アリス・ヒルフェ

【アリス、救済】



「こんにちは、叶さん」

「こんにちは、真由美ちゃん」


 荒れ狂う暴風。絶対暴風圏。

 トロイメライとジョーカーの死闘とほぼ同時刻。『終演』の進行方向とは真逆、境大橋近くの高台で二人は会っていた。


「ねえ、真由美ちゃんは行かないの…………?」


 どこに、などと野暮なことは言わない。叶遥加は全てを知っている。無関係な一般人ではなかった。


「いいえ、『終演』はあの二人に。私はここで貴女を守ります」

「えっ、行かないの!?」


 遥加の驚きに、真由美は気まずそうに目を逸らす。


「嫌よ、怖いもの……⋯⋯というのは冗談で、貴女の護衛が私の仕事。ここも絶対に安全とは言い切れません」


 あやかとジョーカーは『終演』撃破を狙っている。だが、真由美は勝てるはずがないと踏んでいた。神里は運命の砂時計に蹂躙される定めである。

 しかし、目の前の少女だけは守る。そんな決意のためにここに残ったのだ。


「……でも、えんまちゃんとあやかちゃんは大丈夫かな」


 心配してか、どこか困ったように笑う。その優しさに口元を綻ばせながら真由美は言った。


「そんなに暁えんまが心配?」

「心配だよ。えんまちゃんはずっと強がっているけど、本当は誰よりも臆病で、誰よりも不安なんだ。私には分かるの」


 そう、と真由美は小さく呟いた。


「羨ましいわね。そう想ってもらえて」

「真由美ちゃんだって心配だよ? あやかちゃんだって!」


 優しい子だ、と真由美は思った。超常の力を持つマギアたちと、真っ正面から向き合おうとしてくれている。真由美は、その優しさを知っていた。


「その優しさは貴女の強さです。忘れないで」

「私の、強さ⋯⋯⋯⋯?」

「やっぱり、覚えていないんですね⋯⋯」


 真由美が微笑む。無理矢理顔の筋肉を動かした、ぎこちない笑みだった。自覚はなかったが、痛々しさが浮き彫りになる。遥加でなくとも気付いただろう。少女は少女に手を伸ばす。

 その時――――轟音が高台を揺らした。

 明らかな異常事態。そんなはずはないと本能が否定する。しかし、実感として確かに在る。莫大な魔力、渦巻く呪詛。感覚が警戒信号をひっきりなしに鳴らす。


「『終演』――どうしてここにッ!?」


 明らかに自然な動きではない。何かに吹き飛ばされたような挙動だった。ジョーカーの魔法でこんなことは出来ない。もう一つの可能性、それはほぼほぼ答えだと納得出来るようなもの。


(まさか⋯⋯⋯⋯ジョーカーを倒すのに邪魔だから、強引に軌道を変えたっていうのッ!? 『終演』打倒の使命を放棄して、本気でジョーカーを一騎打ちで倒すつもり⋯⋯でも、どうして、そこまで⋯⋯⋯⋯⋯⋯)


 真由美はあやかの正気を疑った。まさかここまでやるとは。

 動機を疑った。方法を疑った。真由美の知らないあやかだった。こんなことをそもそも考えつかないし、実行するだけの力もないはずなのだ。だが、現実に状況は動いてしまっている。

 けしかけられた脅威。これは挑戦だった。


「叶さん」


 迷っている暇はない。即断だ。今から逃げ出しても大惨事は免れない。白い少女を抱えながらでは尚更だ。


「え、どうしたの……?」

「私、頑張る。頑張るから――応援していて」


 戦う。一人だけ逃げ出すのは許されない。あやかからそう叩きつけられているような気がした。道理だと、納得してしまった。


(私は…………間違えたのかもしれない)


 真由美は考える。

 こんな風に思えるのは、きっと目の前の純白少女の心に触れたからだろう。まさに心が洗われるような、そんな心地がした。


(終わりのあやか――――意志を持ち、感情に惑う化け物)


 もっと近づいてあげることも出来たはずだ。目の前の少女のように。人として当たり前の優しさと思いやりがあれば。そうすれば、きっと違う結末だってあったはず。


(違う。そんなんじゃない。感傷なんかじゃない。『偽物』にかける情けなんて有り得ない⋯⋯⋯⋯なのに、この執着はなんなの? 憐れんでいるとでも? これじゃあ、どちらが化け物か分からないわね)


