第29話 とらねこくまの三つ巴
いないと思ったヴァルくんは、わたしの休憩時間にするりと現れた。
……その形容でお察しだろうか。現れた彼は、一人の子どもではなく一匹の黒猫の姿だった。ヤスヤたちを見送ってから二日ぶり、三回目である。
「また猫さんですか。そんなに楽しい本があるなら、そっちに集中してもいいんですよ?」
昼出勤時の休憩は、閉店後の夕食までの、いわば中継ぎ的なものである。食べてもせいぜい軽食なので、特にお付き合いいただかなくても、持参した食料の消費に困ることはない。
それでも紅い目をした黒猫は、隣を歩きながら当然のように言う。
『この妙な来客が続く時に、貴女のような頼りない人を放っておくのも気が散りますからね』
「あらー、わざわざお気遣いありがとうございますー」
物言いは引っ掛かるものだけど、まあこれも、ひとつの心配の形なんだろう。実際、心強いと言えば心強いし。なんだかんだ、元魔王ですから。
……いやもう本当、なんだかんだ、だよ。
なんだかんだ、すっかり馴染んでしまっているけれど。そんな相手に気にかけてもらえているなんて、改めて考えると、我ながら意味がわからない。
わたし個人としては、普通に田舎を出て、普通に就職して、普通に働いてきただけだったのに。まったく妙な巡り合わせである。
「……そういえば、昨日のあの子はまあともかく、彼女と一緒にいた人とか、今日うちの店に来た人とか、いったいどういう人たちなんでしょうね?」
前庭広場に出たわたしたちは、人目につきにくい隅のベンチに落ち着いた。
夏の日は長く暑く、木陰だけが癒しである。お礼用に作った余りのブドウマフィンと、新しい生地を保存する代わりに古いのを使い切ったアイスボックスクッキーを間に置いて問いを向けると、黒猫はゆらりと尻尾を揺らした。
『どう、というのは?』
「だってあの子、あの〈魔王の母〉なんでしょう? そんな子のことを叱ったり抱き上げたりした昨日の人も、その動向を確認しに来た今日の人も、どう考えても普通の人じゃないじゃないですか。……まあ可能性としては、彼らの上司とか言う人が、あの子の言いなりにパパをしている、というのもあるかもですが」
それにしては〈首輪の主〉とやらが引っ掛かる。屋台で買ったスモモジュースを飲みつつ首を捻ると、クッキーを齧っていた黒猫に『可能性だけなら、星の数ほどありますよ』と鼻先で笑われる。
『少なくとも、貴女が積極的に関わるべき相手でないことは確かです。あれの目当ても、結局のところ私一人だったようですし。余計なことは考えず、仕事に精を出したほうが建設的ですよ』
「……まあ、そりゃそうなんですけど」
わたしだってできれば放置したいけど、ここ最近のことを思えばなんだか嫌な予感がするのだ。あの熊男も「また来る」と言っていたし、せめてどういう対処が適切かの話し合いくらいしておきたい。
その旨を伝えながらマフィンを二つに割っていると、突然、ぴくりと黒猫の耳が動くのが見えた。ふいっと上げられたその視線の先を何気なく追ったわたしは、
「……んっ!?」
「ん? あ」
生垣の向こうを歩いていた、砂色の髪をした大男と目が合った。
……嘘でしょ、なんであの人、まだこんなところにいるの?
