第4章
第30話 ナーハフォルガーの書
夏も盛りになってくると、雲一つない晴天が連日続くようになる。
社会人にも夏季休暇を取る人が増え、魔王島へとやって来る観光客もうなぎ登りに増加する。城下町のリゾートホテルは軒並み満室。大通りには多種多様な人々が溢れ、島全体に活気と熱気が満ちる時期だ。
もちろんそれは、城下町と大海原を一望する魔王城モールでも同じこと。
普段の何倍かと思うようなお客をてんてこ舞いでさばく日々の中、金髪幼女の悪魔が来たことも、食い意地の張った熊のような騎士団員のことも、わたしの思考からはすっぽりと抜け落ちていった。
「――こちらの〈聖紋〉結界に囲まれた、この古びた書物。こちらが、当店で最も貴重かつ最も危険な魔導書『ナーハフォルガーの書』です」
夏季限定、一日二回の魔王城ツアーのお客を相手にニッコリ定型文な説明をすると、「ほほう……」と関心の声が上がる。
「魔王時代よりこの城にあったと伝わる魔導書ですが、実はその制作年代や執筆者、詳しい内容などは今もわかっていません。というのも、この書を囲む〈聖紋〉結界――この結界の核たる〈聖紋〉を扱えるのは、同じように〈聖紋〉を持つものだけだからです」
「〈救世の聖女リタ〉ね!」
「その通りです。百年前に彼女が封印して以降、この魔導書を直接手にした人はいません。それ以前の記憶や記録も、ほとんど残っていません。我々が知る『ナーハフォルガーの書』という名も、実は正確ではなく、背表紙に刻まれた〈
「――すみません!」
幼年学院くらいの少年が、ビシッと音が出るような挙手をする。
「ほとんどなにもわからないのに、なんで危険な魔導書ってわかるんですか?」
「それは、聖女リタがそう言い残したからです。この書庫にあった、ありとあらゆる時代、ありとあらゆる場所から集めた書物の中で、唯一、彼女が〈聖紋〉を使ってでも封じなければならないと感じた、と伝えられています」
「なんでですか? どうして聖女リタは、そう感じたんですか?」
食い下がってくる少年に、笑顔でイライラが募ってくる。学校の社会科見学じゃないんだからそれくらい自分で調べろよ、と思ったのはわたしだけではなかったようで、他のツアー客から「それは聖女さまに直接聞かんと、わからへんのとちゃうかしら?」と助け舟を出してもらえた。周りから和やかな笑いが起き、質問少年もとりあえず納得したように引き下がる。
密かな深呼吸で心を整え、わたしは改めて解説を続ける。
「……『ナーハフォルガーの書』がなぜ危険視されるのか。それについては、聖女リタの死後、いろいろな説が出されています。ご興味があるようなら、ぜひ、下階で取り扱っております各研究書をお買い上げください」
「あらまあ、ええ商売したはるわ」
さっきと同じお客の声に、またも湧き起こる笑い声。そちらこそ、ええツッコミをしたはりますわ。キューマより西から来た人だな。
わたしも交ざって笑いながら、十数人のツアー客を促して下階へ戻り、今回の〈魔王の書庫〉案内は御開きとさせてもらった。
ガイドに従って次の場所へと向かう彼らを見送るや否や、応援要請のベルがレジカウンターで鳴る。駆けつけると長蛇の列ができていて、普段は使わない第二レジを開けての対応となった。
――けたたましい非常ベルが響いたのは、そんな矢先のことだった。
誰もがビクリと動きを止める。城内放送の音楽も止まり、しんと静まり返った中を耳障りなベルだけが搔き乱す。
やがてそれが止まった後、いつもと同じ、少し間の抜けた城内放送のチャイムが鳴った。そしていつもとは違う、聞き覚えのある男性の声が流れてくる。
『ええー、こちら、
……カイルさんだ。
物慣れない武骨なアナウンスに、否応なく緊張感が増す。
