トロイメライ・エントリヒ・ヴェルト

【トロイメライ、実存世界】



 見上げた先に映ったのは、いつもの天井ではなかった。

 境大橋。高梁と神里を隔てる象徴。境界の暗喩。その手前にあやかは立っていた。

 星が墜ちる。満天の星が、薄く黒ずむ暗雲に溶けていった。夜明けだ。あやかは大きく深呼吸して目を閉じた。新世界の空気が肺に満ちる。血液を循環して全身に届く。想像以上に清々しい心地だった。

 これが、最後のループ。あやかは目をぱっちり見開いた。


『やあ』

「お、おう⋯⋯普通に出てこいよ」


 目前に現れたのは二足歩行二頭身、誘いの白ウサギ。

 囁きの悪魔メフィストフェレス。


『トロイメライ、これは何番目だい?』


 まるで秘密の合言葉のような響きだ。あやかは格好つけて右手を五本、左手を四本立てた。だが、めっふぃからの反応が薄い。あやかは訝しげな目で不可解な間を待った。


『なるほど。際どい賭けではあったということか。その可能性を考慮すべきだった』

「は? どういうことだよ?」

『君は十だよ』

「十⋯⋯?」


 思い返す。

 何も出来ず、理解すら出来ずに終わった。デザイアから破滅をプレゼントされた。あの恐るべき童話の女王を打ち倒した。デッドロックと通じ合えなかった。悲劇を止められなかった。『終演』に真っ向から敗北した。朧げにその後の破滅が記憶されている。そして、あの執念の獣に打ち勝った。

 それらのどこかに欠落がある。あやかが思い巡らせている内に、めっふぃの思念が届いた。


『過去のトロイメライは重要ではない。今の君がこれからどうすべきか認識していれば問題ないよ』

「どうすべき?」

『メルヒェンを排除して、その手で『終演』を打ち砕く。それが君に課された使命だ』


 なんとなく、そう告げられると思っていた。だからだろうか。あやかは動揺しなかった。めっふぃも無表情のまま動かない。本当に彼自身の言葉なのか疑わしいところだ。


「その使命とやら、俺は引き受けるつもりはねえな」

を、か聞かせてもらっても?』


 あやかは小さく噴き出した。


「真由美は俺の嫁、だッ!!」


 だから排除なんてとんでもない、と。あやかは冗談めかして笑い飛ばした。囁きの悪魔が小さく笑った気がした。


「俺は自分の目で見て、自分の意志で判断する。俺の道は俺が決めるんだ」

『なら、仕方がないね。僕としては、せめて暴走したジョーカーを倒して幕を引く、くらいはやって欲しいな』

「ジョーカー?」


 あやかは小首を傾げた。マギア・ジョーカーとメフィストフェレスは蜜月の仲だったと記憶している。


『彼女、終わりのあやかの統括者マザーは欲に目醒めた。この世界を手中に収めるつもりだ。それだけは阻止しなければならない』


 言葉の意味はよく分からなかった。聞き返してもまともな回答が返ってくるとは思えない。だからあやかは、自分の意志を真っ直ぐ言葉にした。


「俺は自分の意志を貫くぜ。確かに俺が知らないことはたくさんあるんだろうな。けど、そんなの誰でも一緒だ。自分の理解している範囲で、それでも最善を目指していく」


 あやかは悪魔を真っ直ぐに見据える。


「知らないことを弱みにつけ込んでくるのは構わない。それが悪魔とやらの手腕なんだからな。でも、人がそれに屈するのかは話が別だ。だからお前は負けたんだろう?」

『ご明察。やはり君には本質を見抜く才能があるね』


 囁きの悪魔メフィストフェレス。そう称される存在が女神アリスに敗北したことは、真由美が暴露していた。その本当の理由をあやかならば察することが出来る。


『それを踏まえて、君はどうする気だい?』

「言ったろ。俺は俺の意志の赴くままに」

『いいだろう。君自身の魂の煌めき、その志を是非とも示すがいい』


 思考は思念に塗り潰された。

 戦う理由は単純明快。自分の夢を叶えるため。ヒーローになるんだ。その信念には、もう背かない。だから、あやかはその心臓に紅蓮の意志を宿す。


『しかし、ゆめゆめ忘れないことだ。選択には運命が伴う。過酷な道を自らの意志で進むというのであれば、それなりの運命を覚悟することだ』

「ありがとな」


 遮るようなあやかの言葉に、囁きの悪魔は目をパチクリさせた。


「気を遣ってくれて、意識を割いてくれて。俺は運命と戦う。だから、ちゃんと見ていてくれよな!」

『⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯』

「⋯⋯なんか沈黙が頭の中に送られてきたんだけど、ひょっとしてすごい器用なことしてない?」


 あやかは白ウサギを抱き抱えた。悪魔は抵抗しなかった。しっとりとした奇妙な質感の毛並みに頬擦りしながら、あやかはにっかりと笑う。


「契約した相手がで良かった」

『君は、まさか、

「ああ。俺にとってアンタは『救い』だよ」

『⋯⋯そうかい。そんなことを言われたのは、これで二度目だ』

「え? この口説き文句ってしょっちゅう使われんの?」

『僕たちメフィストフェレスの記憶は同期されているからね。過去連綿と続くマギアの歴史の中で、君と同じことを言う子がいただけだよ』


 めっふぃが小さく身じろぎする。それがなにかの合図のような気がして、あやかは手を離した。


『運命の形は人それぞれだ。情念を持つ限り必ず向き合わなければならない。君のに立ちはだかる運命、それをどう打開するのか見させてもらうよ』


 それだけ伝えて、めっふぃは姿を消した。思念の言葉が、微妙なニュアンスの違いを伝えてくる。訝しんだあやかが恐る恐る振り返る。


「――――――――ッッ!!?」


 心臓が喉から飛びそうになった。

 長く艶のある黒髪。紫に色付いた魔法装束。妄執に取り憑かれてぎょろりと蠢く双眸。突き付ける銃口。あやかは全身が怖気立つのを感じる。恐るべき執念だった。まだ本当の決着はついていない。その真実をひしひしと突き付けられる。


「ジョーカーッ!!」

「トロイメライッ!!」


 宿敵同士が名を叫んだ。

 お互い、運命の終着を予感した。

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