。最終的には自分のためにヴァルくんを魔王にしようとしてるってことですか? めちゃくちゃ私欲じゃないですか。さっきのはなんだったんですか、めっちゃ理屈っぽく不満分子の話してたのは」

「いやん、もちろんそれも本当よぉ。ヴァルちゃんには、苦しんで困ってる子たちを救ってもらいたいって、ちゃんと思ってるわ」


 心外ね、と眉を顰める悪魔に、わたしは「そうだとしてもですね」と言い募る。


「それもおかしな話なんですよ。不満分子を救うために魔王として立つってことは、世の中の表と裏がひっくり返るだけでしょう。それ、なんの解決にもならないんですよ根本的に。ずっといつまでも苦しむ人が出続けるだけなんですよ」

「えっ、なにこの子。すごいしゃべる……」

「そもそも本当に苦しんでる人たちに対して働くべきは社会的なセーフティーネットであって、ヴァルくん個人が背負うべき事柄ではないはずなんです。それをあなたは、さも当然のようにこの子一人に押し付けてますけど、数百年前はそれでよかったのかもしれませんけど!」


 すごいしゃべる、なんて驚きは、自分が一番感じている。

 上級悪魔と元魔王と〈聖紋〉所有者が集うこの場所で、魔力も肩書もろくなものを持たない十把一絡げなこのわたしが、どうしてこんなに声を上げているのか。自分が一番、理解できない。

 それでも、どうしても――黙っていることができなかった。


「百年封じられて、ようやく手にした自由ですよ。なんでそれを、また他人のために使わなきゃならないんですか――」

「……んもう! うるさい子ね!」


 ドン引きから立ち直ったリリムが、苛立ちも露わに地団太を踏む。

 キッと上げられたブルーアイ。その人間ヒトとは違う瞳に射竦められ、無意識に足を引いてしまう。そんなわたしを指差す動作に従って、黒くどろりとした影が床から二体、獣の形で立ち上がった。


「やっぱり邪魔だわ、貴女。――死んで」


 影の獣が跳躍する。

 避けられない。

 それだけの広さがここにはない。

 とっさに顔を庇った両腕の陰で、ぎゅっと目を閉じた――その耳に流れ込んできたのは、ひどく落ち着いた低い声音だった。


暴風招来キアーマ・ラ・テンペスタ


 そして巻き起こる、凄まじい風音と獣たちの悲鳴。


「えっ……!?」


 驚いて見上げた目の前に、誰かの後ろ姿があった。


 なびく黒髪。闇色のマント。佇むわたしより頭一つ分ほど高い背丈。明らかに成人男性とわかる体格のその背中に、見覚えなんて欠片もない。

 けれど、肩越しに振り向いたその顔は、絵画から抜け出したかのような美貌とその紅い瞳は――。


「ヴァル、くん……?」


「――あぁん! やっぱりそっちのほうがいいわぁ!」


 突然起こった黄色い声に、ぎょっとしてリリムに顔を向ける。

 先程まで殺気の塊だった悪魔は、今や両手を握って頬を薔薇色に上気させ、とろけるような笑みで飛び跳ねていた。


「麗しのかんばせ! 凍えるような血色の眼差し! ちっちゃいのも可愛くて素敵だったけど、世界の頂点に君臨する魔王には、やっぱりその姿が一番よぉ!」

「それはどうも。……しかし貴女の行動は短慮に過ぎる」


 落ち着き払った態度でそう応じる彼の手には、いつの間にか古びた書物――『ナーハフォルガーの書』があった。開いたページからは黒い霧のようなものが溢れ、そこに微細な光が瞬くさまは、まるで溶けた星空のようだ。


 悩ましげな溜め息とともに「そうかしら?」と小首を傾げたリリムは、握り合わせていた両手を解くや、ひらりと踊るように翻した。


「貴方が甘くなり過ぎただけじゃない?」


 突然、頭上に影がかかったと思った次の瞬間、わたしの周りになにかが突き立った。衝撃に座り込んで見上げたそれは、関節を持った丸太のようなもので、何本も蠢く様子は生き物のようで、嫌な予感とともに視線を上げたわたしは、ひっと息を呑んだまま動けなくなった。


