第2話 前夜祭の夜


 我らが〈魔王城モール〉は、かつて〈フィニクス帝国〉という強大な国の首都があった荒廃地を臨む、遥か海上にある。


 魔王に滅ぼされた都の跡地は、百年たった今でも復興が難しく、遺跡という名の瓦礫の山だ。かろうじて湾岸部に沿った街並みが再建され、魔王城が中心にそびえる島――通称〈魔王島〉への船を出しているが、物流拠点としても観光客の足がかりとしても不便なため、正直あまり栄えてはいない。

 そのため、〈魔王城モール〉へのアクセスは、東の海都グロースメア発の船便が主体とされている。一応、モールには飛行騎獣の発着場もあるけれど、そちらを使うお客は全体の二割程度だ。そもそも飛行騎獣自体が高価だから、当然ではある。


 その飛行発着場が、今日ばかりは大賑わいだった。


 総動員された城内警備や臨時の厩番がフル回転で迎えているのは、各都、各種族の指導者層たち。今日の前夜祭と明日の祝祭式典を中心に、〈魔王討伐百周年祭〉のために集まってきた、お偉いさま方だ。


「さすが、警備が物々しいですねえ」


 今日の前夜祭は一般人にも開放された自由なものだけれど、すでに城内各所、それぞれの警護官や衛兵が固めつつある。かつての魔王派はさすがに絶えていないけれど、来城者を巻き込んだテロを警戒する意図もあるらしい。大変だ。

 バックヤードの窓から中庭を眺めるわたしに、午後の事務処理をしていた副店長が「手が止まってますわよ、ユッテちゃん」と注意しつつ応じる。


「半数は首都へ分かれているとはいえ、世界中からのお客さまですもの。わたくしたちも、失礼のないように気をつけなくては」

「そうですねえ、今回ばっかりは『二度と来るな』じゃすみませんもんね」

「ええ、そうです。……そのためにも、まずはその山を片付けてくださいね」

「……あっ! はい!」


 にっこりうふふ、とお上品な威圧に、背筋を伸ばして作業再開する。


 わたしは今、入荷してきた漫画本を機械に通して、購入まで中を開けなくする魔法を施している最中だった。先日の竜人マダムが熱を上げておられた、あの作品の既刊分だ。補充が大量入荷したので、機をみて地道に進めている。


 ……面倒だけれど、これをしておかないとひどい目に遭う。お客のほうが。


 かつて、うっかり魔法洩れした商品を立ち読みした小鬼ゴブリンが、副店長に心身ともに嬲られて、どんな回復魔法でも治らぬ傷を負った――なんていう店長から聞いた昔話を励みにして、わたしは地道な作業を続けた。





「……さて。そろそろ時間ですわね」


 そう言って副店長が腰を上げたのは、夕方六時前だった。


 いつもは夜八時まで営業している〈魔王城モール〉だが、今日だけは城内全店、夕方六時の閉店だ。もちろん、それもこれも前夜祭のためである。

 城壁門から正面入り口までに広がる広大な前庭には、大陸各地からの出店が集まり、わたしが出勤してきた昼頃には、すでにほとんどのお客が城内ではなくそちらにいた。広場で行われる前夜祭のメインイベント・フロイデ歌劇団による『勇者叙事詩』の上演が夕方六時半からなので、今頃はたぶん、城内すっからかんだ。


 閉店準備に売場へと向かった副店長を横目に、わたしは、ようやく三分の一まで減った漫画本を機械にかけ続ける。

 今日のわたしは、遅番なのだ。主要任務は、明日の準備と閉店後作業である。

 前夜祭をほぼスルーする役回りなので、みんなには申し訳なさがられたけど、わたしはうるさいのもお祭り騒ぎも苦手だから、適材適所というやつだ。


「それじゃあユッテちゃん。後のことは、お願いいたしますわね」

「はあい。お疲れさまでーす」


 レジ係の木の精霊ドライアドちゃん、実用書担当の小犬人コボルトさん、雑誌担当の人間アルバイトくんを見送って、そそくさと帰っていく副店長にも手を振っておく。……実は彼女、フロイデ歌劇団に推しがいるらしい。その足取りは非常に軽やかだ。むしろちょっと浮いてる。


 唯一の出入り口である樫材の扉を閉めると、店内は、途端に静まり返る。

 微かに届いていた前庭の喧噪も絶えた中、わたしは大きく息をついて、四分の一まで減った漫画本を機械に通し続けた。





「……うひい、終わったぁあ!」


 午後四時から始めた通し作業は、七時を過ぎてようやく終わった。

 いくら売れるからって入荷し過ぎだよ。八十年前からの人気連載なんて、巻数だけでも百六十を超えるのに。各十冊でも千六百冊だぞ。

 ずっと同じ作業を続けて、目、肩、首がゴリゴリだ。本屋とは、かくも過酷な商いである。なんて。


「……少しだけ売場に補充して、後は倉庫に置かせてもらお」


 さすがに全部を店出しは無理だ。いそいそとワゴンを押して倉庫に向かい、誰かが開けてくれていたスペースに、ありがたく在庫を山積みさせてもらう。

 出てきて見上げた壁時計は、そろそろ八時を回るところだった。


「よし。もうじゅうぶんでしょ。今日もよく働きました!」


 終わり終わり!と両手を打って、閉店作業のため店内を回る。


 我らが〈魔王の書庫〉は、その名の通り、もともと例の魔王が書庫として使っていた部屋を利用した書店だ。書庫とはいえ、その広さは中等学院の講堂にも負けないほど。中二階と二階の壁面をぐるりと本棚が巡り、各地の古書や文献がみっしりと収蔵されている――もちろん、それらは商品ではない。がっちりと諸々の魔法で守られたその壁面棚は、限られたものだけが触れられる不可侵領域だ。

