ヒロイック・ヒーロー
【ヒロイック、英雄】
英雄。
その言葉は、人類史の重みを背負っている。
果たして、歴史上の偉人らに肩を並べられるだろうか。英雄と称される度に、ヒロイックはそんな絵空事を思い浮かべていた。猛省する。内省する。故に、さらに、もっと、高みへ。
ある日、気付いた。
自分はきっと――――こんな生き方しか出来なくなってしまったのだ。
「それでも、私は生きるよ」
英雄として生き、英雄として死ぬ。
生き様を了せよ。逝き様を魅せろ。
♪
黒の海岸線。その不穏な空気は、なんとなく彼岸と此岸の境目を連想させる。浮かぶ白球の表面、呪詛の矢印が蠢いている。ヒロイックの鎖が鞭のようにしなり、白球を殴打する。
「アイツ、打撃が効かないみたいだぜ」
「⋯⋯そのようね」
音速の刺突がヒロイックのこめかみを掠る。その凄まじい速度にあやかは戦慄する。ネガを見た。禍々しい白矢印が、まるで砲台のように刺突を加速させているのだ。ヒロイックが流れる血を拭う。
「しかも、この速度。一方的にやられてもおかしくない相性の悪さね。理不尽」
こちらの攻撃は通らないが、向こうの攻撃は脅威的。そんな理不尽に晒されている。
「⋯⋯いやいや、今のを躱したアンタも大概だよ」
愛想笑いで流された。無言の示し合わせ。あやかがロード魔法で跳び立つ。ネガの刺突を誘導しながら、串刺しにされていく使い魔を見下ろした。
刺突の速度は脅威。しかし、一直線に走る攻撃は軌道が読み易い。強敵との死闘で目が肥えているあやかと、英雄として歴戦を潜ったヒロイック。彼女らがまともに刺突を受けることは無かった。魔法のリボンがネガを包む。
「
封じた直後に錠前が突き崩される。ヒロイックの『束縛』の魔法は効果が無い。呪詛刻印が魔法を浸食していたのをあやかは見逃さなかった。であれば、ヒロイックも当然見逃すはずがない。
「アレ、貴女も知っていたの?」
聡い彼女のことだ。『M・M』の正体が真由美であることは見抜いていることだろう。状況が何もかもを白状していた。
「⋯⋯俺は、知らなかった。認めたく、無かった」
兆候はあった。疑うタイミングはもっとあった。しかし、あやかはそうはしなかった。こんなに眼前に突きつけられるまで、断言出来なかった。『M・M』はヒロイックがこれまで追っていた相手だったはずだ。あやかは後ろめたさに目を背ける。
(⋯⋯いや、おかしいぞ)
そして、気付く。
(ヒロイックは以前から『M・M』を追っていた。いつからだ? 真由美がマギアになったのはつい最近、俺と大して変わらない時期のはずだ⋯⋯⋯⋯『M・M』は、いつから居たんだ? 俺が真由美を見捨てた後も、『M・M』は脅威であり続けた――⋯⋯⋯⋯)
「――――前ッ!!」
引っ張られて重心が崩れる。刺突四発。鮮血の華が咲いた。
「え、いや⋯⋯そんな――――――ッ」
あやかに苦痛は無かった。当たり前だ。スローモーションで真上に跳ね上がる英雄の右腕。あやかを庇ったヒロイックの片腕が、千切れ飛んでいた。
「寧子ちゃんが無事なら、治せたかもしれないんだけどね」
吹っ飛んだ右腕を、ヒロイックは悠々とキャッチする。困り顔が痛みで歪んでいた。
「ごめっ「いいの。大切な人に裏切られた衝撃は、私も知っているから。だから気落ちしなくていいの。どうなろうとも⋯⋯歩き出さないといけない。
私の夢も、貴女の夢も、簡単には離してくれないでしょう?
まるで、呪いのようなものよね。雁字搦めに縛り付けられて逃げ道なんてない。でも大丈夫。貴女はきっと、何度でも立ち上がれる人だから」
腕を千切られた苦痛は相当なものだろう。表情は奇妙に歪み、脂汗は止まらない。それでも、英雄は笑顔を絶やさなかった。あやかを不安にさせてしまうから。
「ここは任せて」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯俺も戦う。戦わないと、いけないんだ」
ネガがマシンガンのような刺突を放つ。あやかを抱えたヒロイックは脅威の全てを回避し、リボンで目眩しの暗幕を張る。
「戦うべき時に戦えればいい」
ヒロイックはあやかの頭に手を乗せた。温もりが熱を持つ。噴出するあやかの痛感が、ヒロイックの肉体に熱を帯びさせる。あやかは震える腕でヒロイックを抱き締めた。
ヒーロー、英雄。この世全てのために身を砕く。
そんな過酷な道を思えばこそ。
「ありがとう」
ヒロイックは言った。あやかは何も言えない。お礼を言うべきは自分なのに。千切れた右腕を押しつけられて、千刺しにされたリボンの暗幕に言葉が出ない。
「お願い。そこで見ていて」
ヒロイックは言った。
「誰かが見てくれていれば――――私は、きっと、英雄のままでいられる」
リボンと鎖と無数の分銅。ありったけを展開してヒロイックは走り始めた。魔力に反応したか、ネガが出鱈目に刺突を振り乱す。優雅な体捌きで英雄が舞う。片腕を失ったばかりとは思えないほどに。
(俺も、行かなきゃ)
ヒーロー。マギア。自分だってそうだ。
拳を握り、ようやく走り出そうとして。
「なんだ、アレ⋯⋯⋯⋯ッ!?」
ネガの球体から放たれる無数の刺突。その根本から不自然なほど真っ白な矢印が、夥しい数が、まるでスコールのように降り注ぐ。
「ヒロイックッ! 右斜め前だッ!!」
英雄がウインクを返した。あやかの位置からなら、攻撃が薄い場所を目視出来る。自分もロード魔法で避け回り、ヒロイックに大声で指示を飛ばす。
陣形は整った。だが、あやかは近付かなければ攻撃出来ない。しかもこのネガには打撃が通らないのだ。ヒロイックにも斬撃の魔法は無かったはずだ。
(けど、考えがあるんだろ?)
