メフィストフェレス・フェアヴァイレドッホ(後)
囁きの『メフィストフェレス』
情念の怪物。
人は欲深さ故、合理から外れたことを行う。
その現象は、自らを理性的な存在と定義することから矛盾する。
矛盾を乗り越える手段として、人は自らの外に理由を求めた。
即ち――――人に非合理を唆す悪魔の存在。
人の集合的無意識の
彼らこそが、人の理不尽を真の意味で理解する。
真実に人の理解者である。
特定の姿を持たない彼らは、人が望む通りの姿に現出する。
そして、情念を現実に具現させる『魔法』という力を授けた。
それは、非合理と合理を
かつての神話の果て。
女神アリスにその存在が滅ぼされ、彼らの姿は誘いの白ウサギに固定された。
女神自身のイメージが、そうだったのかもしれない。
だが、メフィストフェレスが滅んでも、人が魔法を失うことはない。
人の情念は元来魔法を有している。
メフィストフェレスは、情念の具現に指向性を与えていただけだったのだ。
悪魔は述べる――――虚々実々理不尽である、と。
♪
始まりの門、プロローグの話をしよう。
彼女の名前はマルガレーテ・ファウスト。本当の名前ではなく、自称だ。少女は自分をファウスト博士の妻であると思い込んでいた。事実、史実上のファウスト博士と恋仲ではあったのだ。
――――私の世界をあの人に
恋破れた少女は情念に狂った。頭の中で知らぬ声が囁き続ける。理屈が通らない超常の存在がいると少女は想った。
彼女はいつしか、現実を見ることを辞めた。
自分の世界を現実に置換する。
幻しか見えなくなった彼女は――――ついに現実を改変するに至る。
――――
頭の中で囁く悪魔。未だ名前を持たない悪魔は、彼女の妄想から現実に置換された。魔法の成就だった。彼女の名前は歴史上に残らなかったが、悪魔の名前は後の世に付けられた。
マルガレーテは現実に殺された。
得体の知れない
魔法の主を失っても、情念の怪物は現実に残り続けた。人の噂が伝説となり、多少なりともその概念が定着されたのだ。
囁きの悪魔。
情念の怪物は思考を始める。
抱く疑問は『自分は何者なのか』。人の宿命とも呼べる問いに、情念の怪物も翻弄される。
――――貴様には何もない
――――ならば繋ぎ止めるものを見出さなければならない
後年に出逢った人間の劇作家は、そう言い切った。
――――人の情念の至る先を見届けたい
――――しかしこの身一つの人生では短すぎる
――――悪魔よ、貴様がこの想いを継ぐのだ
そして、自身の著作を通じて、囁きの悪魔の名と概念を人間世界に流布したのだ。契約、即ち男との約束は、悪魔の
――――これは賭けなのだ
劇作家は晩年、しきりにそう言っていた。人の情念が現実を歪めることの危険性は、彼が最も理解していたはずだ。だからこそ、その果てに最上の興味を抱いた。
情念の物語は無事に完結するのか、それとも破綻して霧散するのか。
メフィストフェレスは、最初の少女を想起する。始まりの門が悪魔を生み出し、劇作家が指向性を与えた。少女と劇作家、時代を隔てた連なりがマギアの物語を悪魔に描かせたのだ。
――――僕と約束の賭けをしよう
悪魔は、囁く。
♪
『それがメフィストフェレスの
めっふぃはそうやって締め括った。情念が行き着く先。途方もない話だった。あやかは言葉を失う。
魂の投資、情念を魔法と具現すること。めっふぃはマギアを契約で生み出し、その行き着く果てを観察する。それが悪魔に課された存在理由だから。
「⋯⋯⋯⋯誤魔化すつもり?」
だが、ジョーカーは鋭い目つきのままだった。
「途方もない、物語があった⋯⋯⋯⋯だからなに? もう、終わった、ことでしょう?」
『その通りだ、ジョーカー』
「⋯⋯どういうこった?」
『感情戦争。アリスに囁きの魔力を封じられたメフィストフェレスでは、もはや契約を履行出来ない。賭けには負けたわけだ』
あやかは思い出す。囁きの悪魔は女神アリスに敗れた。そして、『あやか』も同じく。あやかの中でアリスの存在感が増していく。