 販売可能な商品が陳列されているのは、かつては書見台やテーブルが置かれていた中央床面のみ。そこだけでも中規模なダンスホールほどの広さはあるため、書店としてはじゅうぶんに機能する。まあ、普通に家一軒が建つ広さだしね。


 荒れた売場を整頓しながらぐるりと回り、バックヤードから持ってきたミルクとクッキーをレジ隅に並べて置く。夜間清掃の家事妖精ブラウニーへのお礼だ。これを置いておかないと、二度と掃除してもらえなくなる。


「よしよし。じゃああとは、上をチェックして帰りますかー」


 閉店後作業の最重要事項を終えたわたしは、一応の規定に従って、中二階へと足を向ける。ガッチガチに守護魔法がかけられた場所で、間違いなく城内でもトップクラスの安全地帯ではあるけれど、開店時と閉店時の見回りは必須なのだ。

 一分の隙間もなく本棚で埋め尽くされた中二階とは違い、二階部分は、本棚同士の間に開閉可能な縦長い窓がある。北側はもちろん、南側や東西方面も、絶妙な計算の元で作られたその窓から入る光は、決して本棚にはかからない。適当な設計では成しえないその技術力は、さすがは魔王の城ということだろうか。


 ……めちゃくちゃ本好きだったんだろうな、ここの魔王って。


 歴史の授業で習っただけでは、とにかく残酷で残虐な暴君という印象だったけれど、この書庫を見ていると、ちょっとイメージが変わってくる。


 本に囲まれたこの静寂の中、魔王はいったい、なにを思っていたのだろう。


「……なんてね」


 魔王は魔王だ。魔を統べる王だ。世界の破滅以外のことはきっと考えない。

 一人虚しく肩を竦め、過ぎ去った季節に思いを馳せるのをやめたその時、ふと、視界の隅でなにかが動いた気がした。


「ん?」


 見やった先は、二階東側に作られた閲覧スペース。一階部分にやや張り出すように作られた手摺りの曲線の突端には、この〈魔王の書庫〉の象徴たるものが、宙に浮かんで緩く回転している。


 『ナーハフォルガーの書』――蔵書の中でも最高ランクの危険魔導書だ。


 内容はもちろん知らないが、百年前の聖女の〈聖紋〉結界に封じられたそのさまは、嫌でも目につき、記憶に残る。

 その結界が放つ淡い光の陰で、なにかが動いた気がしたのだ。


 ……いやでもまさか。ここにはわたししかいないはず。


 そうは思えど、放置もできない。もしも侵入者なら大目玉だ。それはまずいと腹をくくって、足早に近寄り結界の向こうを覗き込んだわたしは、


 ――そこにいた、全裸の子どもと、目が合った。


「えっ……」


 闇のような黒い髪。宝石のような紅い瞳。そして生まれたままの白い裸体。

 絵画から抜け出したかのような、幼くも美しい男の子がそこにいた。

 あまりに現実味のない光景に、一拍置いて息を吸い込んだわたしは、考えるより先に叫んでいた。


「――全裸はまずいですよ! お客さま!」


 全裸はまずい。いくら幼児でも、閉店後の本屋で全裸はまずい。


 しかもここには、わたししかいない。誰かにこの状況を見られたら、完全にわたしが犯罪者だ。幼児趣味の危ない人間だ。逮捕で退職でお先真っ暗だ――と混乱のあまりそこまで一瞬で考えたわたしは、「……いや待てよ」と思い直した。

 わたししかいないのはラッキーだ。誰もこの状況を知らないのだから。今すぐ服を着せて城内警備に引き渡せば、わたしは保護側の人間になれる!


 一瞬に一瞬を重ねて、ここまで二秒かからなかった。


 すぐ退勤できるよう羽織っていたカーディガンを、全裸幼児に被せるべく脱ぎかけた、その時だった。


「城主たる私が、どこでなにをしていても、まずいということはないはずですが?」

「…………は?」


 城主? 今この子、城主って言った?

 落ち着いた、面白がるような声音は、確かに目の前の子どもの口から出た。

 けれど、それが意味するところはとっさに理解できなくて、わたしは、間抜けにも問い返した。


「城主……っていうのは、この城の主、という意味ですか?」

「この百年で、言葉の意味が変わっていなければ」

「…………この城は一応……魔王城、なんですけどね?」


 にこり、と微笑んだ紅い目が、血濡れたように光った気がした。

 思わず後ずさろうとしたその時――ガチャン、と樫材の扉が開く音が、静寂の中に大きく響いた。


「おーい、まだ誰か残ってるのか? そろそろ退城準備しろよー」


 耳慣れた声に、はっとして振り向く。見慣れた警備兵の獣人顔が、唯一の出入り口たる扉のそばから、こちらを見上げて片手を上げた。


「おう、ユッテ。そんなところで、なに固まってるんだ?」

「カイルさん……!」


 ああよかった、常識的な大人が現れた!

 そう安堵して目線をもとに戻したわたしは、直後「え!? あれ!?」と声を上げた。


「どうした? なにかあったか?」

「い、今ここに、子どもが一人、いたはずなんですけど……!」


 魔導書が回る〈聖紋〉結界の光の下、それを見上げるように佇んでいたはずの姿が、どこにもない。逃げるような音も気配も、なにもしなかったはずなのに。


 全裸の子どもは、跡形もなく、消え去っていた。




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