思わず顔を引き攣らせるわたしとは対照的に、向こうは翡翠の目を輝かせ、真っ直ぐにこちらへやって来る。くそっ、逃げる隙もない。
「よっ、ユッテさん。奇遇だな。仕事はもう終わったのか?」
「い、いえ。休憩中です。お客さまは……まだこちらにいらっしゃったんですね」
休憩中にお客に認識されるなんて最悪である。しかも今一番、会いたくなかったこの男だ。せっかくの心休まるひと時なのに。わたしの安穏を返せ。
荒れるわたしの気も知らず、男はにこにこと猫ヴァルくんに話しかける。
「綺麗な猫だなぁ。俺、猫は好きなんだよ。お隣いいかい? 黒猫さん」
『ええ、どうぞ』
「おっ? おお、
すべての種族へ開かれた〈魔王城モール〉では、たとえ見た目が動物でも、無慈悲につまみ出されるようなことはない。特に猫というのは
……ある意味では見逃さない、猫好きと呼ばれる人たちもいるけど。猫ヴァルくんの隣に座った、この人みたいに。
にこにこと楽しそうな顔を見ていると、警戒しているのがアホらしくなってくる。
しかも、その翡翠の瞳が躊躇なく吸い付けられたのは、ベンチに広げてある焼菓子の山だ。おまけに、ぐご、と短く胃袋まで鳴り、完全に脱力してしまう。
「えーと……これ、わたしが焼いたのでお口に合うかわかりませんが。よかったら、おひとつどうぞ」
「いいのか? よっしゃー、ありがとう!」
遠慮ひとつなく、いっそ清々しい勢いでマフィンへと手をつける熊男。意気揚々と一口かぶりついた彼は、もぐ、と口を動かしかけて一瞬固まり、それを急いで嚥下するや真顔で身を乗り出してきた。
「この味! 俺、知ってる!」
「へ?」
「この生地、このバターと砂糖の分量……トラヤのマフィンと同じ味だ! 間違いない! ほんとにコレ、あんたが作ったのか? 貰い物とかじゃなくて?」
「ええー……あー……実はですね……」
なんでそんなことわかるんだよ、と思いつつも、妙な疑念を持たれるのも面倒なので、わたしの実家がそのトラヤなのだと素直に話す。おやつは店の廃棄品だったし、今のトラヤを引っ張る双子と並び、幼い頃から祖母直伝でレシピを仕込まれていたのだ。基礎が同じなのだから、そりゃあ味も同じになる。
もぐもぐとマフィンを頬張っていた相手は、ごくんとそれを呑み込んで、翡翠の目を丸くした。
「はぁあ、なるほど。しかしなんでそのトラヤのお嬢さんが、こんなところで本屋の店員なんかやってんだ?」
「……昔から、うるさいのが苦手でして。『お菓子屋は子どもの天国だ』、なんて方針の実家にいると、鼓膜と心臓がいくらあっても足りない気がしたんです」
加えてあの双子の無茶ぶりに付き合う忍耐力がなくなった、というのもあるけれど、それは別に言う必要のないことだ。忘却魔法が来い。
「確かにいつ行っても、どこの店舗でも、子どもで溢れ返ってるもんなぁ。トラヤ」
「……そんなに頻繁にご利用いただいてるんですか?」
「おう。行く。超行く」
わたしの地元・タールスタッドに本店を置くパティスリー・トラヤは、首都と各副都に一軒ずつ、合計四店舗の支店を展開している。それぞれの間には物理的にかなりの距離があるのに、その複数に来店経験がある、というのはなかなかだ。
ヘビーユーザーらしい熊男は、食べ終わった後の紙カップを切なげに見つめて呟く。
「こんだけうまい菓子が作れるのに、本屋をやってんのはもったいないなぁ。いっそ、ここに店を構えればいいのに。俺、めっちゃ買いにくるぞ」
「いやいや……ここじゃ余計に、鼓膜と心臓が死にますよ」
「売り子を雇って、ユッテさんは裏で菓子作りに専念すれば、いけるんじゃないか? 絶対に繁盛するぜ、俺が保証する」
「え、ええ……」
生まれてこのかた、ここまで手放しに褒められた記憶がなく、あまりの気恥ずかしさに顔が熱くなる。挙動不審だとわかっているのに、相手と目を合わせていられない。
その時、ぱたん、と猫の尻尾がベンチを叩く音で、はっと我に返った。ちらりと見下ろすと、伏せたまま、不機嫌そうに尻尾を揺らし続ける黒猫と目が合う。
……うっ……「この状況でちょっと褒められただけで、なにを呑気に浮かれてるんですか」って声が聞こえる……。
かなり具体的なエアお説教を察したところで、気を取り直すように背筋を伸ばし、わたしは「あの」と話を変えた。
