第3話 彼の望み


 その後、カイルさんにも手伝ってもらって、店内くまなく隅々まで確認して回ったけれど、あの全裸の子どもを見つけることはできなかった。


「新しい幽霊ゴーストでも憑いたのかね。そうなら登録したいんだが……」


 城内に浮遊する幽霊は、すべて警備の管理下にある。凶霊レイスレベルのものは百年前にすべて浄霊されてしまったとはいえ、知らない霊体がうろついているのは、警備上さすがにまずいらしい。

 けれど、見つからないものは仕方がない。その日はそれで終わりにして、わたしは店をきっちりと閉め、カイルさんと別れて帰宅した。


 ……たぶん、わたしの気のせいだったのだろう。


 きっと、ずっと一人で漫画本を相手にしていたせいだ。疲れからくる幻覚・幻聴の類いだろう。幼児の裸体が出てくるような漫画ではなかったけれど……まあそれはそれで、ともかくとして。

 あれは夢だ。きっとわたしの夢だったのだ。



 ――そう、思おうとしていたのに。



「あっ! おはようございます、ユッテおねえさん!」

「…………はい?」


 どうして翌日、真っ昼間に、向こうから声をかけられたりするのだろう。


 すっきりとしない前夜祭の夜を越え、またも昼出勤だった記念式典の当日。制服に着替えてバックヤードを出た直後、駆け寄ってきた子どもの姿を認識した瞬間に、わたしの頭はいったん処理落ちした。すこーんと。


「? どうしたんですか? おにいさん、おねえさんだいじょうぶですか?」

「ああ、大丈夫大丈夫。ちょっと待っててね」


 小首を傾げる小さな生き物に気軽に答え、こちらに寄ってくるのは男性アルバイトのハンスだ。種族はわたしと同じ人間で、年齢はひとつ下の十八歳。明るい赤毛と明るい碧眼で、見るたびに、わたしはニンジンを思い出す。


「ほらほらユッテさん、この子、朝イチからずっとユッテさんのこと待ってたんすよ。健気じゃないっすか。子どもが苦手なのは知ってますけど、ちゃんと喜んであげないと」

「…………朝イチからって」


 なんとか復旧したわたしは、軋みそうな首を動かしてハンスを見る。


「なんで?」

「えっ、なんか約束してたんでしょ? ほらほら、今ならお客さん少ないっすから、ちょっとおしゃべりしてきたらどうっすか?」

「ちょ、ちょっと……!」


 ぐいぐい押されて、カウンター前で立ち止まっていた子どもの前まで連れていかれる。「ほい、お待たせ。それじゃ、ごゆっくり」なんて無責任ににっこり笑って去っていくハンスに、なすすべもなく、わたしはちらりと子どもを見た。


 さらりとした黒い髪。大きく丸く、紅い瞳。抜けるように白い肌は――嗚呼、それだけは感謝します神さま。昨日の衝撃的な記憶とは違い、仕立てのよさそうなシャツと半ズボンで覆われているけれど。


 間違いなく、昨日の子どもだ。


 絵画から抜け出てきたかのような整った顔立ちも、わたしの腰までしかない身長も、昨日の記憶と寸分たがわない。それなのに、前述の服装と子どもらしくコロコロと変わる表情、そして舌が回り切らない幼いしゃべり方のせいで、まったくの別人のように見える。


 ……もしかして双子? それともドッペルゲンガーとか?


 黙って混乱しているわたしを、子どもの紅い瞳が見上げてくる。その上の形のいい眉が、不意に八の字に変わり、ひどく不安そうに表情が歪んだ。


「おねえさん、だいじょうぶですか? ぼく、めいわくでしたか?」


 無邪気な眼差しが心に刺さる。罪悪感がものすごい。


 ……子どもは嫌いだけど、小さい生き物は嫌いじゃないのだ。今のこの状況は、まるで濡れ衣で叱られた子犬を見るようで、胸の痛みが尋常じゃない。


「め……迷惑では、ないですよ」


 確かにそっくりではあるけど、この子はあの全裸幼児とは別人なのだ。

 なにも悪いことはしていない。店内で鬼ごっこをしているわけでもないし、超音波攻撃かと思う奇声を発したわけでもない。平積みした本の上に座り込んだわけでもないし、買わない本を好き勝手に立ち読みしているわけでもない。――まして全裸でいるわけでもないのだから、なにもそこまで、警戒する必要はないはずだ。


 そう思い、強いて笑顔を貼り付けるわたしに、相手は「ほんとですか?」と顔を輝かせる。

 そして――にっこりと、血色の双眸を笑みに細めた。


「それじゃあ少し、向こうでお話しましょうか? ユッテお姉さん」


 ……別人、なんだよね?