なんとかするはずだ。だからこそ、彼女は英雄になれたのだ。
「りり」
舌で転がす。
意図が繋がった。
糸が繋がった。
血が伝わった。ヒロイックの傷口から流れる血が、伝う。細い細い、希望の糸。『束縛』の魔法が召喚したリボン。それを細く、強靭に、凝縮し、磨き上げる。即席の大ギロチンだった。ヒロイックの豪脚が上がる。
「りりりりりりり」
ネガが鎖に巻き上げられた。仕込みは十全。『M・M』の呪詛が浸食するが、それより速く、ハンマーのように脚を引き戻す。姿を見せた『M・M』。呪詛人形。小柄な少女の風貌は、よく見れば真由美に酷似していた。
(『創造』の魔法で造った自律人形――――?)
それが正体か。真由美そのものではなく。
「逃す、かぁあああッ!! リロードロードッ!!」
ネガから離脱しようとする『M・M』を、複数のロード魔法が包み込む。行動を制限されて逃れられない。隕石のような勢いで墜落するネガからは。
「りりりりりりりり、りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり――――――ッッ!!!!」
「いっけええええええええええ――――――ッッ!!!!」
力技ながら、繊細さは折り紙付き。ネガの心中を、糸ギロチンが真っ二つに両断する。一撃、必殺。問答無用の一閃両断。
だが、決着はまだだ。
分断された上半身。『M・M』が最期の力を振り絞ってヒロイックに飛び掛かる。ヒロイックはその脚を上げなかった。流石に力尽きたか。それとも。
「今行くッ!!」
「来ないでッ!!」
あやかの足が縫い止められる。深く重い、呪詛の叫びだった。わざとあやかに背を向ける。どんな表情をしているのか、見られたく無いから。
「どちらかが、抑えないと」
呪詛刻印に蝕まれ、ヒロイックは倒れた。ネガは完全に沈黙。結界も崩れ始める。だが、『M・M』の力もほとんど残っていないようだった。あやかの方までは追ってこない。
「どのみち、私はもう戦えない」
「戦えないからってなんだよ!? 俺が戦う! アンタはちゃんと休んでくれていいんだ! もう英雄である必要はないんだ!」
「そんなこと、言わないで⋯⋯お願いだから」
ヒロイックが顔を向けた。憔悴し切った、それでも満足感に満ちた表情。ここから生き残るのを諦めたわけではない。むしろ、進んでそうしたいと望んでいるような。
「私は好きで英雄になったわけじゃない。そんなスゴイ人じゃないの。ただ、そうじゃないと生きていけなかっただけ。私にはこの生き方しかないの。
みぃなは死んだ。一間ちゃんも死んだ。寧子ちゃんも死んだ。次の子を求めても、きっと同じ。私は誰にも助けてもらえない。ずっと独り。でも、もういいの。独りでも、英雄でさえいられれば――――」
独りになりたくない。
その願いに、背く。
「だからお願い⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯英雄のまま、死なせて」
何も言えない。言葉も、感情も。想像を絶する世界。英雄ヒロイックが歩んできたものは。その終着点は。
「ありがとう。
フェアヴァイレドッホ――――
崩壊する結界の中に、もう一つの結界が産まれる。あやかは取り込まれなかった。拒絶されたのとは違う。託されたというのも違う。あやかはただ、一つの結末を見届けただけだ。
「
ヒロイックのネガは、徹頭徹尾自分の世界で閉じている。関わりのある三人の死体が取り込まれた。そして、脆くも異界は崩れる。自分の世界と心中したのだろう。
「俺が目指したものは、夢見たのは、こんなものなのか⋯⋯?」
『M・M』は滅した。残るは真由美とジョーカーだけだ。あやかは温もりを失いつつあるヒロイックの右腕を抱き締める。マギアが触れていれば、人体の一部は結界の外に助け出せる。いつだったか、デザイアが言っていたことだった。
「違う」
その生き様は否定しない。出来ない。
だから、そうじゃない。あやかは自分でも恐ろしくなるほど冷め切った言葉を吐いた。否定するのは、自分の意志。
「俺が目指したかったものは、こんなものじゃない」
英雄にはならない。
ソレは、あやかが目指すヒーローとは違うものだ。
「ジョーカーを倒して、全部終わらせる」
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