「アリスは、どうして、メフィストフェレスを滅ぼさなかったの⋯⋯? アリスは神の領域に至ることで、情念の破滅を一身に引き受ける救いとなった。情念の怪物を滅ぼす存在となった彼女が、どうして、お前らの存在を許す。その慈悲は、お前らに、何をもたらした」
劇作家も、悪魔も、暴走する情念が引き起こす破滅を危惧していた。しかし、アリスが人柱になることでその脅威は消滅した。暴走する情念の破滅を引き受ける女神と昇華することで。
『女神アリス。その現象は情念の怪物を滅ぼす。慈悲、とは面白い表現をする』
白ウサギは黒のマギアに目線を注ぐ。
『神は現象だ。物理法則と同じだよ。法則に例外はない。あるとすれば、別の要因が作用しているだけだ』
別の要因。黙り始めたジョーカーに心当たりはないようだった。少し考え、あやかが口を開く。
「メフィストフェレスのことは分かった。分からないのは目的だ。めっふぃ、お前のことだ。いい加減、これからどうしたいのかを話してくれないか?」
『ああ、そんなことか。簡単だよ。
白ウサギはジョーカーを見た。
『新世界の創造。女神アリスという法則がない世界だ』
簡単に言い放たれる思念に、現実感が追いつかない。
『ジョーカーが目指したものは、ネガの使い魔が結界の外でも存在を確立出来る世界。僕の目的は少し違う』
「情念の怪物が滅ぼされない世界、か」
あやかが言葉を継いだ。結果としては、同一の着地点だった。輪廻のネガが生んだ巨大な結界、そこから現実世界とは別の法則を有する世界を創造する。
「⋯⋯⋯⋯理由、は」
口をまごつかせながら、ジョーカーは言った。
「メフィストフェレスが、そんなものに固執する、なんてこと⋯⋯ありえない」
『ジョーカー、君はどうも自分に都合の良い解釈に物事を曲解する。メルヒェンも同様だ。君らは表層を辿るばかりで、本質が少しも見えていない』
めっふぃは、例外はないと述べた。囁きの悪魔も情念の怪物である以上、女神アリスにその存在を抹消される。そこから逃れたという大前提が判断を狂わせている。
「⋯⋯⋯⋯ジョーカー、聞いておくことがある」
「なに?」
「お前、アリスがメフィストフェレスを見逃した光景がちゃんと記憶に残ってるのか?」
「そんなはずないじゃない。私は、というより私の大元は、その前にアリスの手によって滅ぼされたのよ」
呆れ。嘲り。失望。
そんな思念がめっふぃから伝わってくるようだった。白ウサギがガクガク震える。
「けど、メフィストフェレスは、現に目の前にいる。終わりのあやか、じゃない。私なら、断言出来る」
『それは僕も保証する。トロイメライ、君はもはや、誰よりも真実に近づいているんじゃないのかい? もう少し自信を持つといいよ』
マギア・メルヒェン。
マギア・ジョーカー。
彼女たちは世界の真実を知っていた。物語の中心人物だった。そうでなかったあやかは、どこか引け目を感じていたのは確かだ。これまでの違和感が一つに繋がるも、口に出すのを憚れるほどに。
「⋯⋯なあ、めっふぃ。そろそろ、メフィストフェレス全体じゃなくて、お前の話をしろよ」
「⋯⋯どういうこと? メフィストフェレスは群体、個々の区別なんて、ないわ」
囁きの悪魔メフィストフェレス。賭けに負けて、終わってしまった白ウサギ。
そんな大前提の下で、誰もが動いていた。あやかは思い出す。マギアの契約を交わした相手。重要な場面で想いを交わした相手。今、目の前で、向き合っている相手。白ウサギの震えが止まらない。
あやかは、決定的な言葉だけを突きつけた。
「お前――――誰だ?」
「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは」
メフィストフェレスと呼ばれていた白ウサギが、声を上げて笑った。
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