 昼食を挟んで続く記念式典のほうへ客足が流れている分、確かに、今の店内には人影が少ない。それでも勤務中、あまり遠くへ行くわけにもいかず、わたしは黒髪の子どもを連れて、レジ裏の作業スペースに陣取った。

 いつもは店着した荷物の開封作業に使う場所だけど、今は祝祭連休中につき荷物がないので、ガランとしている。その隅に畳んであった脚立を広げ、ついてきた子どもを座らせて「それで」と問いかけた。


「わたしになにか、ご用ですか? 特にお約束をしていた覚えはないんですが」


 脚立に腰かけ、脚をぷらぷらさせている子どもは、ことりと首を傾ける。


「おやくそくはないんですけど、おねがいがあるんです。きいてもらえますか?」

「……聞くだけなら聞きますよ。叶えられるかどうかは、聞いてみないとわからないですが」

「むう。いいですよって、いってくれないんですか?」

「できない約束はしたくないんです」


 そう答えると、むすっと唇を尖らせる。

 そんな実に子どもらしい仕草とは裏腹に、次にその口から流れ出したのは、芝居がかったやけに大人びた溜め息だった。


「――思いのほか慎重ですね。まあ、そちらの是非に関わらず、貴女には私の望みを叶えてもらいますが」


 ……ん、んんんんんんんんんん!?


 驚愕の叫びを喉奥で阻止したわたしを、誰かとびきり褒めてほしい。

 その声と口調には覚えがあった――どこか面白がるような、見た目にそぐわない落ち着き払った声。そして自分のことを『私』と呼び、慇懃無礼とはこのことかと納得させられるような丁寧口調。

 それは昨日の夜、わたしに『この城の城主だ』と告げた声音に、そしてその話し方に間違いなかった。


 ……つまりあれは夢でも幻でもなく、目の前の子どもは、双子でもドッペルゲンガーでもないってこと? でも、それじゃあこれは、どういうこと?


「な、なんなんですか、あなた? 昨日といい、今日といい……!」


 思わず及び腰になるわたしに、相手は軽く肩を竦める。


「昨日のことを覚えているなら、私が何者かも知っているでしょう。だからこそ貴女ごときに、こうして声をかけているわけですしね」

「わ、わたしごとき……!?」


 なんちゅう物言いをするやつだ、とついつい顔を顰めたわたしを、相手はフンと鼻先で笑う。小憎たらしいその様は、さっきまで「おねえさん」とか言っていたのと同一人物だとは思えない。平たく言って、可愛くない。


「相手との力量差がわかるほどの魔力もない貴女など、『ごとき』で十分でしょう。今はともかく、昨夜はろくに、魔力放出を抑えていなかったというのに」


 あれで気付かない相手がいるとは思いませんでした、なんてにこやかに皮肉を言われても、内容的に、わたしにはぐうの音も出せない。


 ……確かに、わたしの魔力はミジンコだけど! 直で言われると腹が立つ!


 煮えくり返りそうな胃の腑を押さえて、けれどわたしは勤務中、にこやかに微笑みを貼り付け直して問い返す。


「じゃあ、なんなんですか? どうしてに、こうしてお声がけいただいてるんですか?」

「言ったでしょう。私の望みを叶えてもらうためですよ」

に叶えられるお望みなんでしょうか?」

「今のところ、貴女にしか叶えられない望みですね」


 動揺の欠片もなく笑顔を崩さない相手に、なんとも言えない気持ちが滲む。背筋が冷える気がする一方で、はらわたの煮えは収まらない。


 ……子どもだか魔王だか知らないけど、ムカつくことに変わりはないな。


 笑顔で睨み、睨み返される時間が何秒か。

 ふいに鳴り響いた西塔の鐘の音に、はたと我に返って壁時計を見た。うわやばい、結構時間がたってる。早く仕事に戻らないと。

 不毛なことをしている場合じゃなかったと、わたしは大きく息を吐いた。


「……それで。わたしはなにをすればいいんですか?」


 よほどのことなら誰かに言いつければいい。簡単なことなら、適当に相手しておけばいいだろう。大人らしく、そう自分で落としどころを作ったわたしが話を進めると、相手は満足そうに頷いた。小憎らしい。


「ひとつには、正規手順での壁面書架の閲覧許可です」

「閲覧許可?」

「自力で入り込めないわけではないですが、無理を通せば面倒も多い。あの赤毛男に聞きましたが、貴女は店の主の信頼が篤いそうですね? その貴女から許可を出してもらえれば、この姿でも問題なく出入りできるでしょう」

「それはできるでしょうけど……上でなにをするんですか?」

「決まっているでしょう、本を読むんですよ」


 危険なことをするんじゃないだろうな、と胡乱な目で見据えても、澄まし顔のままさらりと答える。……本を荒らすタイプにも見えないけど、なんせ昨夜、『ナーハフォルガーの書』を凝視していたからなあ。ちょっと信用しきれない。

 それへの答えは保留して、わたしは先を促した。


「ひとつには、ということは、まだ他にあるんですよね?」

「ええ、あともうひとつ」


 そう頷いた自称・魔王城の主は、すっと人差し指を立てる。

 そして、にこりと子どもらしく無邪気に笑った。


「貴女を、私の案内役に任じます。――私に、この城内を案内しなさい」

「……はあ?」




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