第21話 泡沫の人魚姫
「――まあ、ずいぶんと狭いんですのね」
寮の自室へ戻った途端、ぐるりと室内を見回したエウラリアは、片手を頬にあてて嘆息した。
「寮だというからもっとマシな部屋を想像してましたけど、これじゃあ、学生寮のクロゼットくらいじゃありませんの?」
「さてはエウラリアさん、お嬢さま学院の出身ですね?」
クロゼットサイズだと評された我が部屋は、しかし残念ながら、この独身寮ではまだ広いほうの部屋である。ワンルームだけど収納もあるし、小さいけれど専用のキッチンもついている。そしてなにより。
「あら! ここ、バスタブがありますの?」
キッチン横の扉を覗いたエウラリアが、驚きの声を上げる。
そう。この小さな寮の部屋には、独立したバスルームが、そして猫脚のバスタブがあるのだ。
もちろん、全部屋がそうというわけではなくて、バスタブがない部屋、バスルーム自体ない部屋、キッチンのない部屋などいろいろある。もともとは種族固有の問題に対応するための多様性だったそうだが、設備の有無で家賃額も上下するため、今となっては、みんな割と好き勝手な入居をしているらしい。一応、入浴施設もキッチンも、共同のものがあるのはあるし。
わたしは引きこもりたいほうだから、多少、家賃が高くてもいいかとここを選んだだけだ。しかしそんな話をする間もなく、エウラリアがキッとわたしを見る。
「ユッテさん。あたくし、今から水浴びさせていただいてもよろしくて?」
「は? 今からですか?」
「ええ。そろそろ手ビレを伸ばしたいと思っていましたの。まあ、思い切りそうするには、いささか狭すぎますけれど」
それは人間で言うところの『手足を伸ばしたい』と同義なんだろうか。
……まあでもそうか。もともとは水中種族なんだしね。
無理に陸上生活に合わせていれば、溜まるものもあるのかもしれない。頭を冷やすのにもいいだろうと了承して、細々した荷物とともにバスルームに篭るエウラリアを見送った。さて。
その間わたしは、夕食準備の傍らで、野次猫のためにアイスボックスクッキーを焼く。焼き立てを少し冷まして袋詰めし、咥えさせてやると、ずっと居座っていた猫は素直に帰っていった。本当にクッキーのためだけにいたのか。食いしん坊。
それから夕食の準備を終えて、片付けものも終わらせて、それでもまだ出てこないエウラリアに、ふと心配が頭を過ぎった。
……ちょっと長過ぎない? まさか人魚の風呂溺れ?
「エ……エウラリアさん? 生きてます?」
ノックをする。返事はない。え、怖い。
この寮の欠点として、個室は玄関以外に鍵がない。いつもは心もとないそれが、今回ばかりは利点に思えた。「開けますよ」と再度断りバスルームのドアを開けると同時に、ザバッと大きな水音が響き、思わずぎょっと身を竦める。けれどそれは、闖入者を咎める攻撃ではなかったようで、わたしは全身乾いたまま、そろそろと目の前の光景を見た。
バスタブの中に、人魚がいた。明るい青色の肌に続く、同じ色をした魚の尾びれ。水が滴る銀糸の髪から覗くのは、人間とは違う、ひれの形をした耳だ。どことなく顔立ちも違う気がするが、美少女であることに変わりはない。
彼女は髪を掻き上げると、真珠色の目を剣呑に細めた。
「乙女の水浴び中に、なにかご用?」
「ああいえ、用というか……溺れてないか心配になりまして。外から声をかけても返事がなかったですし」
「あら、ごめんなさい。少し、水に潜ってましたの」
「ご無事でなにより。というか……本当に人魚だったんですね。エウラリアさん」
「……あまりジロジロと見ないでくださる? 見世物じゃなくてよ」
確かに少し不躾が過ぎた。すみません、と下げる頭に「別に構いませんけれど」とかけられた声音の毒のなさに、つい、また顔を上げてしまう。
人魚姫の横顔に浮かんでいたのは、静かな思考の表情だった。自分の内面を見つめるような、苦さと厳しさを宿した眼差し。ヤスヤたちといる時には、決して見せなかった冷めた顔。
