デッドロック・ヴェルトエンデ

【デッドロック、世界の終わり】



 のっぺりとした浮遊感があやかを包む。まるで水中を漂っているかのようだった。だが、足は着くし呼吸も出来る。頭上に浮かぶ鋸鮫ノコギリザメの数に警戒しながらも、周囲を見渡して身を伏せる。


『右だ。ネガを刺激させるな。使い魔にも気取られるな』

(なんだ、アレ⋯⋯?)


 抜身の刃。刀身だけの剣が山のように突き刺さっていた。よく見ると、その隙間からデッドロックの槍が覗き、小刻みに揺れていた。まるで生け花の剣山のような有り様になっているエリアにあやかは身を滑らせる。


「⋯⋯来たか」

「なんか頭に声が響いたんだけど、なんだったの? めっふぃみたいでびっくりしたぞ」

「あたしの固有魔法フェルラーゲンだ。気にするな」

「ひょっとしてすごい適当なこと言ってない?」


 そんな軽口はすぐに引っ込むことになる。デッドロックの身体で隠れているが、力無くだらりと伸びる手が見えた。嫌な、予感。あやかはデッドロックを押し退けて、先へ。


「どういうことだ、オイ」

「あたしにも分かんねーよ⋯⋯あのネガが、こいつを」


 衣服がはだけたスパートの、。ぞくりとした。過去のループでの真由美の死体を思い出す。まるで、腹の奥底に鉄球でも乗せられているみたいだ。


「ネガが、なんなんだ」

「見ろ」


 見える肌。スパートの肉体に、色を喪った矢印がいくつも刻まれていた。マーキングのような、そんな痕が。


「これは⋯⋯⋯⋯?」

「出るぞ」


 スパートの死体を抱えながら、デッドロックが走り始めた。剣山が形を失う。瓦解する氷山のように、水へと溶けていく。

 あやかはデッドロックと並んで走った。彼女の見据える先、浮かぶネガの姿に足が竦む。

 まるで、深海魚。巨大な、巨大な、十メートルはあるだろうか。淡くへきに輝く鱗が結界内の空気を押し退ける。くり抜かれた眼窩から、涙のような剣が落ちた。さっきまでの剣山は、これのようだ。巨大植物のネガも大概だったが、これも常軌を逸している。


「スパートは、コレを生んでこーなった」

「は⋯⋯⋯⋯?」


 聞き違いかと、そう思った。

 だが、デッドロックは確かに言ったのだ。


「その矢印がなんなのか分かんねー! けどな! あれは確かにスパートなんだ! どうにかしねーとやべーだろーがッ!!」


 ネガが、口を大きく開けた。エラまで裂ける大口。その中をびっしりと埋め尽くす牙。ネガは、剣を落としながらこちらに突進してくる。


「具体的に、どうやって?」


 あやかの拳が下顎を受け止める。デッドロックがネガの口に大槍を差し込んだ。つっかえ棒となった大槍を支えながら、デッドロックは言った。


「方法が、見当もつかねー⋯⋯でも、やらなきゃ。だって、こいつは――――ッ!!」


 らしくないその言葉に、あやかは視線を向けた。はっとする。大槍を支える両腕に、赤く燦々と矢印が輝いていた。心臓に、マギアの急所に向かうマーキング。


「――――チッ! どーやらあたしもやられてたみてーだな。め、なにもかもぶっ潰して⋯⋯」

「デッドロックッ!?」


 大槍が砕ける。ネガの咬合力こうごうりょくがデッドロックの槍を凌いだのだ。噛み潰される前に、あやかがロードの魔法で掻っ攫う。ネガの突進は止まらず、その巨体に弾き飛ばされて二人は転がった。


「――スパートを、助けたい。じゃないと、あたしは⋯⋯」

「――ああ、助けよう。俺たち、二人で」


 状況は分からない。そんなことは、ずっとそうだった。それでも、あやかは掴みたいもののために戦ってきたのだ。だから、今回も。泣き虫の深海魚が、再びこちらを見る。

 その、直後。

 空間が軋んだ。







 軋む。歪む。

 空間そのものが深海魚を締め上げていた。


「ネガが――――⋯⋯」


 全身の像を歪め、奇怪なオブジェのような有様でネガが沈む。結界が霧散していく。ようやくいつもの重力を取り戻した。だが、これは一体。

 あやかは隣を見た。スパートの、御子子寧子という少女の亡骸を抱きながら、彼女は涙を落としていた。その光景が何より信じ難くて、あやかは口を開くことができない。

 悲しみではなかった。

 そこにあるのは、絶対的で、圧倒的な――――憤怒。



「ジョーーーーーカーーーーー!!!!