『ただいま、えー、西城門付近で、保安術式への破壊行為があったようです。現在、警備兵が確認に向かっております。建物内には、ただちに影響があるものではないと思われますが、お子さまやお手回り品など、気をつけて続報をお待ちください』
同じような内容を一度目よりは流暢に繰り返した後、緊急放送は、下がり調子の間抜けなチャイムで締めくくられる。
その途端、ざわっと店内が不安な空気で揺れた。
「ひ、避難とか、したほうがいいんでしょうか?」
会計途中だった女性が、引き攣った顔でわたしに聞いてくる。
わたしは強いて朗らかな笑顔を作り、落ち着いた声を意識してそれに応じた。
「西の城門付近と言っていましたから、慌てなくても大丈夫ですよ。建物内のほうが保安対策されていますし、具体的な放送があるまで、無暗に動かないほうがいいかもしれません。避難指示等ありましたら、近くの店員が誘導いたしますので」
「そ、そうですか」
後ろに並んだ人たちも含め、多少は安堵したように表情が和らぐ。よし。
こういう時に一番厄介なのは、群衆のパニックだ。夏季休暇で客数うなぎ登りの中、理性を失くしたお客が一斉に逃げ出したりなんかしたら、どれだけの二次被害が出るかわからない。
そうしていると、副店長もやってきて、同じように笑顔でお客に言い聞かせてくれる。だてに我々、月に一度の防災訓練をしていないのだ。
そうして店内、ひいては城内の空気がかなり落ち着いた頃になっても、警備室からの続報は流れなかった。誤報なら誤報のアナウンスがあるはずなのに、と不審に思い始めた矢先、ようやく放送チャイムが鳴った。
しかし、流れ出したいつものインフォメーション係の声は、誤報よりも理解しがたい内容を告げた。
『ご来城のみなさまにお知らせいたします。先程の、西城門付近の保安術式破壊の件に合わせまして、調査のため、クリンゲル聖騎士団より、即時の城内退避要請が出されました。ご来城のお客さまは、従業員の指示に従い、速やかに城内より退避してください。……繰り返します。ご来城のみなさまにお知らせいたします……』
唖然とした空気が流れたのは一瞬だった。
誰かがすうっと息を吸い込む気配がして、一拍空いたその隙間に、副店長がよく通る声でその先を遮った。
「聖騎士団がいらっしゃるのでしたら、もう安心ですわね。――それではお客さま方、これより避難口にご案内いたしますわ。慌てず騒がず、足元に注意して、こちらの店員に続いてくださいませ」
「ご案内しまーす。こちらでーす」
優雅で上品な副店長と、元気に呑気なハンスの誘導で、悲鳴の腰を折られたお客たちも気を取り直したらしかった。一様に強張った顔をしながらも、指示に従って避難を始める。
「訓練通り、わたしは店内を見回って、退避完了の確認と施錠をしてから避難します。エアルちゃんは、レジを閉めたらお客さまと一緒に避難してください」
レジ係の木の精霊・エアルちゃんが頷くのを見届けて、店内に残っているお客に避難を促しに行く。火事場泥棒めいた不穏な動きも見かけるが、それへの対処は、出入口の防犯結界と副店長に任せる。いちいち相手していられない。
一通り売場のお客がいなくなったのを確認して、後は上階だとわたしが階段へ向かうのと、最後のお客が店を出るのがほぼ同時だった。出入口で窃盗未遂犯を締め上げていた副店長とも、アイコンタクトを交わしてそこで別れる。訓練通りだ。
今日、上階に上がっているのは、いつも通りにヴァルくん一人。ツアー客の案内をしていた時には、確か中二階東のソファーに座っていたはずだ。
そう思って真っ直ぐ向かったのに、そこには誰もいなかった。下りた記録はなかったし、移動してどこかにいるのだろう。一応、他の人影がないかを確認しつつ中二階を回り終え、二階へと上がる。直後、繰り返される退避要請の放送に交じって、言い合うような声が聞こえて顔を顰めた。
……ヴァルくんしかいないはずなのに? こんな時に、いったい誰と?