だからわたしは、今だと思った。
「エウラリアさん。少し、お話いいですか?」
「……お話? 今、ここで?」
思い切り怪訝そうな問い返しに頷くと、躊躇のための間を空けて、それでも彼女は了承した。礼を言って、わたしはドア枠に背中を預ける。
僅かに強張った顔を見て、けれど見続けることはできなくて、結局、バスルームの壁に視線を据えた。そうしてようやく、唇を開く。
「実は、とある物知りな方に聞きまして……迂闊にもわたし、知ってしまったことがあるんですが」
「……なんですの? 言いたいことがおありなら、はっきり仰ったらいかが?」
この言い口に苛立つ気持ちは、わたしにもわかる。だからわたしはヴァルくんに食って掛かったし、彼はそれを受け入れて、直球の答えをくれた。
だけどわたしにはそれができなくて、結局、遠回しな言葉を続けてしまう。
「……キューマ湖の人魚一族の始まりには、〈
「……ええ、あたくしたちの始祖ですわ。それが?」
「大昔、フィニクス帝国が、まださほど大きくなかった頃。その〈賢女〉が率いる人魚たちと周辺に住む人間たちは、長く、対立関係にあったんですよね」
それはヴァルくんが教えてくれた、一千年近く前の史実だ。彼が読んでいた例の本は、物語集などではなく、なんと当時に記された歴史書だった。
水際では小競り合いも頻発し、キューマ湖沿岸は常に緊張状態にあった。死者こそ出ていなかったが、それも時間の問題と思われていた。そうなったが最後、どちらかの種が絶えるまで、その殺し合いは続くだろうとも言われていた。
それを回避するために〈賢女〉が仕掛けたのが、
「いつの時代でも、情報は戦の要ですね。それを制するため、〈賢女〉は若く美しい人魚を人間の女性に仕立て上げ、陸へと送り出した。人魚側の情報が決して洩れないよう――魔法でその声を取り上げてから」
その作戦は功を奏し、じきに両種族内の友和革新層を結び付け、キューマ湖周辺の緊張は徐々に解けていった。その矢先にフィニクス帝国が拡大を始め、やがて当地も呑み込まれていくのだが……それは今、関係ないとして。
問題となるのは、〈賢女〉の魔法だ。
「この時〈賢女〉が使った魔法は、近年、一般で普及している
「それを、あたくしが使ったと? ……バカバカしいですわ、昔話と現実を混同しないでくださいませ。いったいどこに、そんな証拠がありますの?」
「――あるんですよ。今も、ケイちゃんの身体に」
それが二つ目。
ヴァルくんに教えられた、真実への道標。
静かに息を呑む気配に、わたしはエウラリアへと視線を向けた。目に見えて強張ったその表情に、「エウラリアさん」と深い嘆息とともに語りかける。
「あのですね、わたし自身はほとんど魔力を持たない身なので知らなかったんですが、ある程度の魔力保持者には、残存魔力の追跡というのができるんですって。そこに残った魔力から、その魔法や魔術を施した人を、ほぼ正確に割り出すことができるんです」
「…………」
「魔力が高ければ高いほど、わずかな残滓でも追えてしまう……けれどそんな魔力がなくても、専用の道具さえあれば、それができてしまうんだそうです」
だから、とわたしは畳み掛ける。
「あなたはケイちゃんを、きちんとした魔術病院へ連れて行かなかったんでしょう? 自分がその魔法の主だと、バレたくなかったから」
「…………」
この糾弾に対し、エウラリアは、なにも言わなかった。
ただ、その問いが薄れるだけの沈黙を置いて、不意に、ぽつりと呟いた。
「……あなたにならわかるかしら。ユッテさん」
「わたしになら? ……なんでしょう?」
「最初に名乗った時、あたくし、三の姫だと言ったでしょう。……上に二人、越えられない姉がおりますの」
バスタブの中で、タイルの壁を見つめて。
けれどその真珠色の目が見ているのは、おそらくもっと遠い場所だ。
