メルヒェン・リヒテン・トロイメライ(後)

「ねぇ、話を聞かせて」


 ふと、真由美が零す。真由美はあやかのことを何も知らない。そんな単純なことに、たった今気付いたのだ。


「貴女のこと、ちゃんと知りたいの」


 あやかと『あやか』。

 二人の違いを。

 ちゃんと出会うために。


「知ってるんじゃないのか?」


 あやかが拗ねたように口を尖らせる。それが何だか可笑しくて、真由美は小さく笑った。


「笑うなよー……」


 あやかは静かに語り出す。

 自分のこと、姉のこと、学校のこと。それらは全て『あやか』が被せた偽物の記憶。しかし、あやかにとってはどうしようもなく本物で、実感の籠もった自らの記憶。語り続ける内に饒舌になっていく。

 記憶はあっても、姉も、学校も、無くなってしまった。そこに違和感なんて抱けない。それが終わりのあやかの宿命なのだ。記憶の齟齬なんて些細なこと。チグハグなまま次の世界が作られるのだから。


「ナニソレ、出鱈目じゃない」


 真由美は。


「高月さんは陸上部のエースなの。なんでも出来たし、どんな困難も破ってきた。いつも人の輪の中心にいて、モテモテだったのよ。想いを寄せられていた幼馴染の男の子のこと、覚えてないでしょう? 私、彼のこといいなぁって密かに想っていたのよ」


 ナンダソレ。あやかはどんな顔をしていいのか分からない。これでは全くの別人だ。名前と顔が同じだけの、別の人格。


「⋯⋯どういうこと?」

「貴女の周りの事情。それは高月さん自身の記憶に由来するの。だからどうでもいい記憶から曖昧になって、滅茶苦茶に編纂される。世界が虚無に満ちる時⋯⋯それは高月さんの人格が崩れたことを意味する」


 真由美の胸中も穏やかではない。焦っていた。

 破滅の時間が迫っていた。眼前に広がる虚無を想う。生まれ育った高梁ですらその存在を保てない。最後の世界、あやかはその意味を理解する。記憶は受け継がれても、亡くした現実は認識できない。奇妙な感覚だった。


「俺が見てきた中では、ネガに堕ちたら自我は保てない⋯⋯ように見えた。ネガになりながらも、自分は自分で在れるもんなのか?」

「⋯⋯ううん。でも、あの人は、とっても強いマギアだった。特別なの。あの人に憧れて、近付くために私も契約した。それがこのザマよ。

 輪廻のネガは精神汚染の性質を持つの。終わりのあやかではない、マギアの私はまともな精神状態じゃなかった。記憶が混濁して、想いが氾濫して、私はきっとまともな状態じゃなかったはずよ」