その声が聞こえるのは東側だった。足早に、一目散にそちらへ向かったわたしは、〈聖紋〉結界の光の下に、向き合う人影を見つけて動きを止めた。
一人はヴァルくん。そして彼と対峙しているのは。
「リリム? ……と、え?」
金髪ツインテールの天使のような悪魔の後ろに、もう一人。
「なんで、ケイちゃんが、ここに?」
そこにいたのは、異世界から来た兄妹の片割れ。兄であるヤスヤたちとともに、この島を去っていったはずのケイちゃんだった。
彼女はわたしの声にも反応せず、ただぼうっと〈聖紋〉結界を見上げている。間に立った二人の幼児など、微塵も目に入っていない様子だ。
そんな異様な状況で、ただ一人、リリムは甘やかな笑みをわたしに向ける。
「ちょうどよかったわぁ。ユッテちゃんからも、このわからず屋に言ってやってちょうだい? 今再び、魔王としてこの世界に立つべきだって」
「……えっ!?」
とっさに耳を疑ったけれど、聞き間違いでも言い間違いでもないらしい。だからこそのこの空気、だからこそのこの対峙なのか。
幸いにして、打診を受けているらしいヴァルくんは、「わからず屋はどちらですか」と呆れたように首を横に振る。
「我々は敗れ、百年で世界は変わったのです。この時代には、もはや魔物と呼ばれ分けられ、虐げられるものはいない。もはや魔王など必要ではないのです」
「あらぁ、百年眠ってた世間知らずのわからず屋は、間違いなくヴァルちゃんのほうよぉ?」
くすくすと、ひどく楽しげに笑いを零した悪魔リリムは、花びらのような唇をにんまりと吊り上げる。
「ここが本当に、平和で満ち足りた世界だと思う? 不満や不安のないものばかりだと思う? 虐げられるものがいないと思う? ――勇者と聖女の築いた平穏なんて、ただの幻想。闇に押し込められ、理不尽な不遇を強いられているものたちが、この世界にはまだごまんといる」
本能の衝動に苦しむもの。否応なく変わる時代に取り残されたもの。消えない差別。生まれへの怨恨。優しく穏やかな世界の下に、押し込められているものたち。
「彼らを率い、支配し、救えるのは貴方しかいないのよ。ヴァレリオ」
悪魔は甘く微笑み、手を伸べる。
その白い指先に、寸の間、ヴァレリオと呼ばれた彼が揺らいだ気がした。
――ダメだ。
その手を取らせてはならない。彼を再び魔王にさせてはならない。とっさにそう思ったわたしが動くより早く、するりと身を寄せた彼女が彼を抱き竦める。
そして、その花びらの唇が言った。
「やりなさい、ケイ」
「! 待っ――」
はっと気付いた時には遅かった。ずっとぼんやりしていたケイちゃんが、いつの間にか〈聖紋〉結界の間近にいて、その仄かに光る球体へと手を伸ばしていた。
止める間もなく指が触れ、刹那、瞬くように輝きを増した結界表面に、強い光の文字が浮かんだ。そこに並んだ文言を、わたしさえわからない
「……ケイちゃん……声……!」
場違いな驚きも一瞬のこと。彼女の詠唱が止まった直後、それまでとは比べ物にならない強烈な光が放たれた。
とっさに顔を庇ったが、意外にも、その光は網膜にまで焼き付くことはなかった。恐る恐る上げた視界は良好で、呆然とする黒髪の幼児と、笑みを広げる金髪の幼女と、そして、古びた一冊の本を手にした異世界人の少女がそこにいた。
ミジンコ魔力のわたしには、なにがどうなったのかわからない。
けれどそれは、見ればわかる。
――『ナーハフォルガーの書』が、解き放たれたのだ。
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