 ――巨大な闇の蜘蛛が、そこにいた。


 八つの脚でわたしを取り囲み、九つの目でわたしを見下ろし、無数の牙を持つ口がわたしの血肉を求めてカチカチと音を立てていた。


「お友達は選びなさいって、あたし、いつも言ってたわよね? 自分の配下は自分で躾しなさいっていうのも、いつも言ってたわよね? それがきちんとできないなら、あたしがみんな処分するって、言ってあったわよね?」


 主人の声に合わせるように、粘液を滴らせた鋭い顎がわたしの上に降ってくる。

 わたしはそれから、目を逸らすことすらできない。


「貴方を鈍らせるものは、この世に欠片も必要ないのよ」

「――っ!」


 ああ、人生終わった――と思った。


 その時だった。


 たん、と軽く踏み込むような音がした直後、重く湿った殴打音とともに、頭上の巨体が地面からもぎ取られるようにして浮き上がった。そのまま落ちてこないことに驚きよく見て、蜘蛛の胴体がなにかに貫かれていることに気付く――槍だ。

 絶命間際の巨大蜘蛛を引っ掛けたまま、その槍はわたしの背後へと跳ね戻る。つられて振り向いたすぐそこで、それをひと振るいして階下に死骸を落とした人物が、体勢ひとつ崩さぬまま笑って言った。


「ふいー、間一髪ってところだなぁ」

「あ、あなた……なんで……!?」


 砂の髪と翡翠の瞳。熊のように大きなガタイと、どうも気が抜けるしゃべり方。呼ぶべき名前は知らないながら、やたらと見知った相手がそこにいた。


 ……え!? ていうかなんで!? なんでこの人、槍なんて持ってここにいるの!?


 混乱するわたしにニコリと笑いかけ、熊男はしかし、槍の穂先を収めるどころか再び前方へと突き出した。


「そんでこれは、どういう状況なんだ?」


 目線を戻したわたしが見たのは、信じられない光景だった。


 影の茨に拘束された幼い少女と、それへと黒い剣を振り上げた青年。そして――彼の脇腹に、仄かに輝く白い剣を突き立てた、虚ろな目をした少女の姿。


「ヴァルくん……!? っケイちゃん、なんで……!?」


 わたしの問いに答えは返らない。

 ただ忌々しそうな地を這う声が、彼の口から絞り出される。


「……嫌な動きをする傀儡かいらいだ」

「いい子でしょ? 中をちょっとイジってあげたら、この〈聖剣〉もすぐに作れるようになったのよ。リタもまさか、あたしに使われるとは思ってなかったわよね」


 ケイちゃんが動き、白の剣が貫通する。逆の脇腹に見えたその切っ先に、わたしの喉がひゅっと鋭い音を立てた。

 しかも〈聖剣〉と呼ばれたその剣は、なにかがおかしかった。刃が触れた傷口からは焼け付くような嫌な音がして、そのたびに、白銀の輝きがいや増すように見えるのだ。ずるずると――なにかを喰らっているように。


 堪えていたものが切れたように、ヴァルくんがその場に膝をつく。黒の剣も、影の茨の拘束も消え、当たり前のように再びの自由を得たリリムが、小さく崩れ落ちる彼の頭を寂しげな微笑で見下ろした。


「残念だけど、今の貴方の気持ちはわかったわ。でもやっぱり、あたしは貴方が欲しい。貴方の魔力も、美貌も、才能も――見つけ出したのはあたしだもの」

「……っ」

「ねえ、またあたしと一緒に生きましょうね。貴方がもう一度、そう自分から望むよう、貴方の本体からだにちゃんと教えてあげるから」


 ――だからしばらく、邪魔しないでね。

 我が子を慈しむ母の顔で、愛おしさを滲ませた声色で。ケイちゃんを操り人形にして、悪魔リリムは〈聖剣〉を振りかざす。


「おやすみ、ヴァレリオ。次は直接、逢いましょう」

「やめ――!」


 伸ばした右手は、届かなかった。


 美しい白銀の剣が弧を描いて振り下ろされるのを、その刃が寸分違わず黒髪の首を断ち斬るのを、わたしはただ、見ていることしかできなかった。




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