 なかった。

 過去形。その意味を察したあやかは、自惚れと共に口を閉ざす。


「そして――――そんな私がマギアの契約を交わすことがどんなに愚かなことか、あの時の私は理解していなかった」


 自らの夢を投資する悪魔の契約。囁きの悪魔の声に応じてしまった。短絡的な魔法の力に手を出してしまった。その結果は今更言うまでもない。


「そうか、真由美も…………」

「そう、私も元はネガに堕ちた身。夢想に溺れて現実に絶望した身」


 絵本のメルロレロ・ルルロポンティ。

 『夢想』の性質を有する、恐るべき童話の女王。

 夢に溺れた夢見がちな少女。童話の世界が好きで、お姫さまに憧れて、同時に騎士にも憧れていた。『あやか』と同じく、彼女も主人公になりたかったのだ。


「確かネガは女神アリスに…………」

「そう、根絶――というより、救済されたの」


 全ての呪詛の受け皿に。あの純白の魔力が浄化せしめた奇跡。


「それが今、帰ってきたってわけか」

「……私の話はいいでしょ」

「真由美の話が、聞きたいんだ」


 あやかの記憶が作り物でしかないのならば。あやかは真由美のことを何も知らないことになる。それだけではない。あやかは自分のことだって何も知らないのだ。


「今話したのが私の正体」

「違う。そういうことじゃない」


 大道寺真由美という人間を知りたい。何者かではない。どんな人なのか。真由美は口を閉ざす。不器用な仕草。自分をうまく語れない。指を組みながら、紡ぐ言葉を探す。



「星を見るのが好きなの」



 ぽつりと真由美は言う。星空、命の煌めき。あの童話の女王を囲っていたのも、星空だった。


「恒星は地球にとっての太陽。あの光は星の命を燃やして生まれたもの。ほら――――見て」


 下を向いたり、横を向いたり。輪廻地獄の戦いの中、あやかはずっとそうだった。上を見上げる。目に入ったりはしただろう。だが、ちゃんと見ていない。目を向けていなかった。


「あぁ――――……」


 吐息が漏れた。今夜は晴天、満天の星だった。ひび割れていても衰えはしない。星々の煌めきが、無数の命の燃え盛る光が。夜空一面に敷き詰められている。光輝く夢景色。あやかはすっかり魅入ってしまった。


「気付いてはいた。でも、感じてはいなかった。綺麗だ。今までちゃんと見てこなかった。下ばっかり見てきたんだな」

「なに言ってんの。前ばかり見てきたんでしょう?」


 真由美が笑う。

 真由美が好きなもの。好きな景色。真由美の、世界。


「高月さんは皆のヒーロー。太陽だったわ。私はその光を受ける月でしかなかった」


 でも、真由美は憧れていた。光輝く命の煌めきに。誰かを輝かせる恒星の灯火に。


「俺も、そうだった」

「知ってる」


 前だけ向いて走り続ける。そんなひたむきな姿。その意志と感情に真由美は突き動かされたのだ。心を持った人格として、心を交わそうとするほどに。


「神里、こんなに星が綺麗に見えるんだな」

「そんなわけないでしょ、この大都会に。それに本当の街の名前なんて誰も分からないわよ。女神アリスが人間だった頃に過ごしていた街、だから『神の里』って名前になっているだけ」


