ヒロイック・ヒーロー

【ヒロイック、英雄】



 英雄。

 その言葉は、人類史の重みを背負っている。

 果たして、歴史上の偉人らに肩を並べられるだろうか。英雄と称される度に、ヒロイックはそんな絵空事を思い浮かべていた。猛省する。内省する。故に、さらに、もっと、高みへ。

 ある日、気付いた。

 自分はきっと――――こんな生き方しか出来なくなってしまったのだ。


「それでも、私は生きるよ」


 英雄として生き、英雄として死ぬ。

 生き様を了せよ。逝き様を魅せろ。







 黒の海岸線。その不穏な空気は、なんとなく彼岸と此岸の境目を連想させる。浮かぶ白球の表面、呪詛の矢印が蠢いている。ヒロイックの鎖が鞭のようにしなり、白球を殴打する。


「アイツ、打撃が効かないみたいだぜ」

「⋯⋯そのようね」


 音速の刺突がヒロイックのこめかみを掠る。その凄まじい速度にあやかは戦慄する。ネガを見た。禍々しい白矢印が、まるで砲台のように刺突を加速させているのだ。ヒロイックが流れる血を拭う。


「しかも、この速度。一方的にやられてもおかしくない相性の悪さね。理不尽」


 こちらの攻撃は通らないが、向こうの攻撃は脅威的。そんな理不尽に晒されている。


「⋯⋯いやいや、今のを躱したアンタも大概だよ」


 愛想笑いで流された。無言の示し合わせ。あやかがロード魔法で跳び立つ。ネガの刺突を誘導しながら、串刺しにされていく使い魔を見下ろした。

 刺突の速度は脅威。しかし、一直線に走る攻撃は軌道が読み易い。強敵との死闘で目が肥えているあやかと、英雄として歴戦を潜ったヒロイック。彼女らがまともに刺突を受けることは無かった。魔法のリボンがネガを包む。


施錠ロック!」


 封じた直後に錠前が突き崩される。ヒロイックの『束縛』の魔法は効果が無い。呪詛刻印が魔法を浸食していたのをあやかは見逃さなかった。であれば、ヒロイックも当然見逃すはずがない。


、貴女も知っていたの?」


 聡い彼女のことだ。『M・M』の正体が真由美であることは見抜いていることだろう。状況が何もかもを白状していた。


「⋯⋯俺は、知らなかった。認めたく、無かった」


 兆候はあった。疑うタイミングはもっとあった。しかし、あやかはそうはしなかった。こんなに眼前に突きつけられるまで、断言出来なかった。『M・M』はヒロイックがこれまで追っていた相手だったはずだ。あやかは後ろめたさに目を背ける。


(⋯⋯いや、おかしいぞ)


 そして、気付く。


(ヒロイックは以前から『M・M』を追っていた。だ? 真由美がマギアになったのはつい最近、俺と大して変わらない時期のはずだ⋯⋯⋯⋯『M・M』は、居たんだ? 俺が真由美を見捨てた後も、『M・M』は脅威であり続けた――⋯⋯⋯⋯)

「――――前ッ!!」


 引っ張られて重心が崩れる。刺突四発。鮮血の華が咲いた。


「え、いや⋯⋯そんな――――――ッ」


 あやかに苦痛は無かった。当たり前だ。スローモーションで真上に跳ね上がる英雄の右腕。あやかを庇ったヒロイックの片腕が、千切れ飛んでいた。


「寧子ちゃんが無事なら、治せたかもしれないんだけどね」


 吹っ飛んだ右腕を、ヒロイックは悠々とキャッチする。困り顔が痛みで歪んでいた。


「ごめっ「いいの。大切な人に裏切られた衝撃は、私も知っているから。だから気落ちしなくていいの。どうなろうとも⋯⋯歩き出さないといけない。

 私の夢も、貴女の夢も、簡単には離してくれないでしょう?

 まるで、呪いのようなものよね。雁字搦めに縛り付けられて逃げ道なんてない。でも大丈夫。貴女はきっと、何度でも立ち上がれる人だから」


 腕を千切られた苦痛は相当なものだろう。表情は奇妙に歪み、脂汗は止まらない。それでも、英雄は笑顔を絶やさなかった。あやかを不安にさせてしまうから。


「ここは任せて」

「⋯⋯⋯⋯⋯⋯俺も戦う。戦わないと、いけないんだ」


 ネガがマシンガンのような刺突を放つ。あやかを抱えたヒロイックは脅威の全てを回避し、リボンで目眩しの暗幕を張る。


「戦うべき時に戦えればいい」


 ヒロイックはあやかの頭に手を乗せた。温もりが熱を持つ。噴出するあやかの痛感が、ヒロイックの肉体に熱を帯びさせる。あやかは震える腕でヒロイックを抱き締めた。

 ヒーロー、英雄。この世全てのために身を砕く。

 そんな過酷な道を思えばこそ。


「ありがとう」


 ヒロイックは言った。あやかは何も言えない。お礼を言うべきは自分なのに。千切れた右腕を押しつけられて、千刺しにされたリボンの暗幕に言葉が出ない。


「お願い。そこで見ていて」


 ヒロイックは言った。


「誰かが見てくれていれば――――私は、きっと、英雄のままでいられる」


 リボンと鎖と無数の分銅。ありったけを展開してヒロイックは走り始めた。魔力に反応したか、ネガが出鱈目に刺突を振り乱す。優雅な体捌きで英雄が舞う。片腕を失ったばかりとは思えないほどに。


(俺も、行かなきゃ)


 ヒーロー。マギア。自分だってそうだ。

 拳を握り、ようやく走り出そうとして。


「なんだ、アレ⋯⋯⋯⋯ッ!?」


 ネガの球体から放たれる無数の刺突。その根本から不自然なほど真っ白な矢印が、夥しい数が、まるでスコールのように降り注ぐ。


「ヒロイックッ! 右斜め前だッ!!」


 英雄がウインクを返した。あやかの位置からなら、攻撃が薄い場所を目視出来る。自分もロード魔法で避け回り、ヒロイックに大声で指示を飛ばす。

 陣形は整った。だが、あやかは近付かなければ攻撃出来ない。しかもこのネガには打撃が通らないのだ。ヒロイックにも斬撃の魔法は無かったはずだ。


(けど、考えがあるんだろ?)