「誰もがみな心酔してしまうような、気高さと賢さ、美しさを兼ね備えた一の姉さまと、誰もがみな恋してしまうような、優しさと純粋さ、可愛らしさを兼ね備えた二の姉さま」
「ずいぶん……タイプが違うんですね?」
「それは二人のことかしら、それともあたくしと比べてかしら。……いいえ、どちらもその通りですわね。〈賢女〉の話をされるならご存知でしょうけど、あたくしたちキューマの人魚は、母系一族ですの。つまり……父親が誰か、厳密には求められない」
その話は、確かに耳にしたことがあった。水上の楽園・キューマを代々治めるのは、母から娘へと継がれてきた女領主だったはずだ。その領主は特定の相手と婚姻関係を結ばず、ただ、次代に多くの可能性を残す義務だけが課されている、と。
そう応じると、エウラリアは静かに頷く。
「一の姉さまは、多くの人たちの支持を受け、いずれ領主を継いでキューマを治めていく御方。二の姉さまは、一族とご縁のある人間貴族に見初められ、いずれその後ろ盾でキューマを支えていく御方。誰もが認め、誰もが愛するキューマの真珠。……それに比べて、あたくしはなんて無意味な存在なんだろうと、思わずにはいられない姉たちでしたわ」
「……ああ」
……確かにそれは、わかるかもしれない。
出来過ぎる上を持つと、下は苦悩するものだ。同じ親、同じ環境で生まれ育って、どうして同じようにできないのかと自他ともに鬱屈してしまう。あの人たちがいるのなら、自分なんて生まれる必要はなかっただろうにと、思ってしまう。
エウラリアも、ずっとそうだったらしい。
けれど彼女は――そんな時に、ヤスヤたちと出会った。
「いじけていたあたくしに、ヤスヤさまは言ってくださったんですの――『確かにお姉さんたちもすごいが、だからと言って、エウラリアがすごくなくなるわけじゃない』って。『エウラリアにはエウラリアのいいところが、山のようにあるじゃないか』って。……初めてな気がしましたの。誰かに認めてもらえたのは」
「……そりゃあ、惚れますね」
「ええ、そりゃあもう。一撃でしたわ。あたくしはもう、姉のことも故郷のこともどうでもよくなった。この方に一生をかけてついていこうと、心に決めましたの。……だから」
息を止め、振り仰ぐ。
その顔がくしゃりと幼子のように歪む。
「だからあの子に、魔法をかけましたのよ」
笑い損ねたような顔で、泣き出すのを諦めたような顔で、それでも零れ出した涙を恨むような顔で、エウラリアは心を吐き出した。
「あたくしを頼ってほしかった。声が出ない妹のために、あたくしの同道が必要だと言ってほしかった。……身勝手なのはわかっていますわ。でも、そうして理由をつけないと、あたくし、あの時のあたくしは、身動きがとれませんでしたの……!」
求められてもいないのに、必要とされてもいないのに、自分から押しかけるだけの勇気が足りなかった。それでも、彼とともに生きたくて、行きたくて、自らその理由を作り上げたのだ。
わたしは思わず、嘆息する。
「……それは本当に、身勝手ですね」
「っ、ええ! ええ! そうですわ! あたくしは身勝手な女なんですの! 賢くも愛らしくもないうえに、己の欲のために周りを苦しめる大バカ者なんですわ!」
「でも――」
俯いて泣くその頭へ、わたしはそっと手を伸ばす。触れるとびくりと動きを止め、けれど逃げようとはしない彼女を撫でながら、わたしは感じたことを言う。
「どうやら今は、そのことを、後悔しているようですね?」
「……っ」
その問いに、答えは返らなかった。
ただ強く身もだえて、嗚咽を殺したような息を上げる彼女の悔いが、焦げつくようなその想いが、わたしの胸にも滲みるようで。
服が濡れるのも構わなかった。
わたしはその肩に腕を回し、自ら生み出した苦しみに溺れかけている人魚姫を、ほどけて消えそうなその存在を、しばらく抱きしめ続けていた。
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