 高層ビルから街の光が漏れる。真由美は、一つの希望を口にする。


「高月さんもね、星を好きになってくれたの。この景色が、私があの人に与えられた唯一のもの。それがこんなにも大事にされている」


 遥けき星空。

 ひび割れたその景色は、もう猶予がないことを示している。


「出来るさ」


 あやかは星空に手を伸ばす。きっと、その光の一つを掴んでいた。


「手を伸ばせば届くんだ。だって、マギアは夢と希望を叶えるんだろ?」


 伸ばした手を真由美が掴む。月が太陽に。そして、月にも。世界が周り巡るように、彼女たちもまた巡る。



「私は、なるわ――――貴女の太陽に」



 真由美は、真っ直ぐあやかを見据える。震える彼女の手を取り、誓うように口ずさむ。


「苦しんで、恨んで、悲しんで。それでも示してきた意志だからこそ私は惹かれたの」


 あやかにはどうしようもない、この理不尽な世界。永劫続く運命の牢獄。真由美ならばきっと。


「私が貴女を助けてあげる。貴女の傍にいる。一緒に戦う」


 あやかの戦いは真由美の戦いでもある。終わりのあやかを終わらせる。理不尽な舞台に幕を下ろす。十二月三十一日ひづめあやかはこの世界から解放される。


「俺は――――アタシ、は……」


 ジョーカーを倒して、それであやかがどうなるのか。それは真由美にも分からないだろう。しかし、あやかは己の意志で地に足を着けることが出来る。自由な世界へ。


「アタシ、真由美と会えて本当に良かった」


 心からの言葉。心があるからこその言葉。ネガの使い魔でしかない彼女が、精神の呟きを発した。答えはこれだけで十分だ。真由美は満足そうに微笑んだ。







「明日、終わりのあやかと決着を着ける」


 真由美は言う。二人の戦い。だが、あやかにはもう怖いものなしだった。真由美が傍にいる。あれだけ死闘を繰り広げた童話の女王が共に戦ってくれる。


「貴女が打った布石に、私も便乗させてもらう。統括者マザーと偽アリスはそこで討つ。私たちは取り巻きの二人をどうにかしないと」


 デッドロックとヒロイック。神里の英雄コンビ。取り巻きと気軽に言ってくれる真由美にあやかは苦笑した。


「どうすんだ? 単純な実力ならジョーカーより上だぞ」

「正面突破……しかない、と思う」


 正直に真由美が答える。小細工の通じる相手ではないし、その猶予もない。ここが正念場。あやかは拳を握る。


「⋯⋯行けそう?」

「そういうの大好物だせ!」

「そういうところは、本当にそっくりねっ」


 真由美が小さく笑った。


「けど、アリスやめっふぃは本当に大丈夫か? アリスがマギアになったら、それこそ戦う戦わないの次元じゃないぞ。めっふぃがどう動くかも読めない」

「偽りであっても、『救済』の魔法は常軌を逸している。でも、世界を壊しかねない手を早々に取るはずはないわ。だからこそのなんだし。メフィストフェレスは、そもそも何かが出来るような状況じゃないわ」

「騙し討ちみたいで気分悪いな⋯⋯」


 嫌な予感を払拭するかのようにボヤく。ジョーカー率いる終わりのあやか、そこにアリスを含めることに引っ掛かりを感じる。囁きの悪魔の動きにも、何らかの意志を感じた。それでも、立ち止まるわけにはいかない。

 真由美は表情を引き締めた。


「次が、貴女にとって最後の戦いになる」


 負ければ『次』はない。あやかはめっふぃの言葉を想起する。勝てば全てを終わらせられる。終わり、なのか。あやかは首を振った。


「終わりじゃない。終わらせない」


 真由美は、きっと意味が分からなかっただろう。しかし、あやかにとってはもう決定事項だった。


「戦い続けるよ、次は真由美のために」


 今度は真由美の太陽に。あやかに救いの手を差し伸べた真由美に、本当に対等な立場になるために。


「私は――――大丈夫」


 強がって。無理して。そういう真由美をあやかはいじらしいと思った。熾烈な戦いへの恐怖。一人の心細さ。そういったものが透けて見えていた。

 少女は折れない。戦い続ける。いくら失敗しても、真由美は立ち上がる。分析して次に活かす。そんな風に少しずつでも前に進む。そんな彼女に、今の自分を重ねた。力になりたい。支えたい。『一番』を勝ち取るためにも。


「真由美のために戦いたい」


 あやかのために戦ってくれる真由美のために。二人で並んで。真っ直ぐ届けられた言葉に真由美は赤面した。それでも、目は逸らさずに。



「そう、ね……なら」


「友達に――なってくれませんか?」



 あの日のように。あの人に向けたように。振り絞った勇気で声を出した。あやかはにっかり笑う。満天の星の光に負けないように。太陽の輝きに勝るように。


「おう!」


 不器用な少女の、精一杯の勇気。対等な関係、友達に。それは、「助けて」と言っているようなものだった。


(真由美のために戦うんだ。ちゃんとお前のところに辿り着いてやる。一緒に戦うんだ)


 決意。それがあやかの意志。

 『偽物』の世界であっても、きっとこの意志は『本物』だ。


「ありがとう」


 夜風が二人を撫でる。『偽物』かもしれないけれど、確かに実感の籠もった『本物』でもあった。ある少女の記憶の世界。無限に巡る迷いの六道。果てはなく、だからこそ。願いを胸に抱く。


(きっと――――私のところまで辿り着いて)


 満天の星の光が二人を照らす。

 星満つる空の下で、二人は『友達』になった。

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