メルヒェン・リヒテン・トロイメライ(中)
昔、絵本を読んだ。
不思議とよく覚えている。運命の勇者がお姫様に忠誠を捧げる物語だった。
姫は勇者に全てを捧げられる。
どんな危険からも身を賭して庇い、誰よりも一番に駆けつけてくれる。そんな相手がいることに夢を見た。自分だけの勇者様が、きっといるのだ。だからきっと、そうなりたいと願った。
誰かのためにありたい。
その誰かは自分を一番にしてくれるはずだ。
♪
終わりのあやか。記憶の皮を被り、迷いの六道を闊歩する亡者の名前。真由美には見通しのフィールドスコープがある。一目瞭然だったに違いない。
「………………」
言葉が出ない。真実が受け入れられない。
あやかもまた、偽りの人形劇の駒、その一つに過ぎなかった。今まで交わらせてきたものは、全て『偽物』だったのか。茶番でしかないのか。これまでの戦いの意味は。
「気付きたくなかったのか。それとも、気付かないように出来ているのか。どちらにせよ、ここを乗り越えられないようなら、話すことはもうないわ」
使い魔に過ぎなくとも。
そこに意志や覚悟を見出したからこそ、会話をしようと思ったのだ。化け物にも、心があったのだと。向き合うことに価値を感じたのだ。
「『偽物』」
真由美の言っていたことが、ようやく理解できた。何故あやかの命を狙うのかも。マギアがネガの使い魔を狩る。そこに論理的疑問など存在しえない。
「私は、終わりのあやかを殲滅するために戦っている。この救いようのない泥沼の輪廻、それを司るネガをどうにかしたいの」
倒す、ではない。
どうにかする、と。
それが真由美の意志。彼女の目的。少女の戦いがついに明かされる。
「そのネガっていうのは……?」
「私の………………親友、知り合い⋯⋯クラスメイトよ」
「落差すごいな!?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯大切に想っている人よ」
思わず突っ込んでしまったあやかが口を
たった一人の、と小さく付け加えられる。それが真由美の戦い。ならば、あやかも認めるしかない。受け入れなければ。共に戦うと決めたのだ。
「俺は、確かに『偽物』かもしれない。でも、この意志はきっと――――『本物』だ」
「そうね。だからこそ、ここまで来られた」
認められた。
あやかにはそれが堪らなく嬉しい。今まで歩んできた道のりは、決して無駄ではなかった。あやかは顔を逸らすように少し視線を外す。多分、真由美に見られたくなかったのだ。
「よくここまで来たわ。今の私なら、きっとどうにかできる」
直感で、あやかは自分のことを言われているのだと理解した。理不尽に打ちのめされて苦悩する十二月三十一日あやかという人格。彼女は、救おうとしている。助けになろうとしている。
「具体的に、どうするんだ?」
「
暁えんま。あやかも死闘を繰り広げた相手。あの執念の獣を討つのだ。
「私は、過去に一回、アンタも一回そうだったわね……とにかく、倒しきる一歩手前まで追い詰めている」
あやかは失敗したが、真由美も失敗したのだ。それほどの相手。あやかに戦慄が走る。
「ジョーカーは時間を操る。一気に追い詰めないと、また時間を巻き戻されるぞ」
「⋯⋯例のループ現象とやら、ね。本当に時間が巻き戻っているわけじゃないのはさっき言った通りだけど、世界を渡る魔法を持っているのは確かに厄介ね」
また真由美と協力できるとは限らない。それは身を以って思い知っている。
「でも、ループはこれで最期だって。めっふぃがそう言っていた」
「……メフィストフェレスが? アレこそただの舞台装置、なんの意義も持たないただの背景に過ぎないものよ」
渋い顔をする真由美。
囁きの悪魔メフィストフェレス。女神アリスに敗北した悪魔は、封印されることによって囁きの魔力を失った。そう聞いている。その認識は真由美も同じのようだった。だからこそ際立つ違和感。あやかは、あの誘いの白ウサギに、どこか特別なものを感じていた。
「まあ、アレは事情通な説明役の役割が強いはず。ソレが言うのならばそうなのかもしれない。確かに、私も同じように考えるわ。この世界は――――もう限界よ」
ジョーカーを倒せば、終わりのあやかを終わらせられる。それはこの世界を終わらせることと同義。ジョーカーを倒せばループから抜け出せる、というあやかの目論見はある意味では正解だった。だが、示された情報では彼女を倒せなくても全てが終わってしまう。
「俺がこの世界をループしていた戦い。その結末がついに来たんだな」
「⋯⋯ねえ」
真由美が躊躇いがちに呟いた。彼女には分かっていた。あやかが理不尽な現象に直面していたのだと。真由美が視た真実にそぐわない、そんな不合理があったのだと。
「どうして世界がループしているなんて考えたの?」
あやかは何度も死んでいる。時間が巻き戻ったのでないとしたら。今在るのは、かつて在ったのは。全く別の存在。九体目のあやか、めっふぃの話では十番目といったか。
「俺は、前の俺を覚えている。その前も、そのさらに前も! 俺の
「……そんなはずはない。終わりのあやかは世界の終わりとともに全滅する。そして、次の世界で新しく生み出される。世界を渡る魔法を持つジョーカー、アレを除けばどれも別個体なのよ」