「さっきは聞きそびれたんですけど、どうしてわたしの名前を知ってるんですか?」
名乗った覚えなど微塵もないのに、名前を知られているのは気味が悪い。
そんなわたしの追及にも、相手は「ああ」と軽く答えた。
「来た時に、インフォと警備室で話を聞いてたんだよ。
「カイルさん……!」
個人情報……! とその甘さをわたしは恨んだけれど、それはお門違いだと熊男は苦笑した。
「さっきは言わなかったが、俺らは騎士団所属でな。つまり上司ってのは騎士団長なわけで、その娘のことだって話せば、協力的にもなるってもんだろ?」
「えっ! 騎士団ってまさか、あの騎士団ですか?」
「どの騎士団かわからんが、グロースメアの普通の騎士団だよ」
騎士団は、各地の治安を守る一般兵団の上位機関だ。基本的には実力主義で、パン屋の息子でも役人の娘でも、相応しいだけの能力があれば家柄に関係なく入団できる。……まあ確かに、騎士を多く輩出する家柄というのも存在するが、それは結局、教育や実地訓練にかけられる資産と経験値の問題だろう。
つまり、普通の騎士団でも十分すごいことなのだ。
探った胸元から「これが証拠」とグロースメアの紋章入りの徽章を取り出され、疑う余地はほぼなくなる。精巧な偽物の場合は、見抜けないので諦めるとして。
小首を傾け徽章を見ていた猫ヴァルくんは、ふん、と短く鼻を鳴らす。
『誇り高き騎士団が、子どものお守で右往左往だなんて、笑えますね』
「手厳しいなぁ。まあ付き合わされてんのは非番の時だけだし、小遣いももらえてるから俺は文句ないよ。いろんなとこ行って、いろんなもの食べられるし」
……もしかしなくてもこの人、食いしん坊だな?
至極くだらない確信をわたしに与えた熊男は、「ああそうだ」と思い出したように顔を上げる。……う、嫌な予感。
「せっかく会えたしさ、昼の質問の続きしてもいいか? あの子がなんであそこまで行ったか、なにして帰ったか。それだけでも知って帰りたいんだけど」
『そんなもの、当人に聞けばいいじゃないですか』
「聞いたけどさ、四つの子に『ほんをよみにいっただけ』って言われて納得できるか? あいつが読めるような本、あそこにゃないだろう」
実際、彼女はヴァルくんを探してやって来たわけだから、その疑念は正しい。しかしそれこそ、深く掘り起こされては困る箇所だ。
躊躇って口を開けないでいると、黒猫が不意に、大きな溜め息をついた。
『恥ずかしいのはわかりますが、隠さず話したほうがいいですよ。ユッテさん』
「えっ? な、なんのことですか?」
『――あの子どもは、私の猫妖精仲間を探していたようです。ですが、ろくに探しもしないうちに、このユッテさんが段差で転んで頭をぶつけて気を失ってしまったんですよ。歩き慣れているはずの職場でね。実に間抜けだったので、自分では言い出しづらいでしょうが』
ぺらぺらぺらぺらと絶妙な嘘八百を並べたてる猫ヴァルくんに驚くが、その嘘がここで通るなら、わたしも一切文句はない。間抜けの称号も甘んじて受け取ろう。
ダメ押しに「恥ずかしながら実はそうなんです」と身を縮めると、熊男はすぐには理解できないように目を瞬き、首を傾げた。
「猫妖精……? なんで本屋に、猫妖精を? それで、その猫妖精は?」
『さあ? 私が知っているのはそれだけですし、仲間と言ってもつるむわけではないですから。彼がどこにいるかもわかりません』
猫ヴァルくんの解答に、熊男は首を捻りながらも、とりあえずの納得はしたらしかった。持ち帰って団長に報告する、と早速立ち上がるので、残っていたクッキーを餞別に「道中どうぞ」とまとめてあげた。
……褒めてもらったし。喜んでくれる人に、食べてもらいたいし。
「いろいろとありがとう。また来るよ、ユッテさん。猫妖精くん」
『来なくていいです』
ズバァッと切り捨てる返答にも笑って、食いしん坊な騎士団員は去っていった。
……ところで、クッキーの餞別は失敗だったらしく、しばらくの間、ヴァルくんが非常に不機嫌だったことを追記しておきます。
この夜めちゃくちゃクッキー焼いた。
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