 なんとかするはずだ。だからこそ、彼女は英雄になれたのだ。


「りり」


 舌で転がす。既定行動ルーティン。平常心を呼び起こし、感情を終極させる。あやかの右手首に絡まるリボン。もう片方はヒロイックの左手首に。あやかは立ち止まる。極力立ち位置を変えないままネガの攻撃を回避する。

 意図が繋がった。

 糸が繋がった。

 血が伝わった。ヒロイックの傷口から流れる血が、伝う。細い細い、希望の糸。『束縛』の魔法が召喚したリボン。それを細く、強靭に、凝縮し、磨き上げる。即席の大ギロチンだった。ヒロイックの豪脚が上がる。


「りりりりりりり」


 ネガが鎖に巻き上げられた。仕込みは十全。『M・M』の呪詛が浸食するが、それより速く、ハンマーのように脚を引き戻す。姿を見せた『M・M』。呪詛人形。小柄な少女の風貌は、よく見れば真由美に酷似していた。


(『創造』の魔法で造った自律人形――――?)


 それが正体か。真由美そのものではなく。


「逃す、かぁあああッ!! リロードロードッ!!」


 ネガから離脱しようとする『M・M』を、複数のロード魔法が包み込む。行動を制限されて逃れられない。隕石のような勢いで墜落するネガからは。


「りりりりりりりり、りりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり――――――ッッ!!!!」

「いっけええええええええええ――――――ッッ!!!!」


 力技ながら、繊細さは折り紙付き。ネガの心中を、糸ギロチンが真っ二つに両断する。一撃、必殺。問答無用の一閃両断。

 だが、決着はまだだ。

 分断された上半身。『M・M』が最期の力を振り絞ってヒロイックに飛び掛かる。ヒロイックはその脚を上げなかった。流石に力尽きたか。それとも。


「今行くッ!!」

「来ないでッ!!」


 あやかの足が縫い止められる。深く重い、呪詛の叫びだった。わざとあやかに背を向ける。どんな表情をしているのか、見られたく無いから。


「どちらかが、抑えないと」


 呪詛刻印に蝕まれ、ヒロイックは倒れた。ネガは完全に沈黙。結界も崩れ始める。だが、『M・M』の力もほとんど残っていないようだった。あやかの方までは追ってこない。


「どのみち、私はもう戦えない」

「戦えないからってなんだよ!? 俺が戦う! アンタはちゃんと休んでくれていいんだ! もう英雄である必要はないんだ!」

「そんなこと、言わないで⋯⋯お願いだから」


 ヒロイックが顔を向けた。憔悴し切った、それでも満足感に満ちた表情。ここから生き残るのを諦めたわけではない。むしろ、進んでそうしたいと望んでいるような。


「私は好きで英雄になったわけじゃない。そんなスゴイ人じゃないの。ただ、そうじゃないと生きていけなかっただけ。私にはこの生き方しかないの。

 みぃなは死んだ。一間ちゃんも死んだ。寧子ちゃんも死んだ。次の子を求めても、きっと同じ。私は誰にも助けてもらえない。ずっと独り。でも、もういいの。独りでも、英雄でさえいられれば――――」


 独りになりたくない。

 その願いに、背く。


「だからお願い⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯英雄のまま、死なせて」


 何も言えない。言葉も、感情も。想像を絶する世界。英雄ヒロイックが歩んできたものは。その終着点は。



「ありがとう。

 フェアヴァイレドッホ――――狂乱怒濤ヒロイック



 崩壊する結界の中に、もう一つの結界が産まれる。あやかは取り込まれなかった。拒絶されたのとは違う。託されたというのも違う。あやかはただ、一つの結末を見届けただけだ。


英雄ヒーロー、か」


 ヒロイックのネガは、徹頭徹尾自分の世界で閉じている。関わりのある三人の死体が取り込まれた。そして、脆くも異界は崩れる。自分の世界と心中したのだろう。


「俺が目指したものは、夢見たのは、こんなものなのか⋯⋯?」


 『M・M』は滅した。残るは真由美とジョーカーだけだ。あやかは温もりを失いつつあるヒロイックの右腕を抱き締める。マギアが触れていれば、人体の一部は結界の外に助け出せる。いつだったか、デザイアが言っていたことだった。


「違う」


 その生き様は否定しない。出来ない。

 だから、そうじゃない。あやかは自分でも恐ろしくなるほど冷め切った言葉を吐いた。否定するのは、自分の意志。


「俺が目指したかったものは、こんなものじゃない」


 英雄にはならない。

 ソレは、あやかが目指すヒーローとは違うものだ。


「ジョーカーを倒して、全部終わらせる」


 英雄願望トロイメライが夢見た世界、それを一層見失う。あやかは縋るように英雄の右腕を抱き締めた。

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