 自嘲気味に笑う。だが、目の前にあるのは今だけだ。ごたごた抜かしている暇なんてない。動かなければ。戦わなくては。物語は始まらない。


「『終演』と、戦うの?」

「運命と戦うの。私はマギアだから」


 夢を抱いた。

 人の呪いと戦う、そんな戦士なのだから。


「うん、行ってらっしゃい。応援してる。祈ってる」

「行ってきます」


 絶体絶命。そこに現れるのは一人の勇者ヒーロー。真由美が密かに夢見たシチュエーション。


「全く……ニクいことしてくれるじゃないの、あのバカ」


 胸の内で、あの巨悪は後でどつき回してやろうと誓う。どうせ滅ぼすのなら、理由は多い方が良い。


(そう、私には理由がある)


 助けたい人がいる。守りたい人もいる。だから、逃げるわけにはいかない。決意を秘め、真由美は運命の砂時計に挑む。



「やってやるわ。これが私の掲げる意志なのだから」







「めっふぃ、そこにいるよね?」

『うん、いるよ』


 残された遥加の隣に、誘いの白ウサギが姿を現す。


「真由美ちゃんの魔法、貴方の姿も視えるんでしょう?」

『そうだね。けれど、彼女の魔法は視えるだけだ。真実にまで至るわけではない。僕は君が全てを明かすものだと思っていたけれど』

「あの子が自分で真実に辿り着かないと、なんの意味もない」


 遥加は白ウサギを優しく抱き抱えた。絶望の夜を見下ろす。その表情が憂いに満ちた。


「真由美ちゃん、勝てるかな?」

『まさか。考えるだけ無駄な可能性だ』


 あんまりな断言に、遥加は困ったように笑った。しかし、状況は何一つ笑えない。正真正銘、が近付いてきた。


『切り札を切るかい?』


 少し躊躇って、遥加は小さく頷いた。


「私は⋯⋯⋯⋯アリスになれると思う?」

『素質は十分だ。も了している。感情が、魂の煌めきが本物ならば、契約は可能なはずだ』


 めっふぃは遥加の顔を見上げた。


『囁きの悪魔との契約というのは、世界を歪めるほどの情念に型を与えることだ。野放図に情念の怪物と化してしまわないように、元型アーキタイプに指向性を与えることだ。

 情念が最も輝く瞬間は、闘争のとき。情念を魔法という形で具象化させる対価として、メフィストフェレスは感情の終着点を観察する』


 欲で有り、執着。

 拘ることは不合理で、故に理が尽きない現象が発生する。世界を歪める情念の怪物。マギアもネガも、本質としては同一のものだ。


『虚々実々、理不尽だ。君にはあるかい? そんな、魂を投資してでも掴みたい夢が』

「あるよ。私は、


 はっきりと断言する。


『約束の賭けをしよう。さあ、魂に刻まれた断章を口にするといい』



時よ止まれ、おまえは美しいフェアヴァイレドッホ







 水色の大砲が四方八方から集中砲火を浴びせる。それらが生んだ凄まじい轟音が、荒れ狂う暴風に掻き消されていく。『終演』直近に広がる重力崩壊圏。あの驚天動地の死地を、メルヒェンの攻撃は突破出来ない。


「どうする、どうする、どうする――――ッ!!?」


 魔力は無限ではない。このままジリ貧で倒れるのは必定。離れていては攻撃が届かない。近付けばただでは済まない。最初から詰んでいるのだ。


(所詮、ここまで⋯⋯⋯⋯私がやれることなんて、こんな⋯⋯⋯⋯⋯⋯)


 心が絶望に曇る。ここまで繰り出した必死の攻撃も、『終演』の気を引いただけに過ぎない。進行方向をこちらに変え、運命の砂時計がこちらに迫る。

 その砂が落ち切る直前、真由美は救済の光を見た。



「――――貫けッ!!」



 純白の大弓。光の奔流が巨大な矢となって『終演』を貫いた。

 一撃。たった一撃だった。

 崩壊する『終演』が崩れ落ちる。重力崩壊が回帰し、周囲に周遊していた大質量が次々と落下し始めた。零れ落ちた運命の砂粒が落下の衝撃を柔らげている。まさしく、神話の一幕だった。


「女神の、救済⋯⋯⋯⋯どうして」


 真由美はそう呟いた。暗雲が光に晴れる。真由美は高台に目を向けた。純白のマギアが飛び立つ姿を見た。彼女が向かったのは、トロイメライとジョーカーの死闘の地。


「⋯⋯行かなきゃ。きっと、まだ、終わっていない」

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