 てめええ裏切りやがったなああ――――ッ!!!!」



 空気が震えた。ビリビリと全身の肌が焦げつく。デッドロックが叫んだその名前を、あやかは知らない。ただ、デッドロックが密かに組んでいた相手であるのは察せられた。


「⋯⋯なにがあったの」

「正義が壊された。スパートの奴が殺されたんだ」


 涙に潤んだ声で、デッドロックは言った。言葉の芯に怒気が乗る。あまりの憤怒に、正常な状態ではないのが一目で分かる。

 けれど。

 どうなのか。

 マギアになって。果たして正常でいられた瞬間なんて、ほんのひと時でもあったのか疑わしい。あやかは、泣いている少女に両腕を伸ばした。


「ぁ――つッ!?」


 抱擁は、凄まじい熱量に拒絶された。デッドロックに刻まれた赤い矢印が毒々しく点滅する。まるで、全身が噴き上がる憤怒を心臓に送り込んでいくように。


「正しく在ろうと、そんな姿を」

「⋯⋯俺は見てきた」


 スパートの死体が、あまりの熱量に燃え上がる。業火に包まれながら、デッドロックは慟哭した。あやかには、その激情が伝わった。

 どうしようもないのだ。

 どうしようもなく、そんな自分が何より許せない。


「あいつは、痛い目見ても馬鹿みたいに突き進んで――昔の自分みたいだった」

「今も、アンタは掴もうとしている。諦めてなんか、捨ててなんかいないはずだ」


 瀬戸際で、崖っぷちだった。

 デッドロックは危うい均衡で繋がっている。彼女の抱えてきた全てが、爆発しようとしていた。積み重ねてきた憤怒の爆弾。その導火線が燃え盛る。


「おかしいだろ。なんでそんな奴が報われないんだ。ヒロは、スパートは⋯⋯あたしは、どうしてこんな――――!」

「まだだ。まだ終わってない! だからまだ戦えるはずだ!」


 言葉を重ねる。想いをぶつける。

 あやかには、もうそれしか出来なかった。


「もう、駄目なんだ⋯⋯何も感じない、何も動かない⋯⋯あたしはもー、とっくの昔に壊れちまってる⋯⋯⋯⋯あの家で、全部焼き尽くされた」

「そんなことない! 俺はアンタの槍に憧れた! デッドロックの正義は確かにトロイメライを動かしたんだぞ!」

「ヒロ、スパート⋯⋯……ジョーカーの奴、スパートを味方に引き入れるのは反対だって⋯⋯無茶言いやがった」

「俺がいる! そんな奴と手なんか切って、こっちに来い! 二人で『終演』を倒そう! 俺たちでヒーローになるんだ!」

「スパートは――――あたしに残された最後の希望だってのに」

「こっちを見ろよッ!! アタシを見てくれッ!! 一緒にッ!! 俺たちでヒーローに! 『終演』を――――」


 伸ばした腕を、炎が這い上がる。反射的にあやかは手を引っ込めてしまった。デッドロックとの距離がどんどん遠のく。



「誰にも理解されない辛さが分かるか?」


「望んでいた結末が、望まれていなかった現実が分かるか?」


「ヒーローは、あいつらみたいのが相応しい、あたしの希望だ」


「こんなあたしが光り輝くことなんてない」


「何もかもを放棄したあたしに、光は当たらない」


「正しく在ろうとした奴が喰い物にされていく⋯⋯正義なんて、本当は無いのさ」



「正義はある」

――どうして俺じゃダメなんだ

「アンタはまだまだ戦える」

――俺じゃアンタの希望になれないのか

「一緒に『終演』をッ!!」

――何で……みんな、離れていく



「⋯⋯チグハグなんだよ。お前の言葉は」

「アタシじゃあ、どうしてダメなの……? なんで俺じゃあダメなんだ」


 なんで、希望になれない。

 一緒になれない。

 離れていく。

 

 そんなの、ヒーローなんて程遠い。マギアとしても、一人の少女としても最悪の末路。どこまでも、惨めで、情けない、そんな救いのない結果。


(俺の戦いは、一体なんだったんだろうな――――……)

「呪ってやる」


 もはや、デッドロックの目はあやかを映していなかった。怒れる少女が見るのは、世界そのもの。陽炎が揺らめく。正義を炙る世界に、精一杯の憤怒を。


「正義は正しいんだ。あたしたちは正しく在った。なのに、どうして世界は祝福してくれないんだ。嘲笑うように、全部破滅させていくんだ」


 怒りを通り越して、それは呪詛になった。

 ままならない世界に人生を翻弄された、そんな一人の少女の呪い。ままならない想いが積み重なった爆弾。


「だったら、そんなの――――――――」


 誰にも理解されず。拠り所になった全ては焼け落ちた。自棄になったその身が、怒りを、呪いを、募らせる。呪詛の魔法が顕現する。



『そんな世界を、絶対に許さない』


「フェアヴァイレドッホ――――袋小路デッドロック







「なんで、だよ…………どうして……こんな…………――――」


 燃え盛る地獄の業火。世界はただただ燃え上がる。陽炎がその身を起こした。


――――ネガは、世界に呪いを振り撒く異形の怪物


 今なら、その言葉の意味がよく分かる。

 折り重なるように、デッドロックとスパートの肉体が炎上していた。そのどちらも魂が抜けていて、要するに死体だった。


――――その魂を濁らせるというのならば、君自身がネガに飲み込まれてしまう


 デッドロックは、本当の意味で正義を諦めてしまったのだ。

 ここは――――――――この異界は、

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