真由美にも分からないものがある。見通しは構造を見抜く魔法。心や記憶といった形のないものは視えないのだ。だから、あやかが直面している現象は、原理原則に基づかない不合理。
魔法。現実を覆す現象の名前を強く意識する。
「私は、貴女の執念が呼んだ奇跡だと思っている」
真由美は小さく笑う。その表情があまりにも穏やかで、あやかも釣られて笑う。身を縛る絶望が霧散する。
「知ってる? マギアっていうのはね、夢と希望を叶える存在なの」
真由美はにっかり笑った。
初めて見る、とびっきりの笑顔だった。
「真由美は、強いな」
「強くなるしかなかったから」
理由があった。真由美にはそうするだけの動機があった。
「真由美は、その友達のために戦うの?」
「そう――――高月あやかさん、貴女のオリジナル。かつてマギアであって、そして今はネガになってしまった」
あやか。
鮮やかに
真由美は、果たしてどんな心境だったのだろうか。大事な親友の皮を被ったあやかを見て。
「叶遥加――――これはあの人の物語」
あやかは知らない。そして、真由美も知り得なかった物語。
真由美は、神秘的なものに触れるようにその名を呼んだ。叶遥加、あやかもその姿は何度か見かけた。遅れて現れた最後の一人。
「マギア・アリス、だったか⋯⋯」
「あれは偽物よ。本当に冒涜的。本物は女神なんだから」
ご立腹のようだ。そして、静かに語り出す。女神アリスの神話。当事者ではなく、伝説として。妬けるよりもちょっと引いてしまうような心酔ぶりだった。
「あの方が全てのマギアの希望になったの。暴走する情念の脅威を引き受け、ネガを根絶するに至った。メフィストフェレスの魔法を封印したのもあの方よ」
その結果、アリスは物質世界の一員ではなくなった。情念が生んだ、女神という現象。自我を持ちながら存在の領域を上位に移してしまったのだ。
「あれ?」
と、あやかが疑問を発する。
ネガの根絶。ならば、この輪廻を生成しているネガとは何なのか。
「高月さんはね、救いを拒んだの。ネガである自分を肯定して、女神の救済を撥ね退けた。それどころか、真っ向からねじ伏せようとしてきたの。あの人の情念が成した無尽蔵の魔力、深く強い欲望が世界の摂理を超えてしまった」
感情であり、意志であり、そして欲望。ネガとして孵りながら、それでも自我を保ち続ける。それを可能にする欲望とは。
「自己顕示欲」
真由美は端的に言った。
「あの人は女神に成り代わろうとしている。救いを拒む際に削り取ったほんの一粒の存在。そんな概念的なものを使って、アリスの物語を再現しているの。自分こそが魔法世界の主役になるために。
貴女は本来、アリスの役。だから高月さん自身の皮を被らされている。他のマギアだってそう。アリスの物語に深く関わるマギアたちだった」
トロイメライ。
デザイア。
デッドロック。
スパート。
ヒロイック。
ジョーカー。
あやかは思い出す。これまでの物語を。ドラマを。死闘を。
彼女らの戦いとは、一体なんだったのか。どんな意味があったのか。あれだけ情念に溢れたマギアたちは、ただの役者人形にしか過ぎないのか。『あやか』の深淵なる欲望の道具。それだけでしかないのか。
「そんなの、何の意味があるんだよ……?」
震える声で絞り出す。成り代わる、とは。叶遥加を引きずりおろして神にでもなるというのか。そんなことに、どんな意味があるのか。
「意味なんてないのよッ!!」
真由美が声を荒げる。
「ネガなんてどれもそう。分かるでしょう? 絶望に染まり、理不尽な行動を続けるだけのただの化け物。あの人の自我は今も崩壊し続けている。望みなんてないの。だからこその絶望。あの人はいずれ自我を失う。完全にネガと同化する。そうすれば女神の救済に反発できない。いくら輪廻のネガを肥大化させようとしても、どんなに神話から
でも、そんなの、私は嫌。どんな姿であっても! あの人を失いたくないッ!!」
輪廻のネガを、高月あやかを救う。それがマギア・メルヒェン、大道寺真由美の本当の戦い。そのために身を削り、心を削り、ここまで辿り着いた。
「真由美も、戦い続けていたんだな」
その姿を見て、あやかは理解した。あやかが苦しんでいる間、真由美も苦しんできた。戦い続けてきた。何度も争い傷つけてきた二人は、きっと同じなのだ。
「貴女も戦い続けていたのね――――
真由美が、初めてあやかの名前を呼んだ。
名前を呼んでくれた。
存在を認めてくれた。
自分が何者なのかが分からないあやかを、ちゃんとあやかとして認めてくれた。存在が承認される。ただの使い魔に過ぎない存在だとしても、皮を被っただけの化け物だとしても、あやかはあやかなのだと。
「ちゃんと笑うし、泣いたりもするのね」
優しい声。溢れる涙。俯いたままあやかは声を殺した。真由美も口を閉ざす。ひび割れた満天の星。二人の間に夜風が走る。
少女たちは覚えていない。
自分たちの夢、その
同じものから始まって。
違う道を歩んできて。
こうして同じ星空を見上げ――――⋯⋯
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