五十日

ただの柑橘類

五十日

「まーだデスかねぇ」

 不格好な石造りの上に座り、パタパタと足を動かす。

 もう何ヶ月待ったことか。私の身体は、とある日を境に止まったままだ。

 私には、同じ歳である大学二回生の彼氏がいた。一ヶ月前に帰ってきてはお花をくれたのに、今月に限っては一向に彼は来ない。

 背の小さな私の視線から見えるのは、いつもの不甲斐ない海の景色だけ。寄せては返すさざ波の音、広がりゆく入道雲は、さながら夏を思わせてくれる。

 私は夏が嫌いだ。特に八月は暑いし、遊びに行こうにも外にも出たくない……そんな憂鬱な日々が続く。夏が暑いのは当然だけど、特に今年は異様に暑いような気がした。先月の記憶だと、三十五度よりは下回らないとかなんとかって言っていなかったっけか。

 なんて考えていると、私の隣に家族連れがやってきた。

 腕につけていた時計を見ると、時刻は十二時五分。この時期はよく家族連れが花を持ってやってくる。

「おじーちゃん、こんにちは! 〇〇です!」

 一際小さな女の子が、私の隣にある石造りに向けて元気よく挨拶をしている。恐らく初めて会うのだろう。この子の祖父であろう老人が、ニコニコとしながらふわっと女の子の頭を撫でた。

「! おかーさん、今おじーちゃんが目の前にいるよ!」

 あぁ、霊感のある子供なのかな。

 私もよく視えることが多い。片目の取れた男の子、首のない女性、何故か仮面ラ〇ダーのコスプレをしている面白いお兄さん……幼き頃から、それらが視えるのはなんら普通のことだと思って母に「あそこに男の人がいる」と言っていたが、歳を重ねていざ考えてみると普通ではないことに気がつき、それ以上言うことは無くなった。

 コスプレのお兄さんとはよく話をしていた。今はいなくなって、どこにいるのかも分からないけれど、そのお兄さんのおかげでアニメが好きになったと言っても過言ではない。

 だから、自分と同じ境遇に見舞われている女の子が少し微笑ましく思えた。

 と、私に気づいたのか、その女の子は私に手を振ってくれた。

「あそこにもね、綺麗なワンピース着たおねーちゃんがいる! いいなぁ、〇〇もあんなワンピース着てみたい! ドレスみたいで可愛いでしょ!」

 よく見ると、女の子の親御さんも霊感があるようで、ぺこぺことこちらに頭を下げた。

 そんな、別に頭を下げなくても。

 ……そう言いたかった。

「帰りに買ってあげるね」とその子のお母さんが言い、女の子の手を引いて歩き始めた。それでも女の子は私に手を振ってくる。微笑みながら振り返すと、女の子はニパッと笑って親と手を繋いで歩いていった。

「……可愛い」

 両手で顔を覆い、私は呟く。私にもあんな妹がいたら……と心底思う。ただ生憎ながら、私は一人っ子だ。小さい頃から妹が欲しいと思っていたが、果たす前に大人になってしまったな。

「お、いたいた」

 その声にバッと顔をあげる。

「まこちゃーん! 来ないかと思ったデス!」

「ごめん、遅くなったよ」

 焦げ茶色の髪の毛に青の瞳。涼しそうな燕尾色のTシャツに、膝上まである黒の短パンを履いてきていた。肩にはカバンを下げており、中には色々と入っている様子だった。中に何が入っているのかまでは分からないけれど、いつも軽装な格好をしていた彼は出かける時によく忘れ物をしてきていた。今となっては懐かしい。

「全く……何日待ったことか」

「いやぁそれにしても暑い。変わってないなぁ、これも」

「あはは……でも海沿いデスから、大丈夫デス」

 ひょいっと石造りから降りて、地面に足をつく。影のない自分の足に、ザリザリとした砂利の感触が襲ってくる。

 と、まこちゃんは石造りに水をかけ始める。鳥のフンなどはついておらず、私のはまだ真新しい。

「……すみれ

 私の名前を呼ぶ彼は、少し悲しげな顔をしている。六月まではあんなに元気そうだったのに。

「聞いてくれ。今度実習に行くんだ。場所は愛知県。中学校の見学さ」

 花の菊をハサミで切り落としながら、まこちゃんはサラッと私の知らないことを言う。

「へ!? 実習って……授業!?」

「たまたま呼びかけがかかったんだ。誰も行こうとしないから、俺が手を挙げてやった!」

 意地悪そうに笑う彼の顔を見て、つられて私も笑ってしまう。

 明城真琴みょうじょうまこと……もとい、まこちゃんと私は、長野にある教育大学の同じ教育学部で、偶然隣の席になって知り合った同期だ。それからアニメの話で意気投合して、最終的には付き合うまでに発展した。

 私も私で彼氏などできたことはない。最初はがちがちだった。でもまこちゃんが「いつもの感じでいい」と優しく教えてくれたことをはっきりと覚えている。

「お前の代わりに頑張ってくるから。ちゃんと見とけよ?」

「もちろん! とは言っても、私はここにいなきゃいけないんデスけどね」

 するとまこちゃんは立ち上がり、「さて、行きますか」と言いながら、石造りに座った私の膝に手を置いて言う。


「また、来年な」


 しかし、その手は私には届かない。彼は笑っているけれど、その笑顔は、私がいなくなった時よりも澱んで、そして酷く寂しげな雰囲気を醸し出している気がした。

 私も彼の暖かい手に触れたい。でも、それが出来るのは、まこちゃんがもっと歳を取ってからになるだろう。私は石造りから身体を離し、私に背を向けた彼の背中に触れる。暖かさも、感触も、何もかも感じることは出来ない。

「大丈夫デスよ。菫が傍にいますから」

 そっと、背中を押してあげた。すると、歩き始めていたまこちゃんの身体が急にピタッと止まる。

 ゆっくりと振り向き、「菫……?」と私の名を呼ぶ。

 ここにいるよ。

 そう返したかったけど、あなたには届かない。

 私は、あなたには見えない、触れられない、感じ取れない存在。だからこそ辛い。

彼は微笑んだ。その微笑みは、今日見た表情の何よりも純粋に見えて、私は少しホッとした。

 あぁ、また会えなくなるのね。彼の背中は、無常にも段々と小さくなっていく。それは奇しくも、私には寂しく見え、一人ぼっちにさせてしまった嫌悪感と泣きそうな思いで溢れかえっていた。


「また、明日」


 背中に向けて、一言云う。聞こえなくても分かっているはずだ。だってあの子は見えるのだから。この先、どんなに辛いことがあっても、真っ直ぐ前を向いて欲しい。それがまこちゃんの名前の由来だということはよく知っている。何度も聞かされたことだった。

 気がつけば、頬から滴り落ちる涙に手を添えていた。どうして泣いているのかは分からない。悲しい理由が分からない。どうして? 彼はもうこの空間にはいないのに。

 それが寂しいのかな。それが悲しいのかな。仕方ない、私はもう彼の傍にはいられないのだから。

 ふと上を見上げる。日差しが頬を照りつけ、涙なんて今にも乾かされそうだ。

 私はそんな夏の景色に一人、下り坂の向こうに見える街並みをじっと見つめていた。


 ────この日、私は死んでから五十日目の夏を迎えた。

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五十日 ただの柑橘類